先生≠彼 番外編 #16 「お。母さん…。ここ、痛かったり辛かったりしないの?」 あたしはお母さんの右胸に軽く触れる。柔らかい膨らみが、あたしの手のひらに張り付く。 「今は不思議なくらい何ともないのよ。検診行かなかったら気づかなかったかもね」 「…そうなんだ。良かった、早くわかって」 「最初はびっくりしたけどね。いろいろ調べたら、そこまで怖がらなくてもいいかなって。胸は片方無くなるけど、これはもう役目を終えたから…そう思うことにしたの」 「もうあたし、おっぱい飲まないもんね…ありがと、お母さん…」 伝えたかった感謝の言葉は、喉の奥につっかえがちで、うまく声に乗っからなかった。 「何言ってるの。親が子どもを育てるのなんて当たり前のことなのよ。感謝なんてされたくないわ。それに――だったら、お母さんだって千帆に『ありがとう』って言わなきゃ」 「どうして…?」 「お料理もお掃除も、千帆、すっごく上手になってた。お母さん、あんまり教えないままお嫁に出しちゃったのにね。慧史くんとふたりで頑張って家庭築いてるんだ、って伝わってきた。きっとお父さんも同じこと感じてると思う」 「……」 声を出したら、ぶわあって涙が溢れそうで、あたしは黙って首を横に振った。 そんなことない。まだまだけいちゃんに甘えてる部分も多いし、お料理だってお母さんの作ったモノの方がぜんぜん美味しい。 「――千帆」 お母さんの手のひらがあたしの後頭部に添えられる。もう、あたしの方が大きいけど、ずっとあたしを守ってくれた手。 「幸せになってくれてありがとう」 も、無理。限界。ぎゅって瞼を閉じたら、眦に溜まってた涙が幾筋も頬を滑り落ちてく。お母さんの顔も滲んで歪んでる――と思ったら、お母さんの瞳からも涙がこぼれてた。 「もお、やあねえ、ふたりして。千帆が涙脆いのは私の血なのかしら」 泣きながらもくすくす笑いながら、お母さんは手のひらであたしの涙を拭ってから、自分の眦を指でこする。 なんだかあたしもおかしくなって来ちゃって、ふたりして泣き笑いして、少し温くなったココアを飲んだ。 「明日、晴れるといいわね、千帆」 「うん…」 「お父さん、ビデオのバッテリー大丈夫かしら」 「…リビングのコンセントに刺さったままになってたよ?」 「あとで抜かなきゃ。船の上で『忘れた』なんて言われたら、たまったものじゃないもの」 「お父さん、船酔い大丈夫なの?」 「大丈夫。娘の晴れ姿見てたら、酔ってる暇なんてないわよ」 他愛無い会話をしながら、ココアを飲んでベッドに戻った。ココア効果は抜群で、あたしはすぐに眠りに落ちて行った―― 夢を見た。 久しぶりに高校時代の夢。あたしはまだ制服着てた。突然雨が降ってきて、傘が無くて昇降口で空を見上げてたら、けいちゃんが「送ってってやるよ、春日」ってあたしの手を引っ張って、校舎の裏側の駐車場までつれて行こうとする。 放課後、まだ沢山人は残ってて、手を繋いで歩いてるあたしとけいちゃんを、みんなが見てる。 「だ、だめだよ、けいちゃ…じゃなくて、先生っ。あたし平気だから」 「遠慮しなくていいよ。春日濡れちゃうじゃん」 「遠慮じゃなくて、みんなバレちゃうよ?」 あたしが必死に言うと、けいちゃんはふっと足を止めて、振り返る。廊下の窓の外は暗くって、ざあざあグラウンドに打ち付ける雨の音が響く。いつの間にか廊下にも、教室にも人影はない。 「バレたらまずいの?」 にっとけいちゃんは口角を上げる。 「な…」 何、言ってるの? まずいに決まってるじゃん。 そう叫んだ瞬間、あたしは自分の声で覚醒した。 「ゆ…夢?」 まだ心臓ばくばく行ってる。卒業してから1年以上経つのに、未だに罪悪感あるのかな、あたし。 いつになっても抜けない背徳感に苦笑いしてから、はっと気づく。雨。お、お天気大丈夫かな。 ベッドから跳ね起きて、カーテンを開けると、分厚い雲の隙間から薄日が差し込んでる。 「ビミョー」 呟いてから、あたしはケータイサイトの天気予報を確かめた。本日の横浜の天気曇りのち晴。降水確率20%。 「やった」 ガッツポーズを作ってから、あたしは階段を駆け下りた。 朝食を摂って、支度をしていたら、けいちゃんが迎えに来てくれた。1週間ぶりのけいちゃん。う、なんかオトコっぷりが上がってるような…。 あとで聞いたら、メンズエステ行って来たって。けいちゃん、ずる〜い。あたしも行けばよかった。 「慧史くん、おはよう。朝ごはん食べた?」 「はい、バッチリです。次いつ食べられるかわからないので」 「そうね、披露宴1時〜ですものね。遠藤のご家族は?」 「昨日こっち来て、今は山下公園近くのホテルに泊まってます」 「あら、いいわね。じゃあ、向こうで落ち合うの?」 「ホテルに迎えに行って一緒に会場に向かうことになってます」 「そうか。じゃあ、慧史くんあとで」 「はい。じゃあ、行こ? 千帆」 けいちゃんに言われると、いよいよなんだな…と思って、どくんと大きく心臓が収縮した。 「忘れ物ない?」 なんて、けいちゃんとお母さんから念を押されながら、あたしは靴を履く。 今日は車厳禁。けいちゃんを手を繋いで、駅までの道を歩いた。 「今日の千帆の目標は誰より可愛い花嫁になること」 「は、ハードル高っ」 「あと、最後まで笑顔でね」 「頑張る」 「行こっ」 けいちゃんの手があたしの前に差し出される。あたしはその手に手のひらを預ける。当たり前の行為。でも、これすらも当たり前に出来なかった時もあったんだよね。けいちゃん。 今朝の夢のせいか。あの頃の切ない気持ちを思い出しながら、あたしはけいちゃんの歩調に合わせて歩き始めた。空が徐々に明るくなっていった―― [*前へ][次へ#] [戻る] |