初恋は桜の中で
愛情の欠片8
一夜が極度の緊張状態から開放されたのは、それから30分後の事だった。
「凄い汗。リビング、暑かった?」
夕食の準備が整った、と。呼びに来た椿が、流れる汗に気づき。一夜の顔を覗きこむ。湿気を含んだ長い前髪が、額に張り付いていた。
「いえ」
椿は濡れる漆黒を指先で梳かし、ハンカチを押し当てる。真白なそれに、流れる大粒が吸収され。清潔な四角形に染みが出きる。
リビングは適温に保たれていた。けれど一夜の意識はそれを感じさせないほど、張り詰めていたのだ。
「仲が、良いな……。椿」
一夜の汗を拭う椿の姿を見た山吹が、喉を詰まらせる。そこに、兄の複雑な心境が垣間見えた。
「付き合っている人がいるなんて。兄さん、知らなかったよ……」
しかも同性、と。山吹は自分と緋色の関係を棚に上げて。項垂れる。
それは世間の人間が知らない、スーパースターの素顔。誰もが見惚れる男前が、哀愁を帯びて佇んでいた。
「ああ。今日からだから、兄さんが知らなくて当然だよ」
椿はショックを受けている兄に、優しく語り掛ける。けれど山吹はその台詞に、止めを刺された。
緋色に告げ口されるのと、本人の口から直接聞くのとでは、衝撃の度合いが格段に違うのだ。
「そうよ、椿くん。お姉ちゃんにも秘密にしてぇ」
何処からか現れた菜花が、椿に向かって。ててて、と。駆け寄ってくる。
菜花の表情は山吹とは違い、輝いていた。それはもう嬉しそうに。
「一緒にウェディングドレス選びに行きましょうね」
満開の花が咲く。菜花は弟の性別をあまり気にしていない。今、彼女の頭の中には純白のドレスに身を包んだ椿がいるのだろう。
「行かないし。着ない」
けれど椿は姉のその夢をバッサリ切り捨てた。菜花の少女趣味に付き合っていたら、時間がいくらあっても足りないのだ。
「え〜? 椿くん。白無垢派なの」
「違う」
椿の言葉を聞いた菜花はぷくぅと頬を膨らます。絶対ドレスの方が似合うのに、と。唇も尖らせた。
それは仲の良い姉弟(きょうだい)の姿。一夜は一人っ子なので、それが少し羨ましく映る。
「ねぇ。一夜クンは、どう思う」
不意に、菜花の声音が一夜に向けられた。蜂蜜みたいに甘いそれが、鼓膜に優しい。
「ぇ……?」
「ウェディングドレスと白無垢。椿くんには、どっちが似合うと思う」
惑い聞き返した一夜に、菜花は微笑む。それは優しい姉の顔だった。
「雪白くんは、男の子ですよ」
一夜は菜花の質問に、真面目に答えた。
椿の容姿は中性的だけれど、一夜は椿を女性だと思った事は一度もない。それに椿は、そう言った扱いをされる事を嫌っていた。
菜花に悪気が無い事は分かる。けれど一夜は、それに乗れなかった。
「――なんだ。椿の顔しか見てない馬の骨だったら、どうしようかと思っていたが。いい子じゃないか」
山吹はそう言うと、一夜の頭を大きな掌で撫でる。未だ兄としての複雑な感情は消えていないのだろうけれど、御眼鏡には適ったようだ。
優しく温かい掌の温もりが、緊張を解す。
「ぁ、」
そして一夜は気づく。山吹のそれが、椿のものと似ている事に。大きさや感触は異なっているけれど、優しく包み込まれるようなその感覚が、似ているのだ。
だから一夜は、椿がそれに愛情の欠片を乗せていた理由にも気づいた。椿は一夜に、兄のような深い愛を伝えたかったのだ。
「雪白くんは、お兄さんと似てますね」
一夜は山吹と過ごした短い時間の中で、それを感じていた。
それは愛情の伝え方だったり。頭の撫で方だったり。演技の才能だったり――色々なもので。そこには確かに、血の繋がりが存在しているのだと感じられた。
「一夜君」
「はい?」
それを口にした一夜に、山吹の真剣な顔が迫る。肩をガッツリと掴む男前に、何事かと疑問府が浮かんだ。
「それを、緋色にも言ってくれないかな」
鬼気迫る山吹の表情。一夜に出された選択肢は、それに頷く道しか提示されていない。
「ハァ? 似てねぇよ。お前、眼球腐ってんじゃねーの」
口にした瞬間に、切り刻まれる言葉。緋色の鋭い刃が一夜に突き刺さった。
「腐っているのは、貴方の精神の方だ」
「ああ? んだと、クソガキ!」
椿が一夜への暴言を取り消せとでも言うように、緋色に食って掛かる。
本来なら穏やかに過ぎ行く夕食の場に、鋭く研ぎ澄まされた氷が降り。緋色はそれに対応する。粗野な言葉は氷を防ぐ盾ではなく、それに対抗する為の炎の刃だ。
「何時もコレでね。正直、困っているんだ」
十人は余裕で囲めそうな長方形の長テーブル。
一夜の斜め向こう側には山吹が座っている。形の良い唇から、溜め息が漏れた。悩みの種は恋人と弟の仲の悪さ。
けれど山吹に解決出来なかったものが、一夜に容易く解ける訳もなく。目の前で弾ける火花が静まる時を、待つばかりだ。
「椿くんってツンデレさんよね」
食卓を挟んで飛び交う火花。悩める色男。その中で菜花だけが、明るかった。
「ねぇ〜。一夜クン」
菜花は語尾にハートマークを付けて一夜に話しかける。花の咲いた笑顔が眩しい。
けれど一夜は『ツンデレ』というものが、よく分からなかった。夏陽が椿の事を『小悪魔』と表現する事があるけれど、実はそれだってよく理解出来ていないのだ。
椿の性格は厳しいところがある。けれど一夜の事を色々と助けてくれるし、親切だ。
一夜は椿に父親・千夜との事情を話している。その時も椿は感情を沈めた一夜の変わりに、理不尽を表してくれた。それで一夜と千夜の親子関係が変化する事はなかったけれど。それでも一夜はその時、椿が怒ってくれた事が嬉しかった。一夜の為に感情を動かしてくれた人間は、椿が初めてだったから。
そして椿は一夜が一番求めていたものをくれた。止まっていた感情の針を動かしたのだ。
「雪白くんは、優しいです」
一夜の中で純粋な友情だと思っていたその感情は、大切な愛情に変化して。心を温める。そしてその瞳は椿への感情を隠す事なく、愛しさに緩む。それは自然に浮かぶ、笑顔。心の底に沈んでいた感情が、ゆっくりと浮上する。
「もしかして。今、微笑(わら)ったの?」
一夜のそれを見ていた菜花が、確認するように訪ねる。その問いかけに疑問が混ざっているのは、長い前髪が邪魔をして、よく見えなかったからだ。
真ん中から左右に軽く梳かれている漆黒。それが感情の変化を外に伝えにくくしていた。
「ぇ……? 俺が、ですか」
一夜は菜花に聞き返す。無意識に浮かんでいた愛しさに、自分自身でさえも気づいていなかったのだ。
「絶対そうよ。雰囲気が優しかったもの」
菜花にそう言われても、一夜自信はピンと来ない。笑顔を作った記憶が思い当たらなかったのだ。それは幼い記憶を紐解いても、見つからず。
だから一夜は菜花に、思い過しでは、と。返した。
「ねぇ、一夜クン。その長い前髪、切らない」
けれど菜花はそれに納得せず。花のような笑顔はそのままに、一夜にその提案を出す。何年も放置状態だった一夜のそれが、菜花の瞳にロックオンされていた。
「……」
一夜は夕食を食べ終えた後、菜花に捉まった。
目的は一夜の前髪を切る事だ。それを知った緋色も「そんな邪魔くさいもの、さっさと切っちまえ」と、菜花に参戦する。山吹も一夜の素顔に興味があるのか、賛成を表明した。椿は黙っていたけれど、一夜が本気で嫌がる事なら反対する。その口から反論が出なかったのは、一夜がその行為を拒絶しなかったからだ。
「うふふ。サラサラね」
一夜の髪をクシで梳きながら、菜花が言う。モデルをしている菜花はヘアメイクにも精通していた。散髪用ハサミを巧みに使い、その漆黒を切ってゆく。
チョキチョキと響く小気味の良い音。切られて落ちる漆黒の髪。そして切られた髪を受け止める為の散髪ケープ。その様子がこそばゆく、一夜は大人しくしていた。知っている人間に髪を切られるのは、これが初めての経験なのだ。
「はーい。完成」
菜花はその台詞と共に、自分の仕事の出来映えに頬を紅葉させ。それを見た緋色もヒュ〜と口笛を鳴らした。眼鏡を外したら、実は美少女でした。ならぬ長い前髪を切ったら、美少年が現れました。という展開に魅入っているのだ。
「あの……」
一人状況が飲み込めていない一夜が、遠慮がちに問いかける。数年ぶりに開けた視界が眩しく、光に眩らむ。
「似合っているよ」
山吹は誉め言葉を添え、一夜に手鏡を渡した。自分で確かめてご覧という意図が伝わり。円盤状のそれを覗き込む。
そこには夜の涼風を思わせる瞳が映り。期待に満ちた複数の視線が一夜に向けられた。
「……」
けれど周囲の期待とは裏腹に、一夜はそれに驚かなかった。
自分の幼い頃の顔と父親・千夜の容姿を考えば、その顔は予想範囲内の成長を遂げている。思うことがあるとすれば、もう少し大人びた成長を遂げていたら、椿と共にいても年下に見られる事がなかったのにな。という残念な感想だろうか。
「ふふ。まぁ、成長期はこれからだな」
その椿は楽しそうに、一夜の切り揃えられた漆黒を、指先で遊ばせている。その蕩けそうな表情と指先の動きが、こそばゆく。一夜は頬を染めた。
「ぁ、照れた」
「きゃん。かわいい」
無表情だったそれは、愛しさに触れ喜びを浮かばせる。
長い前髪に隠されていた、一夜の表情。遮るもののなくなったそれは、以前よりも分かりやすくその感情を伝えていた。
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