初恋は桜の中で
愛情の欠片3



 ◆◆◆


 三階建ての校舎。
 その三階西側、一番奥の一室。
 天文部の部室はそこにあった。
 白色の扉には『部員、募集中』の張り紙が張られている。
 新学期が始まって、もう直三ヶ月。
 天文部の部員不足は、未だに解決していないのだ。

「……」

 その張り紙の張られた扉を、寡黙な少年が静かに開ける。
 天文部の一年生部員である、卯月一夜だ。
 一夜のスクールバックの中には、文庫サイズの本が入っていた。

「こんにちは、一夜くん」

 レモン・ブロンドの髪が、フワリ、と。揺れる。
 天文部部長の春風桜架だ。
 桜架の微笑みは柔らかくて。見る人間の心に、春の温かい風を感じさせた。
 『癒し系』という単語が、よく似合っている。優しい微笑みだ。

「こんにちは、桜架先輩」

 桜架は二年生だけれども、部室に着くのは一番早い。
 本来なら一年生である一夜が先に来て、部室の掃除などをするべきなのだけれど。
 桜架は一夜や――桜子が来るよりも前に、それらを終わらせてしまうのだ。
 だから一夜に出来る事と言えば、そんな桜架にお茶を入れる事くらいだった。

「先輩」

「うん。なにかな?」

 一夜は桜架の机の上に、空色の湯のみを置く。
 六月の終わりという時期的には、冷たいお茶を出したいのだけれど。
 残念ながら天文部には、備え付けのポットしかないのだ。

「この本。雪白君が、お返しします。と」

 一夜はスクールバックを開け、一冊の本を取り出す。
 そしてそれを、桜架の目の前に差し出した。
 それは昨日。椿から預かった、ギリシャ神話の本。

「ああ、ありがとう。一夜くん」

 桜架は本を受け取る、と。またフワリと微笑む。

「椿くんにも『また、来てね』って伝えておいてね」

 柔らかい微笑み。優しい声音。
 一夜の中に色ずく淡い感情。
 一夜は、その感情の名前に確信が持てない。
 桜架の微笑みが好きだ、と。いうのは、本当の事。
 見ていると、ふわふわして。心が癒される。
 けれどそれが“恋情”だという確信は、ない。のだ。
 そもそも一夜は、感情の揺らぎが鈍い。
 それは自分を見てくれない父親――卯月千夜(うづきせんや)に、そう育てられたからだ。
 夜の闇のように暗い瞳。
 冷たい声音は、研ぎ澄まされた剣のように。一夜の心を何度も刻んだ。
 一夜はその痛みを感じないように、感情の揺らぎを抑えたのだ。

「はい。桜架先輩」

 言いながら一夜は、椿の事を考える。
 一夜が桜架に一目惚れ≠オた、と。言ったのは、椿だった。
 一夜の小さな感情の揺らぎに、椿は誰よりも先に気がつく。
 それはもしかしたら、一夜よりも早く。

「……」

 一夜は夢想する。
 だから椿の瞳には、自分が桜架に恋をしているように見えているのだろうか? と。
 けれどそれは少しだけ、寂しい気がした。
 何故そんな気がしたのかは、一夜自身にも分からなかったけれど。





「えっ! じゃあ、その人。天文部に入ってくれるかもしれないの?」

 少女の驚きの声が、部室の中に木霊する。
 桜架の妹で、天文部一年生部員・春風桜子の声音だ。
 のんびりしている桜架と違い。桜子は部員獲得に、意欲を見せていた。
 部員募集中の張り紙を書いたのも、桜子だ。
 だから桜子は、桜架の話に瞳を輝かせる。
 桜架のクラスメイトの一人が『天文部に見学に行きたいな』と言っていた、と。言うのだから。

「うん……。でも、少し変わった人≠ネんだよね」

 桜子は桜架に話の続きを催促する。
 けれど桜架は、なにやら言いずらそうにしている。
 そのクラスメイトの事が、苦手なのだろうか、と。一夜は思った。

「桜子ちゃん。天羽聖って知ってる?」

 桜架は覚悟を決めたように、桜子に向き合う。
 その蒼色の瞳は真剣だった。
 話を進めていたのは、桜架と桜子だ。
 けれど桜架のその真剣な眼差しに、一夜の背筋も自然と引き締まる。

「え……? うん。モデルさんよね。この前の雑誌になのはさん≠ニ載ってた」

 天羽聖(あまうひじり)
 一夜は知らなかったけれど。
 それは、雑誌モデルとして活動しいてる青年の名前だった。
 ちなみに桜子が言ったなのはさん≠ニは、椿の姉・雪白菜花の事だ。
 菜花は雪白≠フ名を使わず『なのは』として、活躍している。
 なのは、は若い女性を中心に人気が高く。
 年頃の女の子である桜子も、その例外に漏れず。なのはのファンなのだった。
 だから菜花と同じ雑誌に載っていた『天羽聖』の事も、覚えていたのだ。

「本名は、天羽聖祈(あまうせいき)って言うんだけどね」

 桜架が続ける。

「なんて言うか、……交友関係が派手なタイプ≠ナ」

 桜架は言葉を濁しながら説明する。
 妹である桜子にそう言った話題≠、話したくないのだろう。

「その、女の人とも――男の、人とも」

「ぇ……? つまり」

「聖祈くん。ぼくと同じクラスなんだよね」

「ぇえ!?」

 桜子から驚きの声が上がる。
 それは話を聞く前の、期待に満ちた声ではなく。混乱を含んだ声音だった。

「そそそそれは、あの、その人が……入部希望者って事なの?」

 桜子は、桜架に詰め寄った。

「桜子ちゃんが嫌なら、断るよ」

 桜架は桜子にそう言いながら、一夜に視線を向けた。
 桜架は、聖祈が女性だけでなく、男性にも興味がある。ような濁し方をしていた。
 つまり桜架は桜子だけでなく一夜≠フ身の安全も、危惧しているのだ。

「悪い人では、ないんだけど」

 桜架は困ったように、微笑む。
 聖祈が苦手でも、嫌っている訳でもない。
 ただ桜架は、困っているのだ。
 天羽聖祈という青年の――性癖に。

「どうする? 卯月くん」

 桜子は一夜に意見を求めた。
 その表情は、暗く。沈んでいる。
 複数の女性を両腕に抱いている、聖祈の姿でも想像しているのだろう。

「春風さんが、嫌なら。無理は、しない方が、いいと思います」

 一夜は桜子に応える。
 男である一夜よりも女の子≠ナある桜子の意見が、この場合は尊重されるべきなのだ、と。

「う〜ん」

 桜子は机の上に突っ伏した。
 長い髪が、扇状に広がる。
 薄いピンク・ブロンドの可愛い女の子。
 桜架が桜子を心配している気持ちが、一夜にも理解出来る。
 一夜の父親・千夜も、女性に奔放なタイプだった。
 一夜は父を盗られる立場だったけれど。
 毎晩違う香水の匂いを付けている千夜に、相手の女性が可哀想だ、と。感じた事は、一度や二度ではない。
 けれど同時に、父親を奪ってゆく女性が。一夜は、苦手だった。

「会ってから、決める。のは、駄目?」

 たっぷり10分。
 悩みぬいた桜子が出した決断は、聖祈に会ってる、と。いうものだった。
 天文部が部員不足、と。いうのも有る。
 けれど桜子は、桜架の友達≠ネら本当に悪い人間ではないのだ、と。信じているのだ。

「いいよ。聖祈くんには、部員には手を出さないって約束させるから」

 桜架は桜子に優しく微笑む。
 その微笑に、桜子の表情が明るくなる。
 一夜も、それに胸を撫で下ろした。



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あきゅろす。
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