初恋は桜の中で
サクラとツバキ7


「……ん、」

 チュンチュン。一日の訪れを告げる小鳥の囀り。海を彩る波の音。夜の気配を残す深い瑠璃。夜明け前の空色。見慣れない部屋の壁紙

(もう、朝か)

 長い睫毛に縁取られた瞼がゆるりと開かれ。ツバキ色の瞳が、世界を映し出す。

「おはよう。一夜」

 新雪のように白く美しい指先が、愛しい漆黒を梳く。椿は一夜の髪を触るのが好きだ。サラサラ、と。柔らかい感触。癖になる。

「……ん〜。つば、き……」

 あどけない寝言が返された。時間は早朝。一夜の意識は深い夢の中。眼が覚めて最初に映る愛しい少年の寝顔。
 椿の心に深い慈しみが広がり。閉じられた瞼に唇を寄せた。ふんわりと柔らかい感触がこそばゆいのか、一夜が身じろぐ。

「愛してる。一夜」

 椿は愛の密語を囁き。隣に寝てる一夜を起こさないように、ベッドから抜け出す。物音に気を付け。サイドテーブルにメモを残し。部屋を出た。



「あいうえおあお」

 揺蕩う地平線。海の切れ目から、金色の筋が浮かび。明るい陽の光が、紫黒の艶髪を照らす。
 椿の朝は早い。太陽が世界に顔を出す前に、身を整え。発声練習を始め、演技の基盤を固める。椿は自分の事を、山吹のような天才だとは思っていない。すべては日々の努力。凡人が天才に憧れるのならば、血を吐く覚悟を決めていた。

「あーあー。ん〜〜」

 椿は喉を右手で押さえ。音程の調子を確認する。椿は昨晩。一夜と、深い時間まで――愛し合っていた。音が嗄れるほど喘がされ、その声音は掠れている。喋る分には問題ないけれど、今、芝居をしろ、と。言われれば、多少の支障はあるだろう。
 椿が一夜と朝を迎えたのは、二度目。数少ない逢瀬の中で、昨晩は大胆な行為をしてしまった、と。椿は思う。一夜に“抱いていたイメージと違う”と、失望されていたら、ショックだ。

「椿」

 椿は渚の細波に耳を傾け。声帯の調整をしていた。その背に、声がかかる。それは聞きなれた、重厚に響くバイオリンのような重低音。
 椿は振り返り、親しい人間に向ける柔らかい笑みを浮かべた。

「兄さん」

 海風に揺れる亜麻色の艶髪。山吹が椿に慈愛深い笑みを向け、砂浜を移動して来る。
 山吹はバカンスを楽しむラフな格好をしていた。有り触れたポロシャツも、山吹が着ているとオーダーメイドされた高級品のようだ。

「おはよう」

 山吹は椿の横に立ち。潮騒に耳を傾けた。秀麗な輪郭が朝焼けに照らされる。

「ああ。今朝も早いな」
「ん、……」

 山吹は椿の努力を褒めるように頭を撫でた。暖かな兄の温もり。大人の山吹から見れば、椿などまだまだ子供だという事か。

「――あの話。考えてくれたか」
「……」

 山吹は優しい兄の顔を崩さず、椿に問いかける。その台詞に、椿は喉を詰まらせた。
 山吹は以前から、椿の才能を見込み。オーディションを受けてみないか、と。進めていた(以前、緋色が椿の元に訪れたのも、それの使いだ)。けれど、当の椿はそれに難色を示していた。
 椿が演劇の道を選んでいたのは『山吹の弟』という自らのアイデンティティーを守るため。不順な動機だ。『俳優』という将来を夢見た事はなく。山吹と同じ舞台に立ち。対等に渡り合える程の実力が備わっているとも、思っていない。椿は周囲からの評価を正しく理解している。所詮は“七光”の実力。素人は騙せても、プロの眼は誤魔化せないだろう。

「この旅行に賛成したのは、僕の機嫌を取るため?」

 椿は重たい唇を開く。山吹は俳優の仕事が忙しく。纏まった休みなど、滅多に取れない。その兄が貴重な休日を捧げる程の価値。そんなもの、椿にはない。

「一夜まで、誘って。気分が良くなったら、僕が受け入れると思った?」
「否定はしない。私は、椿に才能があると思っている」

 椿は山吹の回答に得心がいく。緋色が旅行を思い付いたのは、事実なのだろう。山吹はそれを渡りに船、と。自分の計画を織り交ぜたのだ。椿が“一夜の喜び”に弱い事を知って。何も知らない一夜の純真を利用し、計画の一部に組み込んだ(そうでなければ、普通は反対している)。すべては椿の将来を考えて。

「兄さんが、そこまで僕の事を考えるのは“あのひと”の子供だから?」
「ッ!」

 山吹が喉を詰まらせる。動揺を隠しきれないその反応が、椿に正解を教えていた。

「……やっぱり。そうなんだ」

 山吹の応えに、椿の心は悲鳴を上げた。椿は山吹を敬愛している。弟として、兄に尊敬の念を抱いていた。けれど山吹の愛情は椿ではなく、瓜二つの人間へと向けられている残像でしかない。

「オーディションは受ける。その代わり、一夜をこれ以上巻き込まないで」

 椿は辛い現実から眼を背けるように、山吹から視線を外した。地平線から顔を出した太陽の光が眩しく、瞼を閉じる。闇に染まる視界。真っ暗な世界に、桜の花弁が雪のように舞い。美しい輪郭を浮かび上がらせた。それは、椿と瓜二つの容姿を持つ。父親の顔。

「椿、桜雪(さゆき)さんは」

 山吹の眉が辛そうに歪む。隠してはいるけれど、山吹は椿の父親――凛音桜雪(りんねさゆき)に特別な感情を抱いていた。それは忘れられない、初恋。山吹が椿に優しいのは、桜雪の息子だから。椿はそう考えていたし。緋色が椿に対して良い感情を抱けなかったのも、桜雪の存在が関係していた。

「戻ろう。兄さん」

 椿は山吹の言葉を遮り。“可愛い弟の顔”を作る。桜雪を庇う山吹の台詞など、聞きたくなかったのだ。




「ぁ、椿」

 椿がコテージに戻る、と。一夜が食器を運んでいた。キッチンからは、卵の焼ける匂いが漂っている。緋色が朝食の準備を始め。一夜はその手伝いを買って出たのだろう。
 一夜はテーブルにトレイを置き。椿の元へ歩んで来た。変化を見せないポーカーフェイスが、心配そうに歪んでいる。

「大丈夫ですか」

 椿の纏う空気に、普段とは違う何かを感じているのだろう。一夜は椿の瞳を見詰めたまま、言葉を紡ぐ。愛しい音色。椿の心が一夜に救われてゆく。

「ああ。今、大丈夫になった」
「?」

 椿は一度、息を吸い。吐くと。父親の影を吹っ切った。事情を飲み込めていない一夜は、疑問府を浮かべている。

「後で話す」
「ん、」

 椿は心配ない、と。漆黒を撫でる。一夜の瞳が擽ったそうに細められた。それにまた、心が綻ぶ。

「俺、椿の話を聞くことしか、できなくて……情けないです」
「それは僕も同じだ。一夜、君をあの男(千夜)の呪縛から救えない事を歯痒く思っている」

 椿は一夜がそうであったように、家の事情を包み隠さず彼に話していた。それは恋仲に成る以前から共有している。一夜と椿の心の傷。それを分け合う事で、少年達の絆は急速に深まり。何人たりとも侵入を許さない聖域を形成していたのだ。

「――椿。仲良しなのは、良いが。そんなに堂々とされると、兄さん……複雑だ」

 一夜と椿はお互いを硬く抱き締め、絆を深める。
 椿から遅れる事。一分。山吹がコテージの扉を開け、目の前で繰り広げられている世界に項垂れた。

「俺は、椿がいてくれるだけで……!」
「一夜……ッ!」

 けれど、大輪の薔薇を咲かせる一夜と椿の耳に山吹の声音は届かず。二人だけの世界を構築し続けている。
 山吹はガクリと肩を落とした。凛と気丈な弟のラヴ・シーンに、ショックを受けたのだろう。

「やっぱり、椿くんはツンデレさんだわ〜」

 菜花がダイニングルームに顔を出し、舞い散る薔薇に気づいた。菜花は山吹と違い。完全に喜んでいる。



 ◆◆◆



 夏の海を彩る潮騒。白い渚。きめ細かい砂粒の感触。潮の匂い。
 椿は朝食後。一夜を海辺へと連れ出した。心を痛めた事情を説明する為だ。

「――兄さんが高校生の時には、もう“天才”と呼ばれていた」

 椿は砂浜に腰を下ろし。広大な海を瞳に映す。サファイアのように澄んだ蒼が、陽の光を受けてキラキラと輝いている。

「僕は駄目だ。何時まで経っても“七光”のまま」

 椿は絶望するでもなく、悲観するでもなく。ただ淡々と、現実を語った。椿と山吹の才能の差は歴然。山吹は身内の欲目から、椿の演技を過大評価しているに過ぎない。

「多分。オーディションも受からない」
「……」

 椿の横に、一夜が腰を下ろす。一夜は椿が語り終わるまで、余計な口を挿まず、耳を傾けていた。一夜は何時もそうして、椿の話を聴いてくれる。

「椿は、俳優に成りたい……ですか」
「分からないな。演劇部でも、邪魔者扱いだし」

 椿は一夜の問いに、自嘲を浮かべた。実力派揃いの演劇部と言っても、所詮は素人の集まり。そんな彼らですら、椿の存在を異物扱いしている。
 演技のプロたる役者。その道は厳しく険しい。
 椿のような存在は真っ先に、潰されるだろう。渦巻く嫉妬の炎に焼かれて。差別的な視線に心を切り刻まれて。自ら茨の道に飛び込む覚悟が無ければ、生き残れない。

「僕は役者に憧れていたのでは、なくて。兄さんに憧れているだけの、半端者だから」

 椿は思う。本気でプロを目指している者から見れば、椿のような存在は邪魔でしかなく。有名な血縁を振りかざす。愚かなピエロにしか見えないだろう、と。

「椿が嫌なら、無理に成らなくても、いいと思います」

 でも、と。一夜が静かに続けた。

「俺は、椿が努力しているの、知ってます。だから、半端者なんかじゃない。です」
「ッ……!」

 一夜は椿に、拙いながらも一生懸命な言葉を伝える。その真剣な音色が、椿の心に沁み込む。見せないようにしていた、演技の下地。一夜はそれに気づいていたのだ。

 椿が山吹に演技を習ったのは、幼稚園に通いだすくらいの幼い頃。
 山吹が何時も読んでいる台本が気になり。眠りに付く前。絵本を読んでやろう、と。優しく微笑む山吹に、無理を言い。ドラマの脚本を見せて貰った時だ。幼い椿は声の出し方も、感情の込め方も知らず。台詞に成っていない音の羅列を言葉にした。それは兄を真似る弟の姿。山吹はその姿勢に感動を覚えたのか、椿に演技の基本を教えた。椿はその言葉を胸に仕舞い。生活の基盤にした。山吹に習った基礎練習は勿論。物語を伝える声を大切にし、喉のケアを欠かした事もない。それは幼い日から、一日も怠った事のない。椿の日常。積み上げられた努力の軌跡。
 けれど、椿がそれを表立って自慢した事はなく。難しい役を割り振られても、涼しい顔を作り。それを難なくこなしているように、見せていた。優雅な白鳥が、水面下では必死に足掻くが如く。血反吐の痕跡を隠し。演技の道を歩んでいたのだ。

「俺は、演技の事。よく分からないから、椿の役に立てない。ですけど……椿が、お兄さんの事を好きなのは、分かります」
「違う。一夜」

 椿は一夜に首を振った。椿が山吹の事を好きだ、と。いうのは、正解している。けれど、肝心な問題を読み違えている。椿が一夜を“役立たず”だと思った事など、唯の一度もない。一夜は今も、椿の努力の欠片に気づいて。理解を示してくれた。

「僕は君の存在に、何度も救われている。一生愛すると決めたひとが、一夜で良かった、と。心の底から思っている。だから、役に立たないなんて言うな」
「ッ……」

 一夜は本当に、椿の心を簡単に攫ってしまうから。雪のように舞う桜の花弁を、動かない父親の顔から。一夜と初めて言葉を交わした日の思い出へと塗り替えてしまった。
 椿が空に舞う桜色を見て思い出すのは、写真の中から抜け出さない桜雪ではなく。誰よりも愛しい一夜の姿だ。

「俺、椿にそんな事、言われたら……」
「嬉しくて――キスしたくなる?」

 椿は一夜の思想を先読みし。悪戯を仕掛ける小悪魔のように、一夜の腕に身を擦り寄せる。緩やかな波の音を近くで聞きながら、甘い密語を囁き。椿の細腰に、一夜の腕が回された。

「一夜……んぅン」
「んっ……椿」

 砂糖菓子のように甘い吐息が、鼻孔を抜け。鼓膜を擽る。一夜の唇が息継ぎの為に離れ。夜明け色の瞳に続きを強請る。夢中で唇を吸う淫らな音が、白波に攫われていた。



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