だからやさしいくちづけを【完】
♯9
吹き抜けた風に、海の匂いが混じる。
僕の家から15分も歩けば、広がる湘南の海。
夏休みにありこさんと行った日のこと、思い出しながら、僕はベランダに座り込んだ。
屋根にせり出して、作られた板張りのベランダは、昼間は物干し場だけど、周囲に高い建物もないこの辺りだから、夜の空を、僕はぼんやり見ていた。
中空に懸かる十三夜。栗名月とも呼ばれる今夜の月も。
さっきの残像を映し出すスクリーンにしかならない。屋上で見た光景に、僕は全身が凍りついた。
見たくなくて、すぐに目を背けたのに、いつまでも脳裏に焼き付いて離れない。
――ありこさんと、日下部さん。
ふたりして、手すりに背を預けて、同じ缶コーヒー手にして、何か話してた。ただ、それだけ。
なのに、割って入れないものを感じで、僕は咄嗟に背中を向けて、来た道を戻った。
何をしに行ったかも忘れていて、報告が遅くなった僕は、また店長に怒られて。
でも、そのお説教すらも、上の空。
ふたり並んだ身長とか立ち姿とか。僕なんかより、ずっと似合ってた。
「何やってんだ、穂積」
もたれかかっていたガラスのドアが開いて、振り返ると兄貴がいた。
「別に」
「昔からおまえの定位置だよな、そこ」
ほっといてよ。
高校生の時まで、兄貴と同じ部屋使ってたから、ひとりになれる場所なんて、ここくらいしかなかったじゃん。
「月が綺麗だな」
僕がみあげていたものに、兄貴が気づく。
「今日は、十三夜だから」
「十三夜?」
「あ、つまり、月見の夜」
かなりはしょって説明すると、兄貴は興味なさげにふーんとうなずいてから。
「じゃあ、せっかくだから一杯やるか」
一旦階下に消えると、缶ビール2本とさきいか抱えて戻ってきた。
「たまには悪くないだろ」
軽く缶の側面を合わせて乾杯した。
「たまにはね」
ってか、こんな風に兄貴と飲んだことあったかな。
4つ年上の兄貴は、豪気で快活で出来も良くて、女の子にももてて、しょっちゅう比べられては「にてない兄弟ね」と、ため息つかれて、自慢であると同時に、僕の卑屈さに輪をかけてくれたような人でもあったから。
兄貴がお嫁さん連れてきて、僕がこの家でるって決まった時。どこかでほっとした。
これで比べられずにすむ、って。
「なにがあったか聞かないけどさ」
ビール缶に口をつけて、景気づけみたいに、ぐいと飲んでから、兄貴がふいに切り出した。
「これからどうするつもりなのかは聞いてもいいか」
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