だからやさしいくちづけを【完】 ♯1 木曜日は、ありこさんが僕の店に回ってくる日。 なるべく仕事は早めに片づけて、ありこさんは、最後の仕事を僕のところにして、屋上の駐車場でこっそり待ち合わせて、一緒に帰るのが、定番。 「あつ…」 8月の空の下。 一日炎天下に晒されていた車内の温度は、夕方日が落ちても、簡単には下がらない。 こもりきった熱を少しでも、逃がす為に、僕は慌てて窓を開けた。 「ホントあっちーね」 ありこさんはそう言ったと同時に、何処で買ってきたのか、僕の目の前にビール缶を差し出した。] 「開けて」 ああ、爪が邪魔で開けられないのか。僕は言われるままに、プルタブを引き抜いて渡す。 「んまーいっ」 爽快なありこさんの言葉に、沸き立つ疑問。 「僕のは?」 「だって、穂積運転するじゃん。ビールはうちに帰ってから」 小さい子供を諭すように言うありこさん。 「そりゃそうだけどさ」 真隣でうまそうに喉をならしながら、飲まなくても。 「あ、じゃあこれあげるよ」 ありこさんは自分のバッグから、ペットボトルを取り出した。 「秋の新商品」 一口飲んで、僕は吹き出しそうになった。 「ぬるっ」 「あったりまえじゃん。この炎天下、アタシが一日、あちこち持ち歩いてるんだもん。穂積はいいよね〜。エアコン効いた店内で、涼しく仕事出来て」 「そんなことを」 僕に文句言われても。 「やっぱり、アタシ異動願い出そうかな?」 「異動願い?」 夏の営業活動がいやだから? 「うん、ホントはアタシ、商品のキャッチコピー考えたり広告の方やりたいんだよね。秋に社内で希望部門部署への移動願い出来るんだ」 「ふーん」 ありこさんの口から、初めて聞く話で、僕は相づちをなんと打っていいのか戸惑う。 センミツーー1000ある商品の中で、売れて残るのは3つだけ。 そんな言葉が出来るほど、過酷な飲料業界。 売れ行きを決めるのは、パッケージだったり、CMだったり、最初のイメージ戦略にあるといっても、過言じゃない。 部外者の僕が考えたって、難しい仕事なのは用意に想像つく。もちろん、営業だって大変なんだけれど、そんなとこなんか行ったらーー。 「アタシが店に来なくなったら、寂しい?」 ありこさんは、僕の思いを見透かして笑う。 「別に。家でいつでも逢えるし」 「でも、帰りとか遅くなるかも」 「ねえ。僕に止めて欲しいの? 応援して欲しいの?」 「穂積の困ったカオが、アタシには何よりのサカナなんだよねー」 嬉々として言うと、ありこさんはぐいと缶に口をつけた。 何処まで意地悪なんだ、この人。 「ま、希望出したからって、通して貰えるほど、甘くないけどさ。言ってみても、いいかな、って」 「通るといいね」 7時近いのに、まだ明るい夏の夜の中に僕は、車を走らせた。 久しぶりに、外で食事を済ませて、アパートに戻った。 そのアパートのドアの前に。見知らぬ男の人が立っているのが、駐車場から見えた。 蛾が群がる、外通路の街灯の真下。 真夏なのに、スーツを着込み、大きなスーツケースを傍らに、ケータイを操作している男の人は、年は30代後半から、40代といったところだろうか。 僕の知り合いではなさそうで。 「ありこさん、あの人知ってる?」 僕は訝しげに彼女に聞いた。 僕に言われて初めて気づいたらしいありこさんは、目を大きくして、彼の姿を捉えると、僕を置いて、アパートの外階段を駈け上がった。 「かずにいっ」 「ありこ」 ほぼ同時に呼びあう声。 にい、ってことは・・・お兄さん? 後からついてきた僕は、少し安堵してから、二人のカオを交互に見る。 ああ、うん。そうかも。鋭い目力のシャープな一重が、同じ形。 確認しなくても、兄妹ってわかってしまう。 ちょっと、待って。 ありこさんのお兄さん??? 僕、どうしよう。 一緒に暮らしてるなんてことバレたら、まずくない? 送ってきたことにして、退散した方がいいような。 「じゃ、じゃあ、僕帰るね」 何処に? と自分でも突っ込みながら、僕はありこさんに背中を向けて、立ち去ろうとした。 「待て」 「待って」 同時に呼び止められて。 更にありこさんは、僕のワイシャツを、スラックスから飛び出るくらい、引っ張った。 「穂積の家はここだろ?」 い、言っちゃっていいの? それ。 ありこさんの言葉に、お兄さんの目が鋭く光った。 ――誰だ、オマエ。 問いかける視線に、竦みあがりながら、僕は渋々鍵を出して、家の戸を開けた。 (怖い恐いこわい…) 下手なホラー映画より、よっぽど涼しくなりそうだ…。 [次へ#] [戻る] |