B カプチーノから泡立ったミルクの甘い香り。ふわりと鼻先を掠めた湯気がくすぐったくて人差し指で触れた。身体を沈み込ませながら黒いソファに頭ごともたれ掛かると濃い木目の天井に柔和な灯りが暖かく水晶体に届く。鼻で息を吐きガラス張りの向こうを人が足早にすれ違う中でもう何度心臓を早めただろう。腕時計は2時過ぎをさしていた。 きょーうはなーんのひっ、フッフー。 とかちょっとちょけてみて冷えた指先にはピリッとする熱さのカップに口をつける。これで二杯目。隣で一人座っていた女性の待ち人はさっきやって来て遅い〜の甘えた声に幸せそうに目尻を下げていた。彼女が頼んだ紅茶のシフォンケーキに添えられた生クリームとチョコレートソースがやたらめったら甘そうに見えて胸焼けを覚える。家を出たのは11時過ぎで待ち合わせは12時だった。店内は程好く暖房が効いていてストールを巻いた首がジワリ汗をかく。軽く引くと衣擦れの音と一緒に空気がすりぬけていった。指先で机を弾けば乾いた音。 「待ってる間もデートの内に入るとか…どう思いますか?」 向かい合う無人のソファに訪ねるように呟くが当たり前に返事はなく言葉は漆黒に溶け込んだ。 『おーなんだ妖怪雪だるま。人間になったのか雪だるま。』 「お陰様で。魔法の呪文が効いたみたい」 『乙女か。誰がどんな魔法かけてくれたんだよ』 「いやちょっとゴメンそこら辺の意識混濁しててよく覚えてない」 『…テメェ…。ふん、まぁいいや。感謝しとけよソイツに』 「うん、感謝してる。ありがとう阿部」 『…………、なんだ、それ…新手の詐欺か』 「はっ?詐欺ってなに」 『オマエはドキドキ詐欺師かなんかかっ?それともそれが世に言うツンデレーションってヤツなんかっ』 「…ちょっと大丈夫かな阿部。電話越しで壊れられても助けに行けないよ」 『……はぁ、ズリィわ西広。…いつ暇よ?いつ。デートすんぞっ!クソッ』 「悪態つきながら誘うとかそっちのが新手でしょ。そうだな、明後日の水曜とかどう?」 『水曜な。…うーし、うしうし。覚悟しとけよ西広ぉバッキバキにしてやっかんな』 「…やだなぁ。不安要素いっぱいだよ」 『初デートなんだろ?めかし込んでこいよ』 「ふふっ、わかった。楽しみにしてる」 『おーしてろしてろぉ。……じゃあな』 電話をかけるときから切るまでずっと心臓が震えてた。甘いニオイが毛穴から立ち込めそうなほど舞い上がっていた。声が自分ではないみたいで泣かなかったことが奇跡。熱がまた出たみたいに耳の奥がジンと熱いのに口許で重ねた掌に吐く息だけ冷たくて。 ウルサイ心臓。恥ずかしい…今オレどんな顔してんだろ。 今すぐ意識を手放せば夢で阿部に逢えるだろうかなんて考えたんだ。 「バッチリ、洒落込んできましたけど…」 待ち人は来ず。同じ店員がオレの前を横切るのもこれで3度目。彼女にフラれでもしたのかなコイツ、と思っているかはわからないが一瞥する視線がオレを憐れんでいてそろそろココに居座るのも限界かなと思い席を立とうとした、瞬間。人もはけ静かになった空間に裂くように響いたテーブルの音。伝票を掴んだオレの手の甲の上にグーの手がそれはもう勢いよく降ってきたのだ。 「〜〜っいっっったあぁぁっ!!!!!」 「ッハァ!!ぜぇっハァ…っぅえっ…。っテメェ…けっ携帯…なんで切ってんだよっっ…」 骨が逝ってしまったかと思うほどの衝撃。あんまりだっ初めて聞いたよ指がしなる音なんて。 「くぅぅっ…公共の場では携帯を切るマナーが…」 「ねぇわっっ!!っゲホッゲホッ……」 「あのぉ〜お客様…大丈夫ですか?」 「っ!あ、大丈夫ですスミマセンっ。…お水一杯もらってもいいですか?」 男二人が仁王立ちで大声張り上げていたらそりゃ店員だって近寄ってくる。迷惑がる顔つきを営業スマイルで隠して少々お待ちくださいとカウンターへ戻っていった。隣に居たカップルは既にデートへ旅立っている。 「………ケホッ」 「…座りなよ。ゴメンね、ワザと切ってたんだ携帯。どっから走ってきたの?すごい汗だね…急いでくれたんだ、ありがとう」 背もたれに手をかけたまま微動だにしない阿部は俯いたままで荒い呼吸の中に微かにヒューと掠れた音。まだ右手の甲がジンジン熱い。なのに上に乗っかったままの握られた手が氷のように冷たくて少し震えているのがたまらなく切なくて鼻がツンと痺れた。もう一度、阿部と呼び掛け真っ黒のダウンジャケットの上から腕を軽く叩く。少し間をおいて触れていた手がゆっくり離れボスンッとソファが阿部を受け止め自分も座りなおすと片手にコースターと水を持った店員がご注文があればお呼びくださいとテーブルの真ん中にそれをセットし足早に去っていった。 「阿部、水飲みなよ」 人差し指でコースターを滑らせると突っ伏した阿部の手の甲にあたり少し青みがかった透明なガラスの中で氷が揺れた。 「あーべーっ。水飲みなって」 「……いらね…」 「あっそ?ならオレ飲んじゃうよ?」 「……飲めば」 グラスに水滴がつきはじめてオレの指先を嘗めるように流れた。 「…。ウソ、阿部が飲んでよ。お願い…声変じゃん。…心配なんだ…」 オレも声変だ。語尾が掠れてうまく音にならなかった。 「………」 「………」 「…、ばあさんが」 「ん?」 「ばあさんが倒れたんだ。目の前で」 「…大丈夫だったの?」 「……信じんの?」 「…怒ろうか?」 「ふっ……ホント。嘘みたいなホントの話。言い訳だけど、聞いてくれんの?」 「聞くよ、聞きたい。だから顔あげてよ。水も飲んで」 ゆっくり身体をあげズッと一回鼻を啜った阿部が着ていたダウンを脱いでグラスに手を伸ばした。 「ばあさんが倒れてタクシーひろって、チャリのチェーンが外れて、近場の自転車屋が潰れてて、走ってる途中UFOに連れ去られて、改造されて救世主になったオレは侵略者たちと戦い七つのドラゴンボールと呼ばれるものを探しに旅立つハメになって……西広」 「うん?止めないから続けて」 「…西広、ゴメン」 一気に水を飲み干しハァと息を吐いた。 「走ってる間……スゲェ怖かった」 「なんで?」 「言わすんかよ。……待っててくれなかったらとか、もう二度と携帯が繋がらないんじゃないかとか…このまま逢えなかったら……とか…死にそうだった…」 カッコワリィよなぁ、なんて頭をクシャリ掻く。その姿に胸が潰されそうになる。あぁもう、オレやっぱりバカになったんだ。阿部バカだ。死にそうだったとか言ってるこのネガティブがどうしようもなく嬉しい。服装はロングTシャツといつものダメージジーンズにシンプルなバックルのベルトで代わり映えはしないけど。普段は面倒がる革のブレスレットとかつけてるとこが何か頑張っててくすぐったい。 「……なん笑ってんスか」 「アレ、笑ってますオレ?」 「えーもうそりゃ嫌味ったらしく」 「わぁ…ハハッ。因みに旅立つの?ドラゴンボール探し」 「あぁそのクダリね。行きますよー行けと言われりゃ」 「マジでっ、ないわー。またオレ待ちぼうけ食らうじゃん。行かないでよ、ココにいてよ」 「…………バッカヤロウ…」 「へ?ちょっと…もしもーし。阿部さん?」 小さく暴言を吐き眉を寄せた阿部がズルリとソファに深くもたれ掛かると両の手で顔を覆ってしまった。こもった呻き声まで出すもんだから戸惑う。何か気に障ったんだろうか。 「あ、べ?…あの…」 「………」 「えっと、あー…コーヒーとか、飲む?」 「………ホットのブラック、ミルク入りで」 「あっ!オッケ注文してくる」 冷めきったカプチーノを飲み干して待っててと指の隙間からオレを見る阿部の傍を通り抜けようすると。 「おい…」 「っ、え、あ。…あれ?」 クンと右腕が掴まれて身体が後ろに引っ張られた。 「どこ行くんだよ」 「…コーヒー注文しに、カウンターに…」 「店員呼びゃイイじゃん。オレを一人にすんなよ、ココにいろよ」 「……っ!」 オレを見る目に体内の血液がグツグツ沸騰した。顔に血が上るのがわかって耐えられない心臓が大きく跳ねた。腕に確かな阿部の手の温もりが伝わる。あんなに冷たかったのに今じゃこんなに優しい体温。喉の奥がキュウと鳴ってストールを片方で掴みコクリと頷くのが精一杯。座りっぱなしだったソファにはオレの体重でできた窪みが残っていてスッポリと収まった。 「………ふっ、顔が真っ赤ですけど?」 「っ、よく言うよ…オレの台詞そのままパクっといて」 顔を隠したって今さらバレバレだから手の甲で口許だけ押さえる。だって耳まで火傷しそうに熱い。 「わかったか。さっきのオレの悶える気持ちが」 「…プッ!…悶えたんだ…」 「おーよ。殺し文句だろありゃ。つーか西広は天然エロだな」 「ハァ!?なにそれっ、なんかヤダ」 「オレ、ホットコーヒー。ミルク入り」 「……。すいませーん…」 「頼んでるし、さすが嫁」 「ホンキで怒るよ?」 それから頼んだお互いの飲み物にゆっくり口をつけながらたわいもない話に時間を忘れて笑ったりなじったりして過ごした。また人の多くなった店内にはコーヒーの香ばしい香りとドリップの音。甘く溶けるようなケーキのにおいが充満してやっぱり窓の外は忙しないのにオレは永遠に続けばいい時間を余すことなく楽しんだ。阿部が頬杖をついて話すその声も目も口許も爪の形さえ忘れないようにしよう。 「で?本当は今日どこいくつもりだったの?」 「鳥山明作品展」 「………あぁ、ね」 「ッテメ、世界の名作バカにしたろ」 いつか離れたとき思い出そうとしなくても忘れないくらいに鮮明に。自分の一部にしようと思った。 [*前へ][次へ#] |