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GEAR SIDE
悪辣





彼が何を言ったのか、始め樹には理解が出来なかった。
風は止んでいた。
男の性質上、発せられるであろう声音は酷く低い物だろうと、勝手にそう想定していたのに、いざ辺りに響いたのは以外にも良く透ったものだった。
「“ごっこ”は終わりだ。亜紀人」
樹は、向かい合って対峙する二人を黙って見遣っている――否、口を挟む事は許されない様な気がしていたのだ。
どうやら、対峙している当の本人である亜紀人にとっては、その言葉はとても意味の有る物らしかった。
無表情にそれを受け止めたかと思うと、やがて一度俯いて、濃紺の隙間で薄く微笑む。
亜紀人は言った。
「何時から気付いてたの?」
それもまた、良く透った声であった。
「名演技だったがな、そう時間はかからなかったぜ?一体どれだけお前を見て来たと思ってんだ?」
溜息すら挟まれない、至極、気真面目な返答だ。
亜紀人は困った様に、しかし愛らしさの漂う仕草で小首を傾げ、
「やっぱり意地悪だなぁ、お兄ちゃんは……」
――その言い方も、騙されているフリをし続けていた事も――全てが「意地悪だ」と、緩やかに笑んだ。
「別に。例え本当に咢が居たんだとしても俺は構わなかった。それだけだ」
(……居たんだとしても?)
「ちょ、ちょっと待てよ!」
漸くだった。
出来の悪いオブジェの様に立ち尽くすばかりの樹が、咢の名を耳にして、漸くそこで口を挟んだ。
「何の話だよそれ?」
体中にじっとりと纏わり付く汗が、悪寒を生む。
交わされた会話を集約して導き出す事が出来る答えは多分ただ一つのみ。しかしそれは、安易に飲み込むには、あまりにも苦味を伴うだろう。
海人は鋭い眼差しに微かな憐れみを乗せて、青ざめた樹を見た。
「咢なんて人格は元々この世には存在してなかったんだ…初めからな」
「な…んだよ…それ…」
やはり。
「二重人格は亜紀人の自作自演だ」
答えは一つだった……。
(――咢がいない――)
瞬時にして、樹は世界を無機質なモノクロに感じた。
下手なジョークだと笑い飛ばしてはしまえない濃厚な空気が充満していて、それが脳をおかしくしていっているのかもしれない。
どうしようもなく全身の力が抜けていく。
「フリって…おいっ……」
それでも、僅かな望みを託して亜紀人を見る。
しかし、亜紀人を介して見えたのは、樹にとってはやはり無情な現実でしかなかった。
「お兄ちゃんを困らせようと思ったの。……だってお兄ちゃんはA・Tが出来る僕しか要らないんでしょ?僕はそれじゃ嫌なのに。だから」
「馬鹿が。俺が何時そんな事を言ったんだ?」
端々の震える亜紀人の声は、海人の穏やかな声に飲まれた。
「……おにいちゃん」
「亜紀人。俺の傍にだけ居ろ」
「おにいちゃん……」
頬を染める亜紀人は繰り返す。
そして驚きと喜びのないまぜになった表情の、右目を覆う眼帯を自ら外すと、両頬を涙で濡らした。
「お兄ちゃん」
樹は、駆け出す亜紀人が海人の腕に抱かれるのを呆然と見送った。
かつては何の蟠りも無くそうしていたのだろう、二人の顔を見ればそれは容易に想像出来る事だった。
しかし、それは樹と咢とて同じ事だ――昨日まであの濃紺の髪に顔を埋めていたのは自分だった。
確かに咢は、樹の腕の中に居たのだ。
なのに……。
――綺麗に揃った両目が、抱かれる腕の隙間から樹を見た。
「ごめんねイッキ君。咢は居ないけど、でもね、お兄ちゃんの次にイッキ君が大好きだよ。これは本当」

プツリ。
そこでモノクロの世界は闇に堕ちた……――

















「――ってな夢を見た」
何時もの場所で胡座をかいている樹は、きまり悪そうな口調で昨夜みた夢を話聞かせ、締めをその言葉で括った。
「そりゃ滑稽な妄想だなぁ」
隣で給水タンクに寄り掛かっている咢は、小さく欠伸を噛み殺し、簡潔な感想を述べてみせる。
「妄想じゃなくて夢だよ。……でも、お前が居ないなんて阿呆な夢だよな」
――咢が隣に居る事は、今では頭上に空が在る事と同じくらい自然な事柄なのに――呟きながら隣を見ると、彼は声を出さずに笑っていた。
チョイチョイと揺れる指先に誘われる。
身を近付けていくと、顎を掴まれて、チュと小さな音を立てるだけの口付けをされた。
吐息がかかる距離で彼はまた笑み、囁く。
「俺は此処にいるぞ?」
ひどく妖艶に見えた。
その仕草の全てが愛おしくて、樹は腕に抱いて濃紺の髪に顎を埋めた。
我ながらくだらない夢を見たものだと、つくづくと実感する樹の――腕から覗く綺麗な右目で何を見ているのか、“咢”は静かに艶やかに笑んでいる。

風は止んでいた。









++++++++++
亜紀人が小悪魔通り越して怖すぎかもしれない「正夢落ち、もしも」話。
ウチの話達を前提に読んで頂ければ、兄様は知らないフリして咢に手を出してる事になったりしてる等等、更に兄弟の鬼畜っぷりがクローズアップされるかと……。
「困らせたい」ダシに使われてるイッキは不幸すぎ。


2005.05.06up。


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あきゅろす。
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