初恋は桜の中で
愛情の欠片5


 若葉芽吹く。初夏。
 空を蔽っていた雲は流れ。
 蒼い空が眩しく映る。


「少し歩くけど、大丈夫?」

 初夏の薫りが鼻腔を擽る。
 陽の光を浴びて。紫黒の髪が艶やかに揺れた。

「はい。大丈夫、です」

 一夜と椿は買い物に出ていた。
 目的は緋色の酒のツマミと。夕食の材料。
 椿は数分前。緋色の態度に沸点の限界を感じていた。
 そして一夜を連れて。家を出たのだ。『なにか買ってきますよ緋色さん=xと言い残して。
 椿は笑顔を作っていた。けれどその下に隠した感情の名前は、怒り。

「……」

 一夜は椿を盗み見た。
 男女の性差が少ない、中性的な顔立ち。
 けれど身長は一夜よりも高い。175cm。
 痩せ型の身体。清潔なシャツからは、柔軟材の香りが漂う。
 椿はシックな装いが好みのようで。派手な装飾品などは、身に付けていない。
 落ち着いた。大人っぽいコーディネート。
 それは椿の美しい肢体に良く似合っていた。

「手、繋ぐ?」

 椿は何かを思いついたように。一夜に右手を差し出した。

「迷わないように」

 澄んだ中音域の声音。凛とした空気。
 椿の心は凍った。雪吹雪。
 けれど一夜はそれを恐れない。その凍えたブリザードに触れる事を恐れない。
 一夜は椿の右手を握り返す。
 すると一夜の心は、気恥ずかしさを感じた。
 一夜の幼さを残す輪郭と背では、椿よりも年下に見えるのだ――同い年であるにも関わらず。
 だからその姿は、兄と手を繋いでいる弟のようにしか見えない。

「――冗談。の、つもりだったんだけど」

「ぇッ……。ぁ……、すみませ」

 椿の言葉に、一夜は慌てた。
 一夜は雪白家にたどり着くのに、迷っていた。
 それを揶揄した。椿の冗談。
 一夜はそれを疑いもせず。実行してしまったのだ。
 一夜の全身に、手を合わせた時とは違う。羞恥心が駆け巡る。
 頬が蒸気して。心臓の音が煩い。

(恥ずかしい)

 一夜は椿と繋がれていた。自分のそれを離す。
 すると一夜の瞳に椿の右手が映った。
 白い。新雪のように、白く。綺麗で。しなやかな手。
 一夜はそれに見惚れてしまう。
 あまり魅ていては。椿に不快感を与えてしまう。
 そんな思いが一夜の脳裏を掠める。
 けれど一夜の眼は、その美しい右手から視線を外す事を拒むように。椿のそれに縫い付けられる。
 そして椿のそれは、移動して。一夜の髪に――頭に、触れた。

「……ッ」

 椿は何時も。不意に触れる。
 一夜の髪に。頭に。体に。心に。
 だから一夜の心臓は、誤解してしまう。
 椿に愛されているのだと。誤解して。音を立ててしまう。




 繁華街に建つ。大型スーパー。
 時間は午後4時を少し過ぎた頃。
 店内は買い物客で溢れかえっていた。
 一夜がこのスーパーに来たのは今日が初めて。
 けれど一夜は戸惑いを感じていた。人が多い。
 一夜の目の前を、子供をつれた主婦が何人も通り過ぎる。
 一夜が何時も行くコンビニは、客が少ない。だからその違いに、息を飲む。

「……」

 一夜は横を見る。椿が慣れた手つきで、買い物カゴをカートに乗せていた。
 一夜は椿の意外な一面に、目を見張た。澄ました顔に、生活臭のするそれはアンバランスで。興味が湧く。

「よく来るんですか?」

「まぁ。兄さんも、姉さんも、忙しい人だから」

 買い物カゴの中には、様々な食材。
 多忙な雪白家はハウスキーパーを雇っている。
 けれどその人が休みの時は、椿が買い物に出る事か多いのだという。
 俳優をしている山吹。モデルの菜花。そのどちらが買い物に出ても、店はパニック状態になる。
 椿はそう言って。山吹と買い物に出て、騒ぎになった昔話を一夜に語る。
 椿はその時、五歳だった。
 山吹は人気のドラマに出演していて。顔と名前が世間に知られていた。
 その日。山吹は幼い椿を連れて、買い物に出ていた。
 『なにか欲しいものは、あるか』と、椿の小さな頭を撫でる山吹。優しい兄の温もり。
 けれどその時。一人の女性が山吹の存在に気づいた。
 『雪白山吹だ!』と、黄色い悲鳴が上がる。その声音は大きくて。山吹の周りは、あっと言う間に人で溢れる。
 『ファンなんです』『サイン下さい!』『握手して!』『ドラマ見てます』
 椿の小さな体は、人の波に押し出されて。山吹から遠ざかる。
 ――結局、椿が山吹と再会出来たのは。それから、一時間後の事だった。

 椿はそれを、懐かしい、と。語る。
 独りで兄を待っていた記憶を。懐かしい思い出だ、と。頬を緩める。

「卯月は、嫌いな食べ物とかあるか」

「いえ。特には」

 椿の質問に答えながら。一夜は椿の事を思う。
 一夜の中の椿は。初めて出来た友達。大切なひと。
 その感情は迷いなく。一夜の中に息づいている。
 一番大切な人間は、誰かと訪ねられたら。
 一夜は椿の名前を音にする。それは自然に。当然の事のように。一夜の中から引き出される答え。

「雪白くん」

「なに?」

 一夜の瞳に椿の姿が映る。
 寂しい思い出を、嬉しそうに語る。美しい少年。
 一夜は椿に右手を差し出した。

「手。繋ぎませんか」

「どうして?」

 椿は一夜の申し出を聞き返す。
 そんな事をしなくても逸れないよ、と。言われている気がした。

「繋ぎたい。から、です。雪白くんと」

 けれど一夜はそれに怯まなかった。一夜はその右手に、希望を乗せていた。そして椿が、それを受け取ってくれる事を望んだ。
 幼い椿は、兄と手を離してしまった。自分が邪魔だと考えて。その身を引いた。
 一夜は願う。椿が少しでも、寂しいと感じる事のない未来が訪れる事を。そしてその隣には、自分がいたい、と。
 一夜は、椿の愛に無自覚のまま。それを願っていた。

 「……本当に、君は……。僕の心をとかすのが、……上手いな」

 椿が口を開いた、秘密の恋を告白するように。
 一夜の心臓は、その言葉の魔力に、また勘違いをして。音を奏でた。ドクン。ドクン。と。恋をしているみたいな。甘やかな音が。鼓膜に響く。

「でも、今は駄目。買い物中だから」

 椿は一夜から視線を外し。食材選びに戻る。
 その頬は朱に染まっている。けれど一夜の位置からは、それが見えなかった。椿が故意に隠していたからだ。
 もしも一夜が強引に、椿の顔を覗いていたら。真っ赤に染まる林檎のようだ、と。思っていただろう。
 けれど一夜は、強引に事を進める性格をしていなかった。
 断られたら。一夜はそこで、その感情を封印してしまう。
 暗い闇の中に、溶かしてしまう。
 千夜の呪縛が、一夜を内向的な少年にしていた。

「だから。帰りに、な」

 椿は一夜の視線を避けながら、彼に言葉を返す。その声音には、照れが隠されていた。
 一夜の鼓膜に、それが伝わる。

「雪白くん……!」


 一夜の心は嬉しさで溢れた。彼の中の闇色はまだ深い。
 けれど椿の存在は、一夜の闇を薄く感じさせる。
 一夜はどんなに暗い闇の中でも、椿の存在だけは見失わない。その手を離さない。離したくない。

(――椿の事が、愛しい)



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あきゅろす。
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