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それは、永遠に色焦ることのない罪の記憶。彼女が修道女となった『はじまり』の物語。

数年前、彼女は父と一緒に暮らしていた。母は病気ですでに他界している。父は大工仕事を勤めていたが、収入は少なく、決して楽な生活ではなかった。

それでも、彼女は幸せだった。父が帰ってくるまで家を護るのが小さな誇り。掃除から洗濯、小さいながらも畑があり、水まきから草むしりまで全て一人で行った。

同年代の子が遊ぶ声が聞こえても彼女は聞こえないフリをした。時々、買い物に出掛けると、いつも甘いお菓子を売っている店で足を止めた。届かないものが、すぐ近くにあるのが辛い。

甘えるなんて、したことがなかった。そんな余裕なんてなかった。生きるだけでも苦しかったのだ。

それでも彼女は幸せだった。父が帰ると、お帰りなさい、と挨拶。そして食事を。彼女は色々なことを父に話した。ほんの些細なことでも。

草むしりをしていたら手に青虫が落ちてきてびっくりしたこと。買い物に出掛けている間に流行りの歌を二つ覚えたこと。鳥が夕暮れの空を飛んでいたのが綺麗だったこと。

父は、その度に笑ってくれた。彼女はこのときだけ、自分が子供だと、感じることができた。それだけで幸せだった。

信じていた。いつか、もっと父と話せる時間が増えると。いっぱい甘えてみたかった。お菓子も食べてみたいと憧れた。一着ぐらい、綺麗な服が欲しかった。

いつかは、と信じて。

しかし、その日が来た。

『お父さん。お帰りなさい!』

いつもように夕食を準備して、父が帰ってきた。そして夕食。に、なるはずだったのに。

『おとう、さん?』

父の様子がおかしかった。目が虚ろで、ぶつぶつとなにか呟いていた。ドアも閉めずに立ったまま動かない。父の顔色はこんなに青白かったであろうか?

心配になったシェリルは、父の傍まで近付き、

『――――――っあ!?』

首を絞められた。

みしみしと締め付けられる。肉に爪が食い込む。痛みよりも、息ができないのが苦しい。

血管が圧迫され、脳に酸素が届かなくなり、思考が飽和する。どうしてと、言おうとしても言葉にならない。よだれがだらしなく口の端から流れた。

シェリルの目に映ったのは、父。首を絞めているのは、自分の父。困惑が削れかけてた思考を満たし、涙となって溢れる。

理性の灯っていない目を見て、父が悪魔に取り憑かれてしまったのだと、シェリルは気づけた。あんな目は、父の目じゃない。いつもの優しさが面影も感じられない。

それに、見えたのだ。

父の姿に重なるようにして、異形の影が笑っていたのを。聞いたことがあった。悪魔は人間と契約するのだと。

願いを叶えてほしいか、と悪魔は甘く囁く。ほんの少しでも了承の意を見せてしまえば即契約。ただし、本当の意味で願いなんて叶えてもらえない。

力を与えられた人は、精神が耐えられなければ、すぐに堕ちてしまう。そうして、悪魔憑きとなってしまうのだ。

シェリルは父の手を外そうと試みるも、無駄だった。例え、彼女に大人の男ほどの力があっても抜け出せない。このまま自分は死ぬのだろうか?

『―――――――て』

掠れゆく思考は、あらゆる余分な感情が消え失せ、限りなく透明に近付いていく。何度も細糸のような呼吸で命を紡ぐ。残ったのは、生への執着。シェリルが首から提げていた十字架、母の形見が淡い光を発した。

硝子の意思は刃に鍛え上げられ、

そして、奇跡へと直結する。

『放して!』

言葉通り、手が放された。足に力を入れるのを忘れ、倒れる。けほけほと喉元を押さえながら咳込み、やっと呼吸が元に戻った。どうして自分は解放されたのかシェリルは不思議に思った。父はどうしたのかと視線を移し、愕然とする。

父の腕が酷い火傷にでもなったかのように水ぶくれになっていた。ちょうど、シェリルが掴んでいた部分を中心に。それが、朧ながらも聖なる力が発揮されたせいだと、彼女は知らない。

苦悶に顔を歪める父は、怖かった。だから逃げた。腰が抜けたから、はいずりながら奥へと。

それが落ちたのは、シェリルが壁にぶつかっただけの偶然か。それとも、人ではない『なにか』が仕組んだ必然だったのか。

家のお守りだからと、四代前の先祖は勇敢な騎士だったと、父が大切にしていた銀鏃の矢が、シェリルの手の近くの床に刺さった。

反射的にシェリルは、その矢を掴み取った。野犬に松明を向けるように父へと。いや、悪魔憑きへと。

やめてと、訴える。これ以上近付かないでと、涙を流して訴える。

一歩ずつ、確実に悪魔憑きが、シェリルの命を絶とうと進む。

血が熱い。心臓の鼓動は早鐘になり、汗が疫病のように噴き出す。自分が、この両手に握った銀矢でどうするべきなのか、少しずつ理解していく。

「・・・・・・主よ、お助けください。お願いします。どうか、父を悪魔から解放してください」

神への祈りはなにも生み出さなかった。どうして、こんな状況になっても神は私を助けてくれないのだろうかと、怒りがわいた。

しかし、もしかしてと、疑問が浮かんだ。神は、私が、この事態を打破できるから助けてはくれないのかな、と。それが父を――ことだとしても。

悪魔憑きの手がシェリルへと伸ばされる。あと三メートル、一メートル、八十センチ、四十センチ、三十、十五――――セン―――――チ。



『ぅあああああああああああああああああああああ!!』




真っ白に全てが塗り潰された。

静寂。

引き伸ばされた一瞬が温かさとなって現実になった。

その日から、とある少女は枯れ果てた。ぽっかりと空いた心を埋めるのは、剣を持ったときにだけ感じる焦燥だけ。

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