初恋は桜の中で
愛情の欠片6
「ぇッ! ウソ!?」
「ホントホント! 入り口にいるって」
にわかに店内が活気づく。
見るからに浮かれた女子高生二人組みが、店の入り口に向かって走ってゆく。
手には派手な装飾のケータイ電話が握られていて。ストラップ塗れのそれが、ジャラジャラと音を鳴らしていた。
「……?」
何かあったのだろうか、と。一夜は意識を向ける。
注意してみると、女子高生だけでなく。買い物途中の主婦も、その波に混ざっているようだ。
一夜がその事態に気づいた時には、彼らの周りにいた筈の買い物客は綺麗に消えていた。皆、その流れの一部に混ざっていたのだ。
「――来るとは、思わなかったな」
一夜と同じく、その流れを見ていた椿が口を開く。椿には、この騒ぎの原因が分かっているようだ。
椿は一夜に断りを入れると。スラックスのポケットからケータイ電話を取り出した。
通話かと思ったけれど、メールのようだ。誰かに現在の状況を伝える文を打っている。
長い指先が、軽やかに、ボタンを押す。
「……っ」
一夜はその動きを追った。いや、視線が自然とそれに惹きつけられてしまうのだ。
「ここからなら15分……いや、10分くらいか。あの人なら」
椿はそう言うと、人の波から背を向けた。今の間に精算を済ませてしまおうと。
一夜はそれに従う。騒ぎの元は気になっていたけれど。今の一夜の意識を奪うものは、目の前にいる椿なのだ。
(雪白くん……。誰と)
心がモヤモヤする。一夜の心臓は、チリリとした痛みを訴えていた。
椿がメールを送っていた相手が気になる。それは一夜の知らないメールアドレスだった。
椿の親交関係は広くない。アドレスを知っているような人間も、家族を除けば一夜か夏陽くらいだ。
けれどそれは一夜が知らないだけで、他にもいるのかも知れない。椿と頻繁にメールのやり取りをするような、親しい相手が。
一夜は今まで気にしていなかった。けれど椿にも、いるのかも知れない。
好きな相手が。恋をしている人間が。
一夜はそれを椿に聞きたかった。けれど同時に、怖くなった。
椿の口から、自分の知らない人間の名前を聞かされる事が。怖くなった。
それがせめて夏陽なら。そう考えて、一夜はそれを想像した。
夏陽の隣で幸せそうに微笑む椿の姿を想像した。
気さくで。友達思いで。明るくて、優しい夏陽。その姿は眩しくて。一夜では到底太刀打ちできないほど、格好良い。
その隣に椿が立つ。綺麗で。冷たくて。寂しい。一夜の大切な椿。
一夜の頭の中に描かれる夏陽と椿の姿は、良く似合っていて。想像の中の一夜は、それを祝っている。理想的とも言える光景。
けれど一夜の胸の痛みは薄れてくれない。
どちらも一夜の大切な友達なのに。椿の好きな相手が夏陽かも知れない。そう想像すると、一夜の左胸は痛みを強めた。
一夜は気づく。
自分の知っている人間か、知らない人間か。それは関係ない。一夜は、椿に好きな相手がいると思いたくないのだ。
眉目秀麗。
その単語を欲しいままにする男が、スーパーの入り口付近にいた。
何十人にも及ぶ。黒山の人だかり。黄色い悲鳴が飛び交っている。
一夜と椿は精算を済ませ。スーパーを出た。そしてその光景を目撃した。
「椿!」
その男が声を発した。世界を震わす。綺麗な声音が、鼓膜を揺らす。
人に囲まれるその男が、椿の存在を認識出来たのは彼の身長が高いからだった。
何十人という人間に囲まれていても。その男の胸から上が見えている。
一夜の知る一番身長の高い人間は、父親・千夜だ。千夜の身長は181cmだけれど。その男の身長はそれよりも高いように見える。
「……」
椿がその男に向かって。親しげに手を振る。
男は椿に手を振り返す、ような素振りを見せた。けれど、男を囲む女性が「握手してください!」と、それを遮り。男はその作業に追われる。
男が握手を求められたのは、これで二十人目だ。
それも一夜が見ていた数分間の間の話なので、実際にはその何倍もの人間に握手を求められているのだろう。
そして、それは途切れそうになかった。
店の客だけでなく。騒ぎを聞きつけた人間が集まっていたのだ。現在進行形で、男は人に囲まれ続けていた。
お祭り騒ぎのような光景。それが一夜の目の前で起きている。
「雪白くん……。あれは」
「ああ。僕の兄さん――雪白山吹だ」
騒ぎの中心にいた眉目秀麗な男。それは椿の兄――雪白山吹。その人だった。
「アレが始まると何時間と無駄な時間を過ごすからな。人を呼んでおいた」
椿は淡々と続ける。この事態に慣れているのだ。そう、幼い頃から。
先ほどのメールも恋文ではなく、その事態を見越して。ある人物に送ったものだった。
真相を説明された一夜は、心を撫で下ろしている自分に気がついた。
一夜の知らないメールアドレスの相手。それは椿の想い人ではなかったのだ。
「山吹ぃ!!」
男の大きな声が、山吹に向かって投げられる。耳を劈くような大きさのそれに、山吹を囲んでいたファンたちは耳を塞いだ。
「テメーは歩く磁石か、引力か! 毎度毎度何十人と人間集めやがって!」
紅い髪が、炎のように舞う。緋色だ。
椿が呼んだのは、山吹の恋人・緋色だったのだ。
緋色は黒山の人だかりを物ともせず、山吹に向かって進んでゆく。
それはドスンドスンという足音が、一夜の耳にも聞えてくるような迫力だった。
緋色は山吹の元までたどり着く。短い会話の後、緋色は山吹の腕を掴んで歩き出した。
突然現れた緋色に、山吹のファンが不満を漏らす。
「わたし、まだ握手してもらってない!」
「山吹がいるって言うから、ワザワザ電車使って来たのに」
「何よ、あの人!」
「行かないで、山吹ぃ」
けれど緋色はその声を一瞬で黙らせた。
鋭い光を放つ三白眼。緋色はそれを、山吹を囲んでいた女たちに向け。何十と上がる不満の声を静めたのだ。
それは強面の緋色にしか出来ない芸当だった。
「――僕には、あれが出来なかった」
椿の瞳に、山吹を人の波から奪う緋色の姿が映っている。
椿は山吹を奪う事が、出来なかった。
椿は山吹が人に愛されている事を、幼い頃から知っていた。
だから山吹の周りに何十人という人間が集まって。山吹と椿の距離を離して。椿の心に寂しさを覚えさせても。椿はそれを受け入れた。
それが当然で、当たり前の事だと思っていた。
けれど緋色は違った。
山吹がファンに捉まって、その足を止めたら。緋色はそれが終わるまで、待つ事をせず。山吹の注意を自分に向けさせ。そして山吹を奪うのだ。
ファンの前からも、椿の前からも。強引に奪ってゆくのだ。その存在を、心を。すべてを焼き尽くす炎のように。
「雪白くんは、お兄さんの事が……好きなんですか?」
一夜の瞳に山吹の姿が映る。
整った顔立ちは男らしく。切れ長の瞳は、深い慈愛を宿していた。
広く確りとした肩幅。鍛えられた筋肉。けれど物腰は柔らかく、優しい。
世界中の人間を虜にするような、美しい声音。
亜麻色の髪はサラサラと風に流れる。艶髪。
理知的で、思慮深く。落ち着いた性格。
すべての理想を集めたて創られた。山吹は、そんな印象を与える男だった。
そして山吹を見た誰もが、一目で恋に落ちてしまう。
椿が古代の美しい少年・キュアキントスなら、山吹は太陽の神・アポロンだ。
「好きだよ。兄さんだから」
「……」
一夜の心に、その声音が溶け込む。
純粋な音。椿は本当に、山吹の事が好きなのだ。それは兄弟として。
「それだけ?」
「ぇ……?」
椿が山吹から視線を外し。それを一夜に向けた。
一夜の心を見透かしてしまう。椿の瞳。それが、一夜の瞳を見詰めている。
「何か、聞きたそうにしてただろう」
それは質問ではなく。確信。
椿は一夜の心の乱れに気づいていたのだ。
「……ッ」
一夜は息を飲む。そして、覚悟を決めた。
一夜が椿に隠し事など、出きるわけがないのだ。
「雪白くんには、好きな人がいますか」
「いる。僕は一生――その人しか愛さない」
けして揺るがない、強固な意志。それが、一夜の心を貫く。
「でも、その人には好きな人がいるから」
一夜を見詰める椿の瞳に、寂しさが宿る。
一夜は椿にそんな表情をさせている人間の事を、苦々しく思った。
もう、椿に寂しい思いをしてほしくなかった。
そんな人間より、自分の隣にいてほしかった。
「だから、これは僕の一方的な片想い」
けれど椿は、その愛を消さない。
永遠に届かない。片恋。それは椿の大切な、宝物。
「それは俺の、知ってる人……ですか」
「――知ってるけど、知らない人」
一夜の質問に、椿は謎かけのような答えを返した。
それに一夜の頭は疑問符を浮かべる。椿の言葉の意図が分からない。
「分からないか? “僕の、アポロン”」
本物の雪のように白い指先が、一夜の漆黒を遊ぶ。
紫黒の艶髪を、弱くなった陽の光が照らす。
艶めかしく揺れる瞳が、一夜の姿を映す。
一夜の中に、数週間前の記憶が蘇る。もう、一ヶ月経とうとしていた時間。それが今、鮮やかな色をもつ。
「……ッ!」
一夜の頭は混乱していた。苦々しく思っていた。嫉妬していた。椿の心を奪った人間。それは――
「俺、……?」
声が震える。一夜は、椿の瞳を見続けている事が出来なかった。
一夜が椿から視線を避けたのは、これが初めて。
気恥ずかしくなって。逸らした事はあっても。その瞳を拒絶したのは、これが初めてだった。
一夜は椿の瞳が好きだった。心の中が、すべて見透かされているような瞳。
けれど、一夜の存在を見つけてくれた瞳。大好きだった。ずっと魅続けていたかった。
「でも、桜架先輩のこと……」
「ああ。応援している。僕の見立てでは、あと一息だ」
一夜の耳に椿の声音が小さく聞こえる。聞きたくない、と。脳がそれを拒絶しているのだ。
「雪白くんは、それで納得するんですか」
息が苦しい。呼吸が上手く出来ない。
分からない。一夜には、椿の考えが分からない。
「……どうして? 俺が好きなのは、雪白くん、……なのに……!」
自覚してしまった感情。一夜はそれを抑えられない。
桜架へのそれは、憧れ。同じ男として、一夜は桜架に憧れていた。
けれど椿に感じるそれは、憧れでも、友情でもない。愛おしい、と。感じる。それは間違いなく恋愛感情だ。
「それなのに、他の人間との未来を望むんですか。雪白くんは――」
「ああ。望んでいる。君が幸せになれる相手を――その為なら僕は、自分の感情を封印して。君を応援する」
「……ッ」
一夜の髪に、何が触れる。
柔らかくて、冷たい。何時も、一夜の頭を撫でる。椿の優しい掌の温もり。
一夜の混乱していた感情が、それに溶かされてゆく。
気づいていなかったのは、一夜自身だ。
椿はずっと、その想いを伝えてくれていた。その掌に乗せて。愛している、と。伝えてくれていたのに。
一夜は椿の愛情の欠片に気づけなかった。
「……何時から」
「三年前の春から。知らなかった?」
一夜は椿に視線を戻した。
一夜の頭の中の混乱は甘い疼きとなって、彼の心臓を高鳴らせる。
椿の瞳に自分の姿が映っている。一夜の心はそれに高揚していた。
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