初恋は桜の中で
サクラとツバキ1


 蝉の羽音響く八月上旬。高校生の長い夏休み。
 舗装された道路の上をダークブルーのミニバンが走る。八人乗りの車内は広く、整理が行き届いてる。
 スピーカーから流れるバイオリンの旋律が、耳に優しく。気分を落ち着かせるようだった。

「――強引な男だ。気に入らないな」

 けれどリラックス効果を与えるクラシック音楽をBGMに、車内に吹雪が舞う。
 凛と響く中音域。不機嫌を隠そうともしない声音が、燃える紅に突き刺さる。
 その美貌は精密に作られたビスクドール。ツンと澄ました気性は気高く。人を寄せ付けない。透き通る雪肌は滑らかで。真夏の中に逢っても、その色を失わず。真白な新雪を纏っている。その名のように美しい少年。雪白椿。
 椿は紅髪の男性・秋空緋色に、文句を言っていた。理由は、緋色の独断的とも言える決定に対してだ。

「そりゃ結構。誰も、お前に気に入られようと生きてる訳じゃねーからな」

 椿に言葉の矢が返される。返却されたそれを椿はツンと跳ね返した。
 車は高速道路を走っている。運転しているのは、緋色だ。だからその目線は前を向いていて、不満を浮かばせる椿の眉根を瞳に映す事はない。

「嗚呼。またか」

 椿と緋色の仲の悪さは、車内を包む空気となって。眉目秀麗な男性の悩みを深ませる。
 黒色の大きなサングラスに隠されていても分かる、男らしい輪郭。思い悩んでいる姿さえも、一枚の絵画にしてしまう。溢れる才能。隠し切れない強烈なカリスマ。彼はどんな世界にいても、その輝きを失わない。本物のスター。雪白山吹。

「大体、僕達は図書館で満足していた。それを無断で破っておいて」
「男連れ旅行を許した“優しいお兄ちゃん”に感謝するんだな」

 緋色は助手席に座る山吹を引き合いに出す。けれど山吹は緋色から押し切られる形で、今回の事を受け入れていた。それは周知の事実だ。
 緋色の愉快そうな高笑いが、車内に木霊する。この状況を楽しんでいるようだ。

「……」

 夜明け色の瞳がそれを見ていた。
 現在この車に乗り込んでいる人物は、四人。
 ミニバンを運転する緋色。その所有者で有る山吹。山吹の弟・椿。そして寡黙な少年・卯月一夜だ。緋色と山吹。一夜と椿は恋人同士。
 一夜は数日前・緋色から一方的な旅行の計画を聞かされた。緋色は寡黙な一夜が言葉を挿むよりも早く、すべてを伝え。承諾を押し切った。
 誘い文句はシンプルに『旅行に行くぞ。お前も来い』だ。その姿は暴君のように強引で。椿は一夜の戸惑いと微かな恐怖心を感じ取り、緋色に反発した。
 それが緋色と椿の間で、未だ新鮮さを保っているようで。激しい火花を散らせる原因となっているのだ。
 緋色と椿の争いの種は、山吹を取り合って芽吹くものだった。けれどそれは一ヶ月前までの話。現在ではそれに、一夜の存在が加わっていた。

「……」

 一夜は隣に座る椿をチラリと見やる。
 夏休みに入って、二週間が経過した。一ヶ月以上も有る長い休み。それは毎日のように会っていた恋人達の関係を引き裂く――事もなく。その場所を学園から、図書館に移し。穏やかな日々を過ごしていた。
 街の大きな図書館。静寂が支配する世界。それは秘密の逢引(デート)場所。
 椿の所属する演劇部は夏休みでも色々と忙しいそうで、逢える時間は短い。それでもその場所を選んだのには理由が有る。
 椿が一夜の存在を見つけたのは、中学校の図書室だった。静かに本を読む横顔に、心奪われたのだ。甘酸っぱい思い出を更新するように、初デートの場所は街の図書館に決まった。愛しい恋人と過ごす、緩やかな時間。小さな幸せを感じる空間。
 年頃の少年少女は海だ!祭りだ!花火大会だ!と、浮かれたイベントを楽しんでいる。けれど一夜と椿はそういった場に足を運ばなかった。
 騒がしい場所が苦手、それを理由にしていた。けれど本当は――馴染みがなかったのだ。
 夏休みの楽しい思い出。それは一夜の中に、眠ってはいなかった。千夜は長い休みだからと言って、一夜を遊びに連れて行くような父親ではなかった。椿の母親・水仙もそれは同様で。一夜と椿は双方、夏特有の思い出など持ち合わせていなかったのだ。
 幼い記憶に刻まれていない出来事。それに興味の触手は動かず。一夜と椿が逢瀬を重ねる場所は、初デートの思い出が詰まった図書館に決まっていた。

「一夜君もすまないな。緋色が突然に」
「いえ」

 一夜は車に乗り込んでから、一言も言葉を発していない。山吹はそれを気にしていたのか、弟の恋人に話題を振った。
 緋色と椿は顔を合わせれば喧嘩を繰り返す。取っ組み合いの激しいものには発展しないけれど。それは完璧人間・山吹を悩ませる唯一の種。
 だからなのか、山吹は友好的な音を声音に含ませた。車内の空気が、平和を取り戻す。飛び交っていた言葉の剣。それが山吹の纏うオーラに、折られたのだ。流石は人心を魅了する雪白山吹(スーパースター)。彼は荒れ果てた戦場の如き映像を、一瞬で爽やかな草原に変えてしまった。演技の天才。それは伊達ではない。

「楽しい、です」

 一夜の背筋が緊張に引き締まった。山吹の人柄は優雅で落ち着いていて。それが椿の尊敬する兄なのだと思うと、自然と身が規律する。
 山吹は一人の人間としても、男としても最高レベルの存在。椿はそれを身近に感じながら、育ったのだ。憧れる気持ちが十二分に理解出来き。椿の目標が山吹のような人間像なのだ、と。感じられた。

「なら、良かった」

 一夜の言葉を聞いた山吹は安心した、と。振り返り、弟の恋人に微笑みを見せ。目線を車外に流れる景色に戻した。
 山吹は一夜を気に入っているようで。創作世界でお馴染みの『キサマのような男に可愛い娘(椿の場合は弟だけれど)は渡さん!』などの台詞をぶつけられる事もなく。深い慈愛を向けられていた。

(椿の、お兄さん)

 山吹のそれは、一夜の中で。椿の愛情と重なる。椿は言葉少ない一夜に、会話の助け舟を渡す。然りげなく見えるそれは、あたたかく。親愛の情が込められている。愛情の欠片。
 一夜の唇は椿の前で自然と動き。喉の奥から音が湧くように声帯が振動した。

「っ……!」

 窓ガラスに映る山吹の横顔。それは映画のワンシーン。人々の心を魅了するそれが、空間に潤いを与えていた。
 山吹のそれを瞳に映していた一夜の手の甲に、雪が降る。それは椿の左手。
 一夜は両手を太股の上に乗せていた。椿は一夜の右手をスルリと撫ぜ。白いそれを重ねた。目線は流れる景色を追いながら。一夜に自分の存在を知らせている。

(椿、)

 一夜の中に、他人に触れられている不快感は浮かばない。椿のそれを握り直し。指を絡ませ合う。お互いの体温が伝わり、幸福感が心を満たした。
 一夜は今日、椿と朝の挨拶しか交わしていない。それは喧嘩をしているからではなく。山吹の前で“そういう雰囲気”を作り辛い、と。いう複雑な心境が働いているからだ。その状況下で感じる愛しい体温。山吹と緋色からは見えない位置。けれど少しの動きで気づかれてしまう。スリル。言い知れぬ高揚感が身を包み。心臓が早鐘を打つ。盗み見見た白い首筋は紅く染まり。一夜に隠し切れない気恥ずかしさを伝えていた。
 今回の旅行は緋色の思い付きから始まった。けれど一夜と椿はその間、ずっと一緒にいられるのだ。一夜が椿と夜を過ごしたのは、一度だけ。一ヶ月と少し前。雪白家に泊まりに行った時だけ、だった。
 それも思い返せば、緋色が『泊りに来い』と言ったからだ。緋色にそんな気は、ないかも知れない。けれど一夜は緋色に感謝を抱いている。
 緋色の口から出る言葉は横暴だ。けれどその心根は、あたたかい。山吹は緋色のそんな部分に、惹かれたのだろう、と。一夜は感じていた。



「はぁい。好きな言葉は楽園(パラダイス)将来の夢はハレムの王。みんな大好き、天羽聖です〜!」
「キャァアアアア! 聖ぃいい!」
「抱いてぇ!」
「夢で逢おうね。キュートなレディ」

 無数のハートが天に舞う。羽根のように軽いそれは、女性の目を奪い。虜にしていた。

「……」

 車に運ばれ一時間。休憩の為に立ち寄ったパーキングエリア。この夏開設されたばかりのそこは広く、清潔で。休息スペースには人が溢れている。
 小さな赤ちゃんを抱いている家族連れ。大学生くらいの集団が、楽しそうに騒ぎ。カップルと思しき二人組みは、夏に浮かれ。幼い子供は蝉を見つけに、走り回る。一夜は伝え聞いた事しか、ないけれど。それは有り触れた夏休みの風景。
 けれどその中の一角に集まる人の波が、非現実を伝えていた。その中心にいる人間の姿は遠く、ハッキリと確認は出来ない。けれどその歌うような声音には、聞き覚えがある。
 それは間違えようもなく、天文部の先輩・天羽聖祈。シルバー・グレイの青年が、其処にいた。

「なにあれ」
「なんか、バラエティ番組の撮影だってぇ」

 一夜の後を二人連れの女性が通り過ぎる。漏れ聞えた会話から、状況が理解出来た。 何十人と群がる人の波で見えないけれど、そこにはカメラが回り。撮影スタッフがいるのだろう。
 聖祈は雑誌モデルの傍ら、映像(テレビ)の仕事もいているようだ。新しくオープンしたパーキングエリアの情報を読み上げている声が、風に乗って聞えて来る。

「お茶とスポーツドリンク。どっちがいい」
「ぁッ。ありがとうございます」

 一夜の耳に問いかけが届く。注意を聖祈の声音から、そちらに向ける。椿が500mlペットボトルを二本差し出していた。
 一夜は喉の渇きを思い出し。お茶を受け取った。一口含み、乾きを潤す。ヒンヤリとしていて、美味しい。夏の熱気にさらされていた体温が、下げられてゆく。

「暑いな」
「そうですね」

 椿はそう言って。木陰に腰を下ろした。一夜もそれに習い、隣に座る。ジワジワと鳴く蝉の羽音が、近くに聞えた。
 車内では出来なかった会話に、心躍る。椿と交わす何気ない言葉のキャッチボール。それは一夜の心に、幸せを運ぶ愛しい雪風。

「ウーサーギーちゃん!」

 一夜と椿の静かな、けれど穏やかな時間。その空気を壊すような、低音ボイスが背後から掛けられた。振り向かなくとも、その場に立つ人物が分る。
 一夜の事を“ウサギちゃん”と呼ぶ人間は一人しかいない。撮影を終えたシルバー・グレイに、見つかったのだ。
 一夜の背筋を冷たい汗が流れ。脳裏に、この一ヶ月間され続けたセクハラの数々が浮ぶ。何度拒否しても、しつこく迫る色男。
 奔放な男女関係に、千夜の影が重なり。苦手意識を覚えてしまった。部活の先輩。

「せ、」
「そろそろ行こうか」

 聖祈先輩、と。一夜が音にするよりも早く。椿が立ち上がる。椿は外敵を遮断するように、聖祈の存在を無視し。一夜の手を引いた。

「椿姫!」

 けれど聖祈は無言の拒絶を感じないのか。椿の存在を認識し、歓喜を表した。夏の世界にハートが乱舞する。聖祈は椿の事も、気に入っているようだ。

「……」

 一夜の中で聖祈に対する敵対心が、初めて芽を出した。



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