初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心1
『――私は何時か、この決断を後悔するでしょうか?』
「ねぇねぇ、山吹く〜ん。あたしの姉ちゃんがファンなの、サインちょうだ〜い」
「おれもおれも、親戚の兄ちゃんがほしいってー」
つい数分前にも聞いた言葉。そして昨日も一昨日も、物心ついた頃から繰り返し聞いている音の羅列。
クラスメイトの顔ぶれは学年が上がれば自然に変わる。しかしそんな細やかな変化では、山吹の日常に小石が転がるような変化も齎さない。
おそらく彼が、『雪白山吹』でいる限り延々と続くであろう日常の一コマ。
「ああ。構わないよ」
そして山吹はその現実を驕ることなく臆することもなく受け入れる。
母親は誰もが知る有名女優で、山吹自身も子供ながらに『役者』という道を歩んでいたからだ。
「きゃあ! やったー!」
「あんがとー!」
クラスメイトの少年少女達はキャッキャッと纏わり付いてくるが、山吹を『友人』だとは思っていないだろう。
けれど彼等にとって『雪白山吹が特別な存在』という現実は変わらない。キラキラと輝く憧れの対象。変化のない現実にポンと現れたスーパースターなのだ。
「邪魔だ。どけ」
「きゃ! なによ、山吹くんが見えないじゃない!」
「うるせー。オレが席に座れねーだろうが」
毎朝繰り返されるお祭り騒ぎ。他クラスからも人が集まり、教室の入り口は黒山の人だかりで溢れ返っている。
その押し競饅頭状態を掻き分け前へ進むのは困難。しかし一人だけ、遠慮なく足を踏み入れてくる人物がいた。
「やぁ、緋色。今朝も元気だな」
その少年――秋空緋色は、まるで海を割るモーゼのように山吹までの道を創る。
当然、周りの人間は不満たらたらだ。けれど誰も緋色に面と向かって歯向かわない。本気で喧嘩を吹っ掛けても、自分達に勝ち目がないと理解しているからだ。
一言文句を言えば、蜘蛛の子を散らすように自分達の席やクラスへ戻って行く。
「おー。お前も、朝から人間磁石っぷりが邪魔くさいな。山吹」
朝の挨拶を軽く交わし、緋色はランドセルをドカリと下ろす。彼の席は山吹の前列なのだ。
「大体あいつ等、昨日も同じような理由でサイン強請ってただろ」
「昨日は弟の分だよー」
「うるせー! 家に一枚ありゃ充分だろうが」
横から茶々を入れるクラスメイト。
それに牙を剥き透かさず追い払う緋色。彼は気が強く、そして短い。所謂“ガキ大将”タイプの子供だった。
栄光への階段を順調に歩んでいる山吹とは接点がないようにも思える緋色だが、彼との付き合いは長い。それこそ物心ついた頃からの『友人』なのだ。
「お前も毎朝人間渋滞引き起こしてないで、適当に断れよな!」
椅子にもドカリと座り、緋色は山吹の机に肘をつく。
言葉自体は至極当然な忠告でも、鋭い三白眼の前ではまるで脅されているようだ。まぁ、その言葉の何%かは本当に文句なのだろうけれど。
「いや、気を付けている積りなのだがね。求められると応えたくなってしまって」
そっと緋色に耳打ち、山吹は心の内側を明かす。
「すまない、私の悪い癖だ。緋色にも迷惑を掛けてしまったな」
自分よりも遥か年上の人間と肩を並べ、競い合う世界に生きる山吹。その口調や性格は妙に大人びて、既に出来上がっていた。
そんな山吹だからこそ、別世界の存在の様に感じさせてしまうのだろう。
「ッ、……ただの愚痴に本気で謝んな」
「ははは。そうか、緋色も私と話がしたかったのか」
「チッ。なんかムカつくな、その余裕」
緋色が気に入らないと言うように舌打ち、そっぽを向く。
しかし山吹の頬はホワホワと綻ぶ。予想が当たったのだ。嬉しいではないか。
「たまに、グチャグチャに泣かせたくなる」
「え?」
しかし、ポロリと落ちた緋色の言葉に山吹の肩はギクリと固まる。まさか長年の友人から“敵対心”を匂わされるとはショックだ。
「ひ、緋色……」
「あー? 何だよ、珍しく切羽詰まって」
何故だか山吹の心に不安が広がる。緋色は呼びかけに応じたものの鬱陶しそうだ。
「その件は給食のプリンと引き換えに水に流してほしい、のだが」
「は?」
「いや。食べ物で人の心を懐柔するなど卑怯な手段だが……緋色はプリン争奪戦に毎回参加しているし、好物なのかと思ってだな」
遠回しな言葉を重ねるほど山吹の全身を羞恥が染める。しかも緋色からの反応は薄く、それがまた恥ずかしい。
「つまり私は、緋色と喧嘩したくない」
一度息を吐き出し、山吹は呼吸を整える。
カメラの前でも感じた事のない緊張の意味は友情の危機を回避したいが為だ。
「ああ。別に実行する気はねぇよ」
逸らされていた緋色の視線が山吹に戻る。その表情は何故か晴れやかだ。
「つか、いい気分だ」
鼻歌でも口遊みそうな緋色。機嫌は良いようだが、まさか山吹の焦りが気に入られたのだろうか。
それを確かめる間もなく授業開始を告げるチャイムが鳴り。山吹が緋色の言葉の意味を理解したのは、実に数年後の事であった。
「ハッハッハッ! 今日は大漁だ」
「緋色くんいいなー」
緋色は宝物でも見せびらかすようにプリンを並べる。その数は3個。緋色本人のものと、約束していた山吹のもの。そして余ったプリンを数人の男子と死闘(ジャンケン大会)の末に勝ち取ったのだ。
当然、周りのクラスメイトは羨望の眼差しを緋色の机に注ぐ。幼い子供の目線では『プリン3個』など夢のような光景だ。
「ね〜。後で余ったカップちょうだ〜い」
食欲旺盛な男子だけでなく、普段は食事マナーに煩い女子も寄って来る。狙いは美味しい美味しいプリンではなく“山吹が触った容器”だ。
「やらねーよ。お前は山吹のものが欲しいだけだろ」
「なによ、ケチ〜! 山吹くんの友達だからってズルいわよ」
可愛い女子の願いも跳ね除け。緋色はプリン容器の蓋をペリペリ剥がす。そして大きな口をあーんと開け、甘く蕩けるプリンを頬張った。
それは山吹が譲ったプリン。そしてその容器には緋色の指紋が、『自分の所有物』だと教えるようにベッタリ付いていた。
「ホレ、山吹。勝者のプリンをお前にやるよ。友情の証にな」
上機嫌の緋色が勝ち取ったプリンを山吹の机に置く。市販のプリンはすべて同じ味。無意味にも思えるトレードだが、それは緋色が情熱を掛けて手に入れたものだ。
「いいのか?」
「ああ。2個もありゃ充分だ。それに喧嘩する気なんざ、最初からねーよ」
「なら、遠慮なく頂くよ。緋色」
「おー。食え食え、見せつけるように食ってやれ」
一番の友にそこまで言われては受け取るしかない。山吹は勝者の証しであるプリンを快く食した。
甘いプリンは口内でトロトロに蕩け、ほろ苦いカラメルが舌に馴染む。どれも同じ味だと思っていたけれど、心の底まで染み込む優しい味だ。
その理由は『友情』という隠し味。結局、山吹の心が緋色に甘く弱いのだ。
「で、今日はどうなんだ?」
食べ終わるタイミングを見計らい、緋色が問う。
先にも述べたが、山吹は役者という道を歩む身だ。そのスケジュールは多忙で、自由な時間は中々取れない。
それもまた、親しい人間関係の育成が順調に進まない要因の一つ。実際緋色は付き合いが悪い山吹の『友人』を、よくやってくれている。
「仕事は入っていないが、殺陣(たて)の稽古があってな。……遊べたとしても30分くらいしかない」
「なんだ、つまらん」
毎日同じ質問をしてはその度に意気消沈する緋色。山吹も申し訳ない気持ちで一杯だが、それも自分が選んだ道なのだからしょうがない。
「チャンバラくらいオレとでも出来るだろ」
「そういうものとは違うよ。緋色」
二個目のプリンもペロリと平らげ、緋色が口を尖らせる。
しかし山吹が心血を注ぎ取り組む殺陣は厳格な師範代に習う本格的なものだ。
「何時か時代劇にも出てみたいからね。サボれないさ」
「ま、へっぴり腰で刀振るう山吹なんざ見たくねーしな。我慢してやるよ」
渋々ながらも、緋色は聞き入れる。山吹も一安心だ。
「なによ、偉そうに。山吹くんは悪くないのにねー」
「ねー。遊べるだけいいじゃない」
しかし、その様子を遠巻きに見ていた女子数人がヒソヒソと影口を叩く。
それは緋色に対する嫉妬心。この小学校だけでなく、全国の女子憧れの的である山吹。その友人という立場が羨ましいのだ。
「聞こえてんぞ、うるせー女子共!」
「きゃー! 怒った〜」
「こわ〜い!」
右手を高く振り上げ、緋色が声の方へ怒りを飛ばす。当然か弱い女子達は悲鳴を上げた。
「緋色、女性には優しく接しなければならないよ」
「きゃん。素敵」
「やっぱり、カッコイイ〜!」
山吹は緋色の拳に右手を伸ばし、怒りを下げさせる。
映像(ドラマ)の中からそのまま抜け出たようなスマートさに、女子達も骨抜きだ。
「けれどね、私の友人の事も余り悪く言わないでくれるかい?」
「はぁ〜い。分かりましたぁ」
可憐な瞳をハートに輝かせたまま、女子達は頷く。本当に理解して貰えたのかは不明だが、喧嘩に発展せずに良かった。
「ケッ。現金な女共だ」
緋色は未だ不機嫌そうだけれど、怒りの矛は引っ込めている。少しすれば何時もの調子に戻るだろう。
そう、これは山吹の日常の一コマ。見慣れたやり取りなのだ。
◆◆◆
「ハッ!」
額から流れる大粒の汗が頬を伝い、機敏な動きに合わせて空に散る。
成長著しい山吹の両手にもズシリと重い木刀。稽古中の道場は閉めきり、蒸し暑い。
「踏み込みがあまい。もっと腰に力を入れなさい!」
「はい!」
立派な口髭を蓄えた初老の師範代は見た目通りに厳しい人間だ。子供の山吹にも容赦なく指導する。
「ハッハッ! えいッ!」
直ぐ様山吹は注意された場所に意識を送り、改善に結びつける。動きは更に機敏に、そして重厚さも加わった。
「すっげ。アイツの年っていくつだっけ?」
「ああ。外見育ってるけど、確か9〜10くらいだったかな? うちの妹も騒いでたわ」
まさに現代に蘇った少年剣士の図。他の生徒達は唯々感嘆の声を洩らすのみ。
何事においても飲み込みの早い山吹。そのカリキュラムは同時期に習い始めた生徒達の二歩先を進んでいた。
「コラ! 静かにせんかッ!」
「はいっ! すいませんした」
師範代に注意されて、生徒達は慌てて木刀を構え直す。それは山吹よりも年上の中学生二人組だった。
「7時か」
更衣室のロッカーを開け、山吹は取り出した腕時計で時間を確認する。
殺陣の稽古は問題なく終わり、今は帰宅の準備中だ。
(菜花はもう、夕食を済ませた頃かな)
稽古着を脱ぎ、濡れタオルで汗を拭く。その脳裏に浮かぶのは可愛い妹の姿。
未だ保育園に通う小さく可愛らしい菜花。ふわふわと柔らかい微笑みは兄の目を盲目にさせる愛らしさだ。
「お先に失礼します」
「おー」
未だ喋っている生徒達に帰りの挨拶を済ませ、山吹は道場を後にした。
季節は肌寒い冬。ダッフルコートの帽子までキッチリと被り、冷たい北風を防御する。
一人歩む帰り道は薄暗く、オレンジ色の街灯だけが道標。闇に染まった空は厚い雲に覆われて、月光さえも届かない。
「……あの、君」
「はい?」
不意に声を掛けられ、振り向く。山吹の背後には一人の人間が佇んでいた。
背格好はスラリと高く、線も細い。所謂モデル体型。山吹を引き止める右手も白く、透き通っている。まるで雪にでも染められた様に美しい。
芸能界に携わる人間だろうか。しかし山吹がその素性を確認する前に、事態は動く。
「もしかして、山」
「何やってんだ、テメーは!」
中音域の流麗な音色を遮り、怒号が飛んでくる。まるで弾丸のような衝撃だ。
「どうした、緋色。こんな時間に?」
「行きたくもねー塾の帰りだ。つか、今はどうでもいい」
緋色はツカツカと近付き、山吹の腕をガシリと掴む。その目は警戒心バリバリだ。
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