初恋は桜の中で
愛情の欠片7
初夏の風が梢を揺らす。夕方の帰り道。片手に買い物袋を持ち、家路へと歩む。
緋色が山吹を連れ去り。一夜と椿は、現在二人きり。
「――葉月にもそんな事を言われたな」
「……」
椿が不満そうに言う。
混乱した頭。ぐちゃぐちゃと歪む感情。それが一夜の脳に伝えたものは『からかわれている』
心を見透かすその瞳が、自分の感情を読み取り。遠まわしな拒絶をされた。そう判断していたのだ。
――椿は一夜の質問に答えていただけ、だというのに。
「そうやって複雑な男心を弄んで、椿ちゃんの小悪魔▲
椿は夏陽の声を真似る。
演技の才能に秀でている椿のそれは七色に変化し。一夜の耳に届く。
その姿を見ていなければ、本当に夏陽が喋っているように勘違いしてしまう。
「僕はそんなに、意地が悪い人間に見えるのか」
舗装された歩道に、二つの影が伸びる。
傾きかけた陽の光。けれど初夏のそれは、世界を今も尚明るく照らしている。
「雪白くん」
一夜は声を発する。それには、強い意思が込められていた。
「口説いてもいいですか」
歩みは止めずに、問いかけた。
隣を歩く椿の足が、止まる。自然と振り返り。白い頬が染まっているのに、気づく。夕陽色だ、と。そう思った。
「駄目」
けれど椿は一夜のそれを跳ね返す。
僕は一生その人しか愛さない。そう迷いなく言い切った唇が、今度は気恥ずかしそうに動く。
「心臓が、壊れる……」
全身の熱が頬に集まったように燃え上がる。
これ以上はないというほど、心臓が激しく波打った。
「……ッ!」
椿を抱きしめたい。その衝動が一夜の全身を駆け巡る。
意外な行動力があるな。一夜にそう言ったのも、椿だった。椿は一夜に色々な感情を気づかせる。
「好き……大好きです――ずっと、一緒にいたい」
有耶無耶のままに伝えてしまった。椿への想い。一夜はそれを、もう一度伝えたかった。
この心を埋め尽くす。すべての愛しさが、椿に伝わりますように。そう願いを込めて。細い身体を抱きしめた。
「――ごめんなさい」
そして一夜は続ける。
その愛に気づかなくて。他に心が移ったと思わせて。それなのに勝手に誤解して、その瞳を一時でも拒絶してしまって。ごめんなさい、と。一夜は椿を抱きしめる腕に力を込めた。
「桜架先輩は、君の事が好きだよ。……それでも、僕がいい?」
けれど椿は一夜の肩を押し。その体を遠ざける。そして、問いかけた。
そこには自分が選ばれるという自信も確信もない。椿は一夜の心が読めるわけではない。ただ自分と似ている一夜の事が、椿には何となく理解出来ていた。
けれど椿は一夜が自分に恋心を抱くとは思っていなかった。それは愛を告白された、今でも変わらない。夢だ。幻覚だ。と、必死に自分を誤魔化していた。そうでなければ、椿の心臓は止まっていた。息をするもの困難なほど、胸が苦しい。それは一夜が初めて聞いた、椿の心だった。
「はい」
一夜は応える、自分の正直な感情を。不安に揺れる瞳を真直ぐに見詰めて。椿なら、その言葉に偽りがないと信じてくれる。一夜にはそれが分かっていた。
「俺が好きなのは――愛しているのは、雪白くんです」
「ッ……!」
一夜は言いながら、椿の空いている方の手を取った。その瞳が驚きに見開かれ。息を飲む気配が伝わる。
「帰りに、繋ぐって。約束しました」
スーパーでした約束。それは突然の告白で頭から消えかけていた。けれど一夜はそれを思い出し。実行した。
「そうだな。忘れていた」
椿もその約束を思い出し。一夜のそれを握り返した。心臓は高鳴り続け。鼓膜に響く。繋いだ右手は、緊張に小さく震えていた。
ゆっくり歩いた帰り道。それは行きの時間よりも、長くなってしまった。
雪白家に着いた頃には、陽は落ち。リビングは明るくなっていた。
緋色がソファーの上に寝転がって、雑誌を読んでいる。恋人の家とはいえ随分と寛いだ姿勢だ。
「お早いお帰りだったな。クソガキ共」
嫌みたっぷりに言われた緋色の台詞。けれどそれに不快感は浮かばない。むしろ気恥ずかしさとなって、一夜の耳に届く。
「兄さんは?」
椿が緋色に問いかける。数分前まで繋がれていた右手は、家に入る前に離されていた。
「あー。山吹はな……アレだ“娘に恋人を紹介される父親の心境”と戦ってる最中だ。笑えるぜ」
そう言いながら緋色は立ち上がる。買い物袋の中を探り。食材が揃っている事を確認し。リクエストしていたツマミを見つけ。口笛を鳴らした。ちゃんと緋色の好物を買ってくるあたり、椿は律儀な性格をしている。
「新しい役作りか? 兄さんが、そんなに苦戦するなんて珍しい」
山吹はどんなに難しい役でも、容易くそれをこなしてしまう演技の天才だ。それは息をするように、簡単に。その山吹が苦戦する姿は、数年に一役あれば多いほうだ。だから椿はそれを口にした。
「なんだ、帰りが遅いから乳繰あってるのかと思ってたが……」
けれど緋色はそれに怪訝そうな表情を浮かべ。見当違いな台詞に、肩を竦めた。
「ああ! 振られたのか。……お前、性格屈折してるもんな」
緋色は一人納得したように、椿の肩を叩く。その行動に含まれている感情の名前は、同情。緋色の脳は、椿が一夜に振られたと判断したようだ。
「なッ!」
その緋色の台詞に、椿の沸点は上昇する。大人びた雰囲気を纏う椿のそれも、十以上年の離れた緋色の前では幼い子供のようだ。
「――で。なんて言って振ったんだ? “お友達にしか思えませんか”それとも“キメェんだよ、この女男”か」
緋色は椿の肩に置いていた手を離し。今度は一夜の首筋に腕をまわした。鋭い三白眼が興味深そうに輝いている。
「振ってません」
一夜は緋色に返しながら、椿を見た。椿は憤慨していた。肩が戦慄(わなな)っている。緋色に性格が屈折している、と。言われたからだ。
椿の中から怒りという感情を最大限引き出せる人間は緋色なのだろう。一夜としては、椿の普段とは違う表情が見れて新鮮なのだけれど、その中にほんの少しだけ羨ましさが混ざる。緋色は一夜の知らない椿の表情を知っているのだ。そう考えると、一夜の中にムカムカと育つ感情があった。
恋仲になった途端の独占欲に、一夜は戸惑う。緋色には山吹という相手がいるのに。恥ずかしい。
◆◆◆
「卯月一夜君といったかな」
緊迫した空気がリビングを包む。時計の秒針が進む音にさえ息を飲む。
「はい」
一夜の瞳に眉目秀麗な男の姿が映っている。椿の兄・山吹だ。
今、この部屋にいるのは、一夜と山吹。二人だけだった。
一夜は二人掛けソファーに座り。山吹はその正面。緋色が夕方寛いでいたソファーに座っている。
山吹の眉は思い悩んでいるような、縦皺を浮かばせていた。憂いを帯びたその表情すら、山吹は絵にしていまう。まるでドラマのワンカットのように。
一夜はテレビをあまり見ない。だから、椿に聞くまで『雪白山吹』という俳優を知らなかった。
それは世間では、天地が引っくり返るほどありえない話。山吹の存在は全国津々浦々まで知れ渡ってるような、有名人だった。
「……」
一夜の全身を緊張が包む。けれどそれは有名人を目の前にしているからではない。一夜の感情はそんな事では揺らがない。
「――椿は、昔から可愛かった」
山吹は重く閉じられていた口を開く。その脳裏には、過ぎ去りし日々の映像が再生されていた。
山吹は一人呟く。娘を嫁に出す時の父親の心境とは、こういうものか。演技の糧になるな、と。
椿は山吹の“弟”だけれど。そんなものは些細な問題だった。それは山吹にとっても、一夜にとっても。同様に。
「私が仕事から帰って来ると、手紙が置いてあってね……」
そして山吹は語る、幼い椿との思い出話を。
俳優を職業としている山吹は、ドラマの撮影で真夜中に帰宅する事が多かった。
暗い部屋の中。重い身体をソファーに投げ出し。一日の疲労が伸し掛る。このままここで眠ってしまいたい。過密なスケジュールに、心が疲れていたのだ。
そんな時に、山吹はテーブルの上に置かれた手紙を見つけた。『兄さんへ』と書かれた丁重な文字。
椿のそれだと、山吹は直に分かった。菜花の字は、丸く可愛らしいものだったから。
そこには日々の感謝と、ドラマの感想が書かれていた。
『最近の演技にキレが感じられない』辛口な意見が山吹の心を突き刺す。
それは以前から感じていた、微妙な変化。けれどそれは監督や共演者には覚られなかったもの。しかし椿は、それを見抜いていたのだ。
その後の山吹はその言葉を胸に、ドラマに取り組んだ。それが今では山吹の代表作と呼ばれている。
「その時、椿は九歳だった」
山吹の声音が歓喜に震える。そこには、役者にしか分からない感動があるのだろう。
「そう、なんですか……」
そもそも、何故。一夜と山吹が二人っきりで顔をつき合わせているのかと言うと。その原因は緋色だった。
山吹は数分前、リビングに現れた。覚悟を決めたように。その兄に椿は、一夜を紹介した。恋人ではなく、友達として。
挨拶は順調に進み。緊張は解けかける。それを見ていた緋色は、椿の首根っこを掴み。キッチンに連行していった。
それはあくまで夕食を作るという理由で。けれど緋色はリビングを出て行く時、ニヤリと笑っていた。
そして『ああ、山吹。そいつ椿の男だぜ』と爆弾発言を残して行ったのだ。リビングの中は一瞬で、微妙な空気と緊張感に包まれた。
そして、現在。一夜と山吹の間には、ギクシャクとした空気が流れている。
山吹は表面上、穏やかな顔を見せようと努めていた。けれど極度の動揺からか、それは思い通りに作れず。結果、憂いを帯びた表情になっていた。
演技の天才が直面した思わぬアクシデントだ。
「俺、いや……ぼくも……雪……弟さんには、お世話になって……ッ」
そして一夜の方は、ガチガチに緊張していた。菜花を紹介された時も緊張していたけれど。その時とは状況が違うのだ。
「一生、大切にします……!」
喉の奥から搾り出した声音が、空気を震わせる。
緊張に身を固める一夜は、その言葉を山吹に伝えるだけで。汗だくになっていた。
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