初恋は桜の中で
愛情の欠片4
十階建てのマンション。
最上階へと登るエレベーター。
夜の闇のような、漆黒の髪。
紺色のスクールバック。
銀色の鍵。
「……」
一夜は冷たい鍵穴に、銀色の鍵を挿す。
その鍵には、キーホルダーもなにも付けられていない。
それは父親・千夜から渡された時のまま。冷たい音を一夜の耳に響かせる。
「……ただいま」
静まり返った暗い部屋。
一夜はこの部屋に、一人で住んでいる。
この部屋には元々、千夜の愛人さん≠ェ住んでいた。
けれどその愛人と別れ。千夜は部屋を持て余していた。
ちょうどその時期と、一夜の高校受験が重なった。
『好きに使え』
合格を祝う言葉よりも先に、千夜の口から出た台詞。
投げ捨てられた、銀色の鍵。
それは千夜の要らなくなった、部屋の鍵。
一夜は捨てられるように、その部屋を宛がわれた。
千夜は仕事人間だった。
一夜が十五歳まで住んでいた家にも、余り帰らず。
たまに帰って来ても、深夜の深い時間で。言葉を交わす事もなかった。
一夜は何時しか、それに慣れていた。
誰もいない、家の中にも。
空虚に過ぎ行く、日々にも。
自分を愛してくれない、父親・千夜にも。
「……」
一夜は自室の明かりを付け。スクールバックをベッドの横に置いた。
一夜の自室は簡素だ。
TVや、オーディオ機器。娯楽や趣味に繋がる物は置いていない。
部屋の中心には、一人用のベッドが置いてあり。
勉強机は窓際。その横には、参考書の並べられた本棚がある。
それらは、一夜が以前の家から持って来たものだ。
部屋に備え付けられたクローゼット。
一夜はその前に立ち。その扉を開けた。
一夜は私服を余り持っていない。
だからクローゼットの中は、ガランとしている。
一夜はその中から、数枚の衣類を取り出した。
シンプルなシャツとスラックス。靴下。そして、紺色のパジャマ。と、下着。
一夜はそれらをボストンバックの中に仕舞ってゆく。
中学の修学旅行以来使っていなかったボストンバック。
一夜はそれを、日常で使う日が来るとは思っていなかった。
事の起こりは、昨日の夕方。
秋空緋色と出会った事から始まった。
緋色は一夜を、椿の兄・山吹に会わせよう、と。言った。
椿はそれに抗議していた。
けれど緋色は山吹に連絡を取り。
あれよあれよという間に、一夜と山吹が会う事が決定されたのだ――緋色の独断により。
椿の意見は、山吹に伝えられなかった。
それは椿に存在を無視された緋色の、ささやかな仕返し≠セったから。
一夜は最初、椿の家に立ち寄って。山吹に挨拶するだけだと思ってた。
けれどそれは違っていた。
緋色は一夜に、週末に遊びに来い、と。言ったのだ――それも泊り掛けで。
緋色のその台詞に。椿はまた文句を言った。
けれど一夜の心は、密かに浮かれていた。
友達の家に泊まりに行く。
友達の多い夏陽は、休みの度に友達と泊まりあいをしいている。
それを語る夏陽の表情は、楽しそうで。楽しそうで。
一夜が憧れを抱くのに、充分な魅力を含んでいたのだ。
その夏陽の友達の名前は朝霧冬乃(あさぎりふゆの)という眼鏡の少年で、図書委員をしていた。
一夜の認識は、夏陽の友達というものだけだった。けれど冬乃は、椿と小学生の頃・クラスメイトだった事があるのだという。
その椿と冬乃は疎遠で。夏陽とは親友関係なのだから、人間の繋がりというものは複雑だ。
◆◆◆
一夜のマンションから二駅。
豪奢な家々の並ぶ高級住宅街。
何処までも続く、長い塀。
「……」
一夜は手元の紙片を見た。
それは緋色から渡された、椿の家までの地図。
一夜は緋色と出会った日の事を思い出す。
椿は『恥ずかしい。僕の都合も考えろ』と、文句を言っていた。
緋色はそれを、ニヤニヤと笑いながら見ていた。
けれど一夜は、椿の白い頬が蒸気していた事を覚えている。
「雪白くん……」
一夜は思う。
自分は楽しみにしていた。けれど、椿にはそれが迷惑だったのだろうか、と。
今更ながら、心が不安に揺れる。
「……!」
その時。
一夜のケータイが鳴った。
ぷるるる、と。初期状態のまま変えられていない。電子音。
画面に表示された、見知った名前。
一夜は素早く通話ボタンを押した。
『ああ、卯月。もう、着いた?』
一夜の不安だった心の中の靄が、その声音にかき消された。
それは、椿からの電話だったから。
「はい。でも、迷ったみたいで」
一夜は周囲を見渡した。
けれどそこには、高い塀が続くばかりで。人も通っていない。
野良猫が一匹。てとてと、と。歩いている。しかし、動物に道を聞くわけにもいかない。
なので一夜は現在・迷子状態と言えた。
『ごめん。直に出るから、そこに居てくれ』
『服なんて気にしてっからだよ。バーカ』
『黙れ、煩い』
短い会話の後。通話は切られた。
小さく聞えた男の声は。緋色のものだ。
緋色の声音は弾んでいた。
「アッハハハ! 家の前で、迷ってたのか」
「……」
一夜の話を聞いた緋色は、腹を抱えて笑った。
緋色からは、酒の匂いがする。
テーブルの上には、缶ビール。
緋色の声音が弾んでたのは、酒を飲んでいたからだったのだ。
「貴方の書いた地図が、雑だったからでしょうが」
一夜の眼前に有った。高い塀。
それは一夜の目的地。雪白家の塀だった。
一夜はそうと気づかずに、途方にくれていたのだ。
真実を知った一夜は、恥ずかしくなった。緋色の笑い声に。
「……」
案内された家の中。
広い玄関は、先例された和モダン。
一夜の通されたリビングも広く。家具はロココ彫に纏められ。上品な空間を演出していた。
優雅なソファー。敷かれているムートンカバーも柔らかい。
一夜はそれをそっと撫でる。ふかふかしていて、気持ちがいい。
確認する間でもなく、それは高級なものなのだろう。
「アッハハハハ!」
緋色は三人掛けソファーに座っていた。ドカリと、一人で。両腕を大きく広げて。
緋色はソファーの背凭れをバンバン叩く。繊細な造りのそれが傷つく事も恐れずに。
「煩い。酔っ払い」
椿はそれに慣れているのか、慌てた様子も見せない。
一夜の方が心配しているくらいだ。ソファーが壊れないか、どうか。
「缶ビール一杯で、酔っ払うかよ」
緋色はそう言いながら。新しいビールに口を付ける。
今の時間は、午後3時過ぎ。
酒盛りを始めるには、少し早い時間だ。
緋色を見る椿の視線は、冷たい。
山吹の交友関係でも嘆いているのだろう。心の中で。
「――緋色さん。バーテンダーだものね」
甘い蜂蜜みたいな声。
若い女性の声音が、世界に花咲く。
亜麻色の髪は、くるくると巻かれた。セミロング。
切れ長の瞳。けれどそれは大きく。輪郭を幼く見せていた。
スラリと伸びた高い背。
スレンダーな身体。けれど胸の膨らみは膨よかで。絶妙なプロポーションを描いている。
女性なら、誰もが彼女に憧れるだろう。
「おー! 菜花。今日もふわふわしてんな」
緋色が女性を手招く。
彼女の名前は、雪白菜花。
椿の姉で、山吹の妹。
ファッション・モデルとしても、活躍している『なのは』その女性(ひと)だった。
クリーム色のワンピースが、花弁のように揺れている。綺麗な女性だ。
「酌しろよ、酌」
緋色は自分の隣の席をポフポフ、と。叩く。
そこに座れ、と。言っているのだ。
「だめよ。兄さんが嫉妬するから」
菜花は緋色の誘いを、軽く交わす。
そのやり取りに慣れているのだ。
菜花は緋色の正面。二人掛けソファーに視線を向ける。
そこには菜花の弟・椿と、その友達が座っていた。
菜花の瞳に、一夜の緊張している姿が映る。
菜花の心は綻んだ。
一夜のそれに、純真な少年らしさを感じたからだ。
緋色のリラックスした王様のような態度とは違う。
「はじめまして。椿くんのお姉ちゃんです」
菜花は一夜に可愛く微笑んだ。同時に、菜花の後には黄色い花が咲く。
それは現役モデルの魅せる幻想。あるいわ、無自覚な幻惑。
「初めまして。卯月一夜です。お姉さん」
一夜はソファーから立ち上がり。菜花に深々と挨拶した。
菜花の無自覚な幻惑に眩んだ様子は、微塵もない。
菜花は一夜のその反応に驚いた。
菜花は今まで『モデルのなのは』だ、と。騒がれたり。見惚れて、声も出ないような反応を返される事が多かったのだ。
だから菜花は嬉しくなった。一夜のその反応が新鮮だったから。
一夜の中の菜花は『モデルのなのは』でもなく『憧れの対象』でもなく。
椿のお姉さん≠ネのだ。
(可愛い。義弟にしたい…!)
菜花は瞳を輝かせた。
「椿くん、椿くん! 一夜クンは、アレなの? 椿くんの恋人さんなの」
菜花は椿に期待に満ちた瞳を向ける。
菜花は山吹と緋色の件で、男同士の恋愛事情に慣れているので。その話題を出す事に 抵抗がなかったのだ。
「違う!」
けれど振られた方の椿は、そうではなかったようで。
菜花はその否定の言葉を、残念に思ってしまう。
「――んな事より。山吹はまだこねーのかよ」
緋色は缶ビールを揺らす。中身は、もう空だった。
緋色は一夜に会った山吹の反応見たさで、雪白家に来ていた。
けれど肝心の山吹は、ドラマの撮影で。朝から出ていたのだ。
これでは緋色の目的が、一向に果たされないではないか。
「一夜クンは、どうなの? 椿くんの事好き」
「ぇ……。友達、です」
「姉さん!」
緋色は正面を見た。
一夜が菜花の質問攻めにあっている。
緋色から見た一夜の表情は無表情だった。
けれど椿はそれを見て、焦っている。
そこには椿しか気づかないような、感情の変化が有るのかも知れない。
しかし緋色には、一夜のそれは読めない。
だから緋色は山吹の登場を願った。
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