初恋は桜の中で
君の笑顔を知らない8


 盗み聞きなんて、するんじゃなかったと今でも思う。


 蒼い空には桜の花弁が舞っていた。

 幻想的な世界に、漆黒髪の背の低い少年と紫黒髪の美しい少年が居た。

 二人だけだった。
 その世界には二人の少年しか居なかった。


 どうしてそうなったのかは、分からない。

 けれど肌に感じた春風の冷たさを、夏陽は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
 それは夏陽の想い人の心を独占していた、その時の少年と友人関係に成った現在でも、変わらない。

 ――いや、若しかしたらその時の少年・卯月一夜を知った事で、その時に見た世界が夢ではなく。
 現実なのだと、嫌でも教えられたから、なのかも。知れなかった。

 だから、一夜が桜架先輩に一目惚れしたと、椿が言った時。
 夏陽の頭の中は、疑問符で一杯になったのだ。

 椿は、一夜の事を好きだと思っていたから。
 友達としての好き≠ナはなく。
 夏陽が椿に向けていた感情と同じ想いを、一夜に抱いていると思っていたから。

 自分の想い人が、自分以外の人間に好意を抱いている。と、素直に受け入れた椿に。
 
 悔しくないのか?

 妬ましくないのか?

 自分の方が先に好きになったのに。
 どうして、その想いには気づかずに。
 全然違う人間に、その甘美な言の葉を囁くのだ!と、叫ばないのかと。

 そんな黒い感情が、頭の中を支配していたのだ。

(オレは、嫌だったよ。椿ちゃん……)

 椿は幼い頃から、何処か人を寄せ付けない雰囲気を持っていた。
 それは彼の産まれや家庭の事情を考えれば、当然の事だったのだけれど。
 子供だった夏陽は、それが少し嫌だった。

 夏陽は友達だと思っていても、椿の周りには常に薄い壁の様なモノが有って。
 その心の中を見せてくれる事は、なかったから

 でも、今は――

「……――だから、……――」

 夏陽がどんなに手を伸ばしても、触れられない唇は、楽しそうに何かを囁いている。
 
「――無理、……です……」

 冷たいその心の壁を壊した、少年の耳元で。

 艶めかしく、誘うように。










「――……じゃあ。頑張れ」

 深い記憶の底から、ゆるりと意識が浮上する。
 残酷な成長期は、幼かった輪郭を年相応の少年へと変えていた。
 何も知らない子供で有ったのならば、知らなかった感情の名前も。
 もう理解している。年頃の男へと。

「行くぞ。葉月」

 自分の名前を呼ぶその中音域。
 その声音に夏陽はハッ!と夢から覚めるような感覚を覚えた。

「ぁ、」

 いや、夢を見ていたのだ。幼き日の夢を。

 一夜から離れた椿が、夏陽の肩を叩く。
 その手には文庫サイズの本が握られていた。
 桜架から借りた、ギリシャ神話の本だ。

「失礼しました。桜架先輩」

「へ!?……ぁ、いや。……また、来てね」




 ◆◆◆



「ふふ。見たか、あの顔を」

 天文部を後にした椿は、満足そうな表情を見せた。
 その顔には、してやったり、と書かれている。
 椿がそんな表情を見せるのは、彼の計画が思い通りに進んだ時だ。

「僕が少しくっ付いただけで、随分と動揺していた」

「ぇ……?」

 その言葉に心臓がドキリと動く。
 まさか椿は、自分の気持ちに気が付いているのか? 気づいていて、からかっていたのか。と、夏陽は唾を飲み込んだ。

「あれは卯月を意識している」

「は?」

 けれど続けられた言葉に夏陽は疑問符を浮かべた。
 一夜?
 いや、待て待て。オレが好きなのは――

「椿ちゃん、何の話を」

 してるんだ。と、夏陽は続けた。

「何って。卯月と桜架先輩の話だけど?」

 夏陽の質問に椿は小首を傾げる。
 甘やかな密事を囁いると思っていた。あの光景は夏陽の思い過ごしだったのだ。

 椿は一夜に近づいた時に、桜架がどんな反応をするのかを見ていた。
 そして椿が一夜と親しげに話している姿を見た桜架は、固まったという。頬を真っ赤に染めたまま。

 椿はそれを、喜ばしい事だと夏陽に言った。

「――オレは、椿ちゃんが一夜を好きなのかと思ってた」

 椿の言葉に意見するように、夏陽は口を開いた。

 一夜が桜架に出会う以前から。
 椿と一夜が友達になったあの日から。
 ずっと椿は、一夜の事を想っているだと思っていた。

 そしてこの恋が終わる時は、一夜がその想いに気づく時だと。
 夏陽は心の何処かで、覚悟していたのだ。


 それなのに、何故だ。と、夏陽の心は叫ぶ。

 何故、一夜と桜架の関係が上手くいきそうだと。
 椿は、喜んでいられるのだ。

 同性だから、男同士だから。
 その恋を隠して。一人の友人として、応援したい。
 そう思っているのならば。桜架だって男ではないか。
 しかも一夜より、頭一つ分は背の高い相手だ。

「僕が何時、卯月を好きだと言った」

 形の良い唇が開かれる。
 何処までも純粋な音が、夏陽の鼓膜を揺らした。

「愛している、だ。間違えるな」

 その音は夏陽の心の中に沁み込んでいった。

 春に溶ける雪のように――



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あきゅろす。
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