初恋は桜の中で
サクラとツバキ4


 海にオレンジ色の太陽が沈む。空が青紫色に染まり。焼かれるような暑さが下がってゆく。涼やかな海風が、肌を優しく撫ぜた。
 海辺に建つヨーロピアン風のコテージ。元々別荘として使用されていた建物を、貸し別荘として改築した建築物。砂浜まで迫り出したテラスは広く。六人の人間が足を踏み入れても、空間には充分な余裕が有った。
 備え付けの冷蔵庫から材料を運び出し、準備を始める。ジュウ、ジュウ、と。肉や野菜の焼ける音。本日の夕食は、バーベキュー。昨晩から仕込んでいたという肉は軟らかく。空腹の胃に吸収されてゆく。

「おら、もっと食え」

 一夜が食べ終わる前に、紙皿の上に新しい串が追加された。緋色がトングをカチカチと鳴らしている。
 強面な外見からは想像し難いけれど、緋色は料理が得意だ。レストランで出てくるような、凝ったものではなく。食材が大きく切られた、豪快な男の手料理。

「ぁ、ありがとうございます」

 一夜が礼を返すと、緋色は満足そうに笑み。山吹の皿にも、肉串を追加する。
 山吹は既に二本目を食べ終わっていて。新しく焼き上げられたそれに、舌鼓を打っている。山吹は緋色の料理も好きなのだろうな、と。一夜は思った。

「食べられそうにないなら、無理はするな」

 一本目の串を食べ終わった一夜を見ながら、椿が言う。
 一夜は小食だ。ボリューム満点のバーベキュー。皆が二本、三本と食を進める中。やっと、一本目の串を完食していた。椿はそれを、気に掛けているのだ。
 確かに一夜の胃は空腹感よりも、満足感を伝えている。けれど食べられない事もない、海で遊んで体力を消耗したからだ。

「大丈夫、です」
「そう、でも。限界だと思ったら、言えよ」

 短く伝えられた一夜の言葉から、椿は心情を読み取り。納得を見せる。
 一夜の口数は相変わらず少ない。けれどそれを受け取る椿は、不便など感じていないように、一夜に言葉を返す。
 一夜の心臓が音を奏でた。ドックン、ドックン、と。甘やかな音。それは勘違いではない、恋の旋律。椿は一夜の拙い言葉から、それ以上を感じ取る。一夜はそれを、以前から知っていた筈なのに。それが椿の愛情の欠片だと気づいた今は、愛しい感情が溢れて。堪らなくなるのだ。

「そうだよねぇ。お肉食べて、精力付けとかないと――めくるめく……夜・に・そ・な・え・て」
「ッ!」

 一夜の左耳に吐息がかかる。一夜の右隣には椿がぴたりと寄り添って居て。左隣には、聖祈がいた。距離は一mほど離れていたけれど、聖祈の耳には一夜と椿の会話が聞えていたようだ。聖祈はその距離をいつの間にか縮めて、意味深な台詞を囁いて来た。

「天羽聖。また、僕の一夜に馴れ馴れしく……!」

 椿の声音が、怒りに震えた。聖祈は一夜の肩に腕を回して、ピンク色の空気を溢れさせている。それが、許せないのだろう。
 『椿姫』の件は解決を見た。けれどそれで、椿が聖祈に対する姿勢を変える事はなく。軽い性格の聖祈が、変わらず気に入らないようだ。

「もう。そんなに、怒らないでよ。新しい世界の扉が開きそうになるじゃない。それにボク、ちゃんと本命いるから。ウサギちゃんには、本気にならないよ……たぶん」

 椿の冷気に気付いた聖祈は一夜から腕を離し。両手をヒラヒラと上に上げ、降参のポーズを作った。
 聖祈にも想っている相手がいるのだ。所々に挟まれた台詞は、余計だけれども。




 騒がしく過ぎた夕食も終わり。各々が風呂に浸かる。バスルームは広く。白い湯気が、もわもわと天井に向かって上がっていた。

「細いね。ウサギちゃん」
「止めてください」

 桶に湯を溜め、泡を落とす。身体を洗い終えた一夜の腰を、聖祈の指が一撫ぜする。
 湯気を纏う聖祈の胸板は厚く、引き締まっていて。自信を持っているのも、頷ける肉体だった。

「飯食わねーから、細っこいんだよ」

 一足先に湯に浸かっていた緋色が、口を挟む。緋色の胸板も厚い筋肉に覆われていて、男らしい曲線を描いている。
 今バスルームに居るのは、一夜・聖祈・緋色の三人。浴槽は広かった。けれど流石に、五人の男が同時に入れるだけの余裕はなく。山吹と椿は先に入浴を済ませていたのだ。

「ねぇ。椿姫は満足してくれてるの? 体力は有った方がいいよ」
「満足……?」

 一夜は聖祈の台詞の意味が分からず。疑問府を浮かべた。
 一夜の筋肉は薄く。体力にも、自信が有る方ではない。けれどそれに関して、椿から何かを言われた事はなく。体育の授業で疲労困憊を感じた時には『疲れた?』『大丈夫』と。気遣いを向けてくれる、くらいだ。

「ああ。アイツは、ベタ惚れしてるからな。問題ねーだろ」

 緋色は首を回し、肩の関節を鳴らした。長時間の運転で凝っていたのだろう。

「なるほど。最終的にものを言うのは、テクより心ってコトですね。流石は緋色さん」
「押し倒しちまえば、身長差なんて関係ねーからな。山吹の焦る顔が目に浮かぶぜ。アッハハハハハハ」

 緋色の高笑いがバスルームに反響する。聖祈と緋色の間で盛り上がる会話に、一夜の疑問府は数を増やした。

「早く弟離れしやがれ。あのブラコンが」

 緋色の声音が湯気と共に、天井に上がる。雫が湯の中に落ち、ピチョンと音がした。

「……」

 一夜は湯に身を沈め。一日の疲れを癒す。普段はシャワーで軽く済ませる事が多く。大人数で浴槽に浸かった経験も少ない。バスルームを包む熱気に、のぼせそうになる。

「俺、そろそろ」
「待てや。ガキ」
「そうだよ、ウサギちゃん。簡単に逃げられると、思ってるの? 裸の付き合いは、これからが本番だよ」
「ぇ……?」

 浴槽から立ち上がり、バスルームを出よう、と。していた一夜の両肩を、緋色と聖祈が引き止め。引きずり込まれるように、湯の中へと戻された。




 ◆◆◆



 ドライヤーの熱に、ミディアムストレートの艶髪が揺れる。一夜がバスルームで不穏な空気を感じていた頃。椿は髪を乾かしていた。
 椿が居る場所は、バスルームに隣接されたパウダールーム。このコテージの売りは海を臨む絶景と、行届いた設備。優雅さを感じさせる内装は、女性客を意識してのものだろう。

(一夜はあの二人といて、大丈夫だろうか)

 椿の気に入らない人間ランキング、二位と三位。横暴な緋色と、軽薄な聖祈。その二人を相手に、一夜は戸惑いを浮かばせている頃だろう。
 緋色と聖祈に囲まれる一夜。その光景は野獣の檻に抛り込まれた、か弱い黒うさぎ。椿は一夜を野獣犇く浴室などに、送り出したくはなかった。けれど兄である山吹の手前、自分と一緒に風呂に入ろうとも言えず。断腸の思いで、一夜の後姿を見送ったのだ。
 緋色から「お前の愛は重い」と、ツッコまれていたけれど。そんなものは、椿の耳まで届いていない。椿の五感は『卯月一夜』という少年を感じる為だけに、存在していた。

(一夜)

 椿はドライヤーのスイッチを切り。ドレッサーの上に置いた。鏡に自分の姿が映り。髪型を整える。
 椿は自分の容姿が嫌いだ。鏡を覗く度に、思い出したくもない父親の顔が浮かび。気分が沈む。
 椿は演劇部に所属している。演技の確認や、衣装チェック、鏡を利用する機会は多く。その度に、残酷な現実が付きつけられた。
 山吹や菜花と微塵も似ていない。半分だけの兄弟なのだと、嫌でも教えられた。水仙でさえ、椿が山吹と似ていない、と。嘆く。山吹は母親似。それは詰まり、椿が水仙(母親)に似ていない、と。遠回しに告げられたのだ。
 椿と山吹が似ている、と。言ってくれるのは、一夜だけ。一夜の言葉数は少ない。けれど椿の心はその一言、一言、に魅了された。
 一夜は椿に、言葉の宝物を贈ってくれる。椿が一夜に抱いている感情は『愛している』なんて言葉では、表現しきれない。
 椿は一夜に出会うまで『恋愛』という感情は、自分と一番かけ離れた感情だと思っていた。
 椿はその容姿から、敵対心を向けられる対象だった。嫉妬の炎に支配された瞳に、憎悪を向けられた経験は一度ではなく。謂れのない罵詈雑言にも、何時しか慣れていた。
 『優しい恋心』それは物語(演技)の中だけに存在している、絵空事。けれど卯月一夜という少年は、それを一瞬で壊し。椿の心を造り替えたのだ。
 椿は一夜の事しか、愛さない。愛せない。椿のアポロン(愛しいひと)は、永遠に一夜、一人だけ。


「いや〜。顔に似合わず立派で、驚いたよ。今夜のオカズにしていい?」
「止めてください……!」
「男に見られたくらいで、落ち込んでんじゃねーぞ」

 程なくして。聖祈、一夜、緋色の三人が、バスルームから出て来た。身体にホカホカ、と湯気を纏っている。心身ともに、温まったようだ。
 打ち解けた空気。交わされている会話に、椿の耳がピクリと反応する。一夜に視線を向ければ、夜明け色の瞳が“微かに”潤んでいた。

「どうした、一夜。そんなに、怯えて……!」
「つ、……ばき」

 椿は一夜に駆け寄り、両手で頬を包む。顔を上向かせ。思考を読み取るように、瞳を合わせた。一夜は椿の存在に安心したように、されるがままに成っている。
 聖祈が何を勘違いしたのか「人前でキスなんて、大胆だね」と、のたまう。椿の耳は、それを綺麗に無視した。

「風呂で、何かしたな」

 椿は一夜と合わせていた視線を、緋色と聖祈に向け。瞳に冷気を宿した。ちなみに椿は、緋色にも、聖祈にも、尊敬の念など抱いていない。一夜を怯えさせた青年達を、遠慮なく睨み上げる。

「うっせーな。過保護な母親かテメーは」

 緋色は耳を穿り。うんざりしたような表情を浮かべた。緋色から見た椿の睨みなど、子猫の威嚇。氷の矢は軽く交わされ。緋色の炎が燃え上がる。

「そうだよ。男同士の“見せ合いっこ”なんて、よくあるイベントだって」

 聖祈はその光景を思い出したように、頬を蒸気させ。瞳を爛々と輝かせた。色に溺れた、だらしのない表情。それが、椿の琴線に触れる。

「ああ。大体、分かった」

 聖祈の台詞から、状況が理解出来。椿は額に手を当てた。息を吐き。一夜の手を掴む。
 最後に一睨みし、パウダールームを後にした。



 椿は一夜を連れ、寝室の扉を開けた。二つのベッドが並んだ二人部屋。海辺に面した大きな窓からは、星空が見える。

「ぁ、あの……見られただけで、触られたりとかは、ありませんでしたから」

 椿は一夜をベッドに座らせ、漆黒の髪にドライヤーの熱風を当てる。椿は一夜が髪を乾かす前に、パウダールームから連れ出した。だから、一夜の漆黒は未だに濡れていて。湿り気を帯びている。
 一夜はバスルームにパジャマを持って行ったようで、私服から、それに着替えていた。

「それでも、冗談が過ぎる」

 椿は一夜の髪を乾かし終わり。ドライヤーをしまう為に、ベッドから立ち上がった。

「椿」

 一夜の声音が椿を引き止めるように、名前を呼ぶ。静かな足音が、椿の後を追い。唇に体温を感じた。

「んッ……いち、……」

 一夜の唇が、椿のそれを塞いでいる。軽く触れる唇に、椿は瞼を閉じた。一夜の腕が背中に回り。啄ばむようだった口付けは、段々と深くなってゆく。

「ハァ、……椿」

 一夜は椿とキスをする時、背伸びをする。椿よりも身長が低い事を、一夜なりに気にしているのだろう。その努力がいじらしく、愛しさが溢れた。



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あきゅろす。
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