だからやさしいくちづけを【完】
#8
いつもの時間、ギリギリに店に入ると、僕は軍手をして、作業した。
品出しの時はそれでごまかせたんだけど。
お昼近くに、事務所で、パソコンいじってたら、茜ちゃんに指摘された。
「穂積くん、その手どうしたの?」
僕は慌てて、両手を後ろに隠す。
「茜ちゃん」
「それ、ネイルだよね」
誰も、穂積の手なんて見てないよ。
ありこさんの嘘つき。ソッコー、バレてるじゃん。
「リムーバーあるよ?」
そう言って、茜ちゃんは、自分のバッグのポーチから、透き通ったオレンジの小瓶を出してくれた。
「ど、ど、どうしてっ?」
ってかさ。
この動揺っぷりで、既に語るに落ちてる…ってヤツ?
腹に一物も置けない、自分のバカ正直な性格が恨めしい。
茜ちゃんも、返事を待たずして、答えはわかってしまったようで。
「やっぱり、そうなんだ」
と、事務所の机から、顔を上げて、にま〜と笑った。
もう、今さら。ムキになって否定する気にもなれず。
「どうして、そう思ったの?」
僕は逆に質問し返してみた。
「昨日、売り場で逢った、って言ったでしょ? 私、あの時、穂積くん探してるんですか?、って聞いちゃったのよね。
あの人、自分で探すので大丈夫です、ってすんなり答えてから、ハッとした顔になってた。
普通、メーカーの営業さん、担当者の下の名前なんて知らないでしょ?」
ありこさんらしくない失態と思うか。
それだけのことで、ピンと来た茜ちゃんの観察力がすごいのか。
「でも、何か意外な組合せ。穂積くんが、あの人って」
茜ちゃんは、僕が一番思っていることを、悪気無く言って、更にとどめの一言を突き刺した。
「遊ばれないようにね」
いや!!!
既に!!!
おもちゃにされつくしてるから。
…この手見れば、わかるじゃん。
X
一日ぶりに帰った家は、暗くて、静かで、…寂しい。
ありこさん、ちゃんとご飯食べてるかな。
的外れな心配をしながら、僕は、冷蔵庫からビールを取り出す。
付き合い始めてまだ、一週間も経ってない。
ありこさんに、振り回され続けた毎日、だったような…。
それなのに、なのか。
それだから、なのか。
…逢えない日は、寂しい。
僕が、そう思う気持ちの、半分でも、三分の一でも。
ありこさんが、同じ思いでいてくれたらいいな。
次に、会う約束もしないままで。
「おやすみ」と、「おはよう」のメールだけは、送りあって、三日が過ぎた。
いつもなら、僕の店に顔を出す、木曜日も、
「忙しいので、行けません」
ビジネスライクな電話が一本入っただけで、ありこさんは来なかった。
逢いたいと思う、寂しさと愛しさで、僕の胸が、飽和状態になった日曜の夕方。
ありこさんは、突然、僕の店に現れた。
押し合うカートや、その周りをちょろちょろする子ども達。
なかなか進むこともままならないような、ごった返した店内に、ありこさんが立ってた。
つばの広い帽子を目深に被って、いかにも伊達な眼鏡まで、かけて。
マキシ丈のボーダーのワンピースは、ありこさんの綺麗な足を見事に覆ってる。
多分、ありこさんと付き合う前の僕なら、彼女だとわからなかった。
「…仕事? プライベート?」
僕は思わず訊いていた。
「こんなカッコで、仕事なわけないだろっ」
わかりきったこと質問するなと、ありこさんは、イラついたように言う。
うん。でも、スーパーにそのカッコも、珍しいけどね。
客と店員。
なるべく、傍目にはそう見えるように、僕はありこさんの方を見ないで、商品の補充しながら話した。
「今日はどうしたの?」
「穂積、今日何時に終わる?」
僕は時計と売り場を眺めた。
「七時…くらいかな」
あと一時間半。蒸し暑い今日の気温じゃ、車で待つのは、辛そう。
「終わったら電話して。適当に時間潰してるから」
ありこさんはそう言って、人波に消えて行った。
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