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短編集
遠くに在りて思うもの 1
 久幸が内緒にしたいって言うから、俺達はずっと、隠れて二人で会っていた。
 会社の仲間と何度目かの飲み会で、俺はこいつと気が合うと思った。
「今度、二人でどこか遊びに行かない?」
 まるで女の子を誘うような口調で言ったのがまずかったのか。久幸は声を潜めて、
「みんなに内緒でなら」
 と、そう言った。
 何のつもりかわからなかったけど、
「いいぜ」
 と俺も言った。
 だから俺は二人きりで遊ぶくらい仲が良いことを、誰にも悟られないようにしてきた。

 それを知らされたのは、何気ない同僚の一言。
 ちょっとだけコピー機を借りに、隣の営業二課に行った。資料をセットし、部数を指定して、左側ステープル止め設定をしてから、全部の設定を一度指差し確認。それから、コピー機のスタートボタンをえいっと押した。
 がーがーと動き始める機械の横で、ぼんやりしていると、
「コピー機使用中?」
 見てわかるどころか、音を聞けばでわかることを言いながら、竹中がファイルを手にして近づいてきた。
「おう、うちの、今点検中でさ」
「コピー屋さん来てんのか。何部?」
「30部、カラーあり」
「うーい。あ、そうだ、お前、中川ちゃんが誰と付き合い始めたか知ってるか?」
 自分のデスクに戻りかけて背中を向けたが、またこちらを振り向いて尋ねて来る。
「知らないな。とうとう誰か落としたのか」
 同期で一番可愛いのは、中川千里ちゃん。誰もが認めることだ。
 天然系で俺はちょっと苦手なタイプだが、可愛いとは思う。中川、と呼び捨てには出来ない雰囲気がある。色が白くて目が大きくて、誰に対してもにこにこしていて、上司にも気に入られているようだ。ただ、もしかしたら女から嫌われるタイプかも知れないが……。
 竹中は再び、俺の方に近づいてきた。言いたくて仕方が無い、という顔をして、顔を寄せてくる。
「平野だぜ、ひ・ら・の」
「はっ?」
「しーー! 声がでかいよ」
「平野!?」
「驚くだろ?」
 うっしっし、と竹中は変な笑い声を出した。
「さすがミスター出世頭。っていうかさ、平野を選ぶあたり中川ちゃんも抜け目ないって言うか、な。まさか、男を収入で評価する子だとは思わなかったな」
「いや……あいつなら、誰も文句つけられないからじゃないか? 中川ちゃんも、自分が先輩・同期から狙われてること気付いてたんじゃないかな」
「そうか? そういう子には見えないけど」
「いや、ああいう子は男の目を気にしてるもんだよ」
 中川ちゃんの話になっているが、俺が気になるのは平野のことだ。
 平野久幸……俺と性的な関係まであるあいつが、なんで中川ちゃんと付き合うことになってんだ?
 俺達は、付き合おうとか言ったわけじゃないが、そういう雰囲気だったのに……。
「平野も、中川ちゃんに気があったんだなぁ」
 俺はなんとか、久幸の情報を引き出そうと、話をそっちに持っていってみた。
「数々の女をフッてるんだから、誰か本命がいるんだろうって予想はできたけどな。やっぱあいつも、男だったか」
「中川ちゃん、守ってやらなきゃならない雰囲気持ってるもんなぁ。でも俺、苦手」
「なんで?」
「ぼや〜っとしてて、正直疲れるよ」
 はははと竹中は笑った。
「風見はハキハキ、ビシッとしてるからな! お局とか似合いそうだな!」
「やめろよ。おっ、コピー終わったみたいだ。じゃあな」
 矛先が俺に向いてきたところで、タイミング良くコピー機は紙を吐き出すのをやめた。俺は30部の資料を両手に抱え、二課を後にする。
 営業一課に戻ると、俺の隣のデスクは空席だった。久幸の席だ。
 本人の代わりにデスクを睨むように見てしまう。
 なんだ、中川ちゃんと付き合ってるって、どういうことだ、この野郎……。戻って来たら、詰問してやる。
「風見、なにを突っ立ってるんだ?」
「か、課長! すみませんっ。あ、これ、リンクサードさんの資料ですっ」
「ありがとう」
 通りかかった課長に資料を一部手渡す。残りはこれから会議で配る分と予備だ。
 資料を置きながら、ホワイトボードを見る。社員は外出する際にこのホワイトボードに行き先と戻り時間を書く。平野の欄には、戻り17時と書いてある。直帰じゃないなら遅くなっても戻って来るだろう。待っててやる。
 今日は残業だ、と覚悟を決めて、自分のデスクに戻った。
 15時に始まった会議は長引いたが、17時半には終わった。各課には上役から次回の会議までに新たな課題を与えられて終了だ。
「今日も赤羽くん、迫力あったなぁ」
会議室を後にして戻りながらの課長の言葉。赤羽というのは今回の企画のチーフで、うちの課長のみならず肩書きのある多くの人に期待される将来有望な先輩。俺より二年前に入社。
自分の課の人間でもないのに嬉しそうに誉める課長に俺も合わせる。
「そうですね、かっこよかったっす」
「あれで入社三年目だからな。企画開発部の山崎部長が信頼しているはずだよ。ああいう若い人がいてくれると会社の将来も安泰だと思うよ」
「そうですね」
言いながら、営業一課に着いた。ドアを開けて課長を先に通す。
「今日はあがりでいいからね」
課長の言葉にうわの空で、わかりましたと答えながら、久幸の席に目を走らせた。
が、いない!
慌てて壁のホワイトボードを見る。平野の欄は書き替えられていた。
「直帰。17:15telあり。」
会社に電話して直帰することを伝えたようだ。電話を取った誰かが書き替えたのだ。
くっそー。
ますます、モヤモヤしたものが溜まる。
なんだよ、わざと戻って来ないんじゃないか?などと思い始めていた。
18時に会社を出て、家に帰ると19時を回るところだった。電車で30分くらいの場所に部屋を借りているが、駅から家まで徒歩15分はかかる。
帰ってきて冷蔵庫を開けたら、何も入っていなかった。
「あっ、そうだった……」
朝、家を出る時に、帰りに食材を買ってこなきゃと考えていたことを思い出した。すっかり忘れていた。帰り道、ずっと久幸のことを考えていたせいだ。
くそっ。
バン、と冷蔵庫を閉めた。
イライラする。酒が飲みたいが買いに行くのは面倒臭い。
放り出したスーツの上着を取り上げると、胸ポケットから携帯を出した。
薄型のシンプルデザインの携帯は会社から支給されているものだ。仕事関係の人の連絡先は全てこの携帯に入っている。受付の可愛いお姉さんのも、課長のも、久幸のも。
とにかく居ても立ってもいられないから、電話帳から「平野久幸」を探し、通話ボタンを押した。鳴り始める呼び出し音。
ルルルルル、という音は人を苛立たせる。
早く出ろよ、何してんだよ。
5コールで音は途切れた。留守番電話のアナウンスが流れ始める。
俺は切断ボタンを押した。しーんと黙る携帯をソファーに投げる。
仕事中かも知れない。お客さんと一緒にいたら電話は出られないだろうし。あと電車の中だったとか。でも、もしかして……中川と一緒かも知れない。
その夜、俺は気にしないようにしながらも、久幸が折返し電話をかけてくれるんじゃないかと期待して、携帯を常に気にかけていた。だけど電話は来なかった。
いいさ、電話なんかで話したって、俺もあいつもちゃんと話ができるわけない。顔を合わせて話さなきゃ駄目だ。

翌日は朝から俺も久幸も仕事に追われていた。今日は俺が外出ばかりで、昼飯でも誘おうかと思っていたのに会社に戻れなかった。
外を回ってくたくたに疲れて、会社に戻る。エレベーターを降りた時、一課のドアから出て来る久幸を見た。鞄を持ってまっすぐこっちに、エレベーターに向かって来る。帰るらしかった。
俺もまっすぐ久幸に向かっていく。
「お疲れ」
言いながら、久幸は俺の横を通り抜けようとした。
「久幸」
俺は声を抑えずに呼びかける。
皆に内緒で二人きりで会う関係上、会社では平野と呼ぶことにしていた。だから久幸は俺の呼びかけに、すっと眉根を寄せて足を止める。
咎めるような目線を送ってくる奴に、努めて冷静に問いかける。
「付き合ってる子がいるらしいな」
久幸の顔に動揺はなかった。
そりゃそうだろう。付き合っていることを隠してはいなかったんだから。俺との関係とは違って。
「俺に一言あってもいいんじゃないか?」
「……一言って?」
ムカつく。素直に、何か思いついたこと言えばいいじゃないかよ。ごめんとか、別れてくださいとか、さ。いや、付き合ってるわけじゃないけど、お前、あんだけ情熱的なセックスしておいてまさか何の感情も抱いてなかったとか言わないよな。
「いくら内緒の関係って言っても、そりゃないんじゃないの?」
俺はそろそろ、余裕を保つことが難しくなってきた。
「だから、な……俺と表面上ただの同僚以上友達未満みたいな関係に見せてたのは、中川と付き合う時に困らない為なんだろ? だからって、何も言わずに俺を切り捨てるってのは、ひどいんじゃないの? 俺はそれなりにお前には気を遣ってやったし、優しかっただろ?」
「別に……付き合ってたわけじゃないだろ」
久幸は言いながら目を逸らした。
なんだ、その言い方……。
俺の存在はこいつの中でそんなに重大ではないことを知らされた。頭にカッと一瞬で血が登る。が、なんとか押さえ込んだ。
 久幸はため息をつきながらさらに言う。
「もっとドライにいこうぜ。そんなふうにごちゃごちゃ言われたくないから、内緒で会おうって言ったんだ」
「そうかよ」
「そうだよ。冷静になれよ、お前。男同士なんだしいいじゃないか、妊娠したってわけでもないだろ」
「ああ、そうだな」
はぁ、そうか、そうか。久幸にとっては、俺達の関係は本当にただのヤリ友だったわけだ。俺だって、別に付き合っているつもりではなかったが、久幸が俺を気に入ってるならいずれ関係を発展させてもいいと思っていた。
俺は久幸に背を向けると、自分の部署へ向かって歩き出す。
久幸がため息をつき、歩き出す音が背後でする。足音は遠ざかっていく。
もうすぐ8月が来ようとしている。俺は初めて久幸とそういう関係になった日を思い出す。
6月の初めだった。
久幸の家で二人で飲むのは二度目。
取引先につまらない嫌味を言われてささくれだって久幸の家に押しかけた。
事前に携帯に連絡を入れたが、とっくに帰宅していたらしい久幸は快く来いよと言ってくれたのだ。
俺は別に、彼を相手に愚痴をこぼしたわけじゃない。だけど荒れた飲み方をしていたと思う。無理に明るく振る舞おうとしながら。
そしてふと、無言でビールを注いでくれた久幸と目が合って、俺は肩に入っていた力が抜けてしまった。こいつの、この静かな雰囲気が気に入って、気負わない態度にるそばにいると落ち着くことができるから、ここにいるのに。なんで無理にテンションを上げていく必要がある……?
ことん、とビンをテーブルに置くと、久幸はふと笑った。微笑んだ。
「なんだ、惚けた顔して」
俺の顔を見て笑ったらしい。
久幸に毒気を抜かれた顔をしている俺を見て。
俺も笑ってやったが、弱々しい表情になったことだろう。
ビールをあおった。
久幸の手がそっと俺の肩に触れ、えっ、と振り向くと存外近い距離に顔があり、驚いて固まってしまう。まさかそのまま、くちづけされるとは思わなかったから、逃げもしなかった。
「なに荒れてる?」
「えっ……」
「いやなことでもあったか?」
「ま、まぁな」
今のくちづけの意味を考える間もなく、質問を浴びせられた。何もなかったかのような話し方。だが、久幸の目は近すぎる位置から、じっと俺を見ている。
目が、合ったままだ。
「ひさゆき」
呼んだ声がはっきりと音にならなかったかも知れない。
久幸を抱き締めようと動いた俺と、俺を抱き寄せようと動いた久幸は、同じだった。どちらかが先に動いたわけではなく自然と。
だけど明らかに俺は久幸に誘われたんだと思う。
抱き締めて倒れこんだ俺の耳元に久幸が囁いた。
「抱きたい? 抱かれたい?」
俺は息が荒くなるのをこらえながら、久幸の服を脱がしにかかる。
「抱きたい」
そう言って。

二人で遊びに行かない?

そう言った俺に、その時、誘われたと久幸は思ったんだ。だから、内緒でなら、と言った。
だけどその勘違いのおかげで、俺は相性のいいセックスの友達を手に入れた。
俺が抱いていたのに、久幸は大胆で、俺を煽って、誘って、飲み込むようだった。
苦しい夜だった。
何度も求めたし、求められた。
情欲を愛と勘違いしそうなほど、激しく貪り合った。

俺達の関係は、表向きにはさほど親しくもない同僚。だけど、二人きりになったら遠慮なく欲を曝け出して求め合う、恋人未満の友達だ。
だけど久幸はいつでも優しかったし、激しかったし、俺のことを少なからず好いているんじゃないかと思っていた。
だから、来たるべき時が来たら、俺達は恋人になるんだろうと、勝手に思っていたのだ。愚かな俺は。
久幸にとっては、全く、遊びでしかなかったと言うのに。

だけど思い出すたびに、胸がかきむしられるような気持ちになる。
「もっと、してほしい、諒」
そう言って俺のアレを舐めるお前が。
「諒がほしい」
そう言って俺にまたがるお前が。
俺を何とも思っていないなんて、嘘だろう……?
蒸し暑い中を、スーツで歩くなんて正気の沙汰じゃない。
上着を脱いでネクタイを緩めながら、喫茶店に駆け込んだ。
「あっつ…」
店内は冷房が効いていて、確かに涼しいのだが、あまりに体温が上がりすぎていてすぐにはその涼風を感じられなかった。
「アイスコーヒー、それと水ください」
注文を取りに来た店員に愛想を振りまく元気もなく、不機嫌に告げた。お冷やくらい頼まなくても持ってきてほしい。店員はにこやかな返事をして去っていく。
「あーあ、営業、失格」
笑いながら俺の向かいで言った待ち合わせの相手は、女の子だ。中川千里。
顔を見るたびに複雑な思いを抱くようになってしまったので、ここ数日間は彼女を避けていたのだが、突然誘われたのだ。
彼女の前にはアイスコーヒーのグラス。半分も減っていない。そして傍らにはカバーがかかった文庫本が伏せて置かれている。
15分の遅刻。腕時計を一瞥して気付いた。なんとか打合せから大至急戻ってきたにしては、早い方だ。
好きでもない女なのに、女の誘いだから待たせちゃいけないと思い慌てて会社近くのこの喫茶店まで戻ってきた。本当に、なんで好きでもない女のために……。
「ランチ食べた?」
店員が俺のコーヒーを運んできたタイミングに尋ねる。首を振る彼女にメニューを差し出し、
「何か食べなよ。遅刻のお詫びにおごるから」
「ありがとう。うーんと……ランチセットA」
「俺も同じのを」
「かしこまりました」
店員はまたにこやかに言って、伝票に記入して去っていく。
「こんな会社近くの店でいいの? 平野にばれるよ」
アイスコーヒーのストローをくわえながら、冗談めかして言った。すると、中川はぷっと頬をふくらませ、子供のような顔をする。
「別にいいの! だって、久幸、冷たいんだもん」
「あ、もしかして、俺を呼び出したのってその話? 俺そんなに仲良くないよ」
「そうなの?」
中川は大きな目をくりくりと見開いて俺を見つめた。その目に微笑んでやる。
「そう、ただの同期で、隣の席だけどお互いに外出ばっかりで顔合わせないし」
「えー、久幸の部屋に、風見くんのネクタイがあったんだけど……」
「えっ!」
思わず大きな声が出た。
「ネクタイ?」
「そう。1本だけ、違う所にしまってあったから、久幸に聞いたら、風見くんの忘れ物だって……。部屋に行くくらい仲良いんだと思った」
「あ、あぁー……いつのだろう? 酔っ払って転がりこませてもらった時かなー」
ごまかすように言ってはみたが、焦りが声に出てしまっている。
いや、しかし、男同士なんだしそんな変な勘繰りはされないはずだ。落ち着け、自分……。
「ふーん、男の人って不思議。酔っ払って転がり込んでも、そんなに仲良いわけじゃないの?」
「まーね。その場の流れっていうか、別に親しくなくても酔って家に行くくらいはするね」
「そうなんだー」
「俺達のことより、中川ちゃんはどうしたの? 俺に相談?」
「うーん」
中川はテーブルに頬杖をつき、グラスに刺さったストローの先端を押さえる。だがそのまま飲むわけでもなく、からからと氷をかき回した。
「久幸とあたし、付き合ってまだ一ヵ月なの」
まだ……っていうか、そんなに前から付き合ってたのか、久幸の奴。
俺と最後にやったの、二週間くらい前じゃないか?
「それでね、こんなこと言いにくいんだけどー、ついこの間、初めてエッチしたのね」
「そう……」
 語尾が消え入りそうになった。コメントしづらいな。
「でね、その時、久幸はなんだか冷めてた気がするの。エッチしてからは、メールも電話もそっけない感じ……。男の人って、そういうもの? ひどいよね」
「どうかな、きっと平野はもともとそういう奴なんじゃないの? 気を許して素が出たってことなんだよ。冷たくなったわけじゃないと思うよ」
「そうかなー……メール返ってこない時とかあるんだけど」
「忙しいんだよ。でも中川ちゃんがそれで寂しい思いをしてるなら、伝えてやった方がいいんじゃない? 責めたら駄目だよ、男も傷つくから。さりげなく、寂しいなーってことを伝えてあげてさ」
「ランチセット、お待たせしましたー」
店員が不意に横に立った。
俺は彼女を口説いていると勘違いされそうな微妙な笑顔のまま固まる。
テーブルにプレートがふたつ置かれる間、そのままでいた。俺と中川のコーヒーを端に寄せてからプレートを置いて行くから、なかなか立ち去らない。店員は最後には、ごゆっくりどうぞと言いながら伝票を置く。いいから早く去ってくれ。
その間、中川は思案顔でうつむいていた。俺の言葉を考えているのだろうか。
店員が去ると、すぐに顔を上げる。そこには笑みが浮かんでいた。
「来た来たー」
ランチに喜んで、フォークを手に取っている。その子供っぽいしぐさが俺は苦手なんだ。
可愛い。確かに可愛いが、女として見れない。もっと大人っぽい女が好みだからな……。
「んー、サラダ美味しい」
「そう?」
俺には普通のサラダなんだが。サラダは、ドレッシングの種類やかけられている量も人それぞれの好みだから、うまく好みが合うと美味しいのだ。きっと、中川はこのフレンチドレッシングが気に入ったんだろう。俺のサラダは、ドレッシングがかかりすぎて酸っぱいんだが……。
「あのね、やっぱり思ったんだけど」
「ん?」
「風見くんと久幸、あんまり仲良くないなら、あたし、風見くんに相談しても無駄だったよねー」
「そうだね」
はじめから俺はそう言ったし、相談に対しても当たり障りないアドバイスをしてやっただろうが。
なんだかイラッとした。
「でもまたランチ行こうねっ」
中川は悪びれない笑顔で言った。
なぜ、俺が中川とランチに行かなければいけないんだ。
「そうだね。ぜひ誘ってよ」
俺も営業スマイルで答えた。
もしかして、中川は次も俺におごらせるつもりなんだろうか。たぶん、そうだろう。自分で払うと言い出すタイプには見えない。
こういう子を可愛いと思って、守ってやりたくなる男もいるんだろうが、実際、そういう男は多いんだろうが、俺は自立した女性が好きだ。
二度と中川と食事には行かない、と、心中では誓っていた。
定時の18時に、正面玄関の受付の所で久幸と中川が話している姿を見かけた。久幸は微笑を浮かべて話している。冷たい素振りなんて見えない。
俺はこれからまた、打合せに赴いてから直帰の予定だったから、二人を一瞥するだけで通り過ぎた。
久幸は今日は定時で帰るのだろうか。ホワイトボードに何と書いてあったか思い出そうとするが、もともと注視していなかったので全く思い出せなかった。

 よくよく考えてみれば、もともと久幸はメールが返ってくるのも遅いし内容も短かった。それを中川は冷たいと感じるかも知れない。
 俺達はろくにメールも電話もしていないが、会社で会った時、あるいは飲みに行った時や互いの家に泊まる時、話をしていたから距離を感じることはなかった。
 中川に特別冷たいなんてことはないと思う。しかし彼女としては、特別扱いをしてほしいんだろう。


8月に入り、蒸し暑さに負けそうになりながら、盆休みだけを楽しみに日々を乗り越えていた。皆が同じ気持ちだろう。
朝起きた時点ですでに暑さでだるいなんて、やる気が削がれるに決まっている。夏休みがあるから、なんとか8月はやっていけるのだ。
「風見、夏休みはどうするんだ?」
会社の休憩所(喫煙所だ)で宮崎に話し掛けられた。
「帰郷するかな。妹いるし」
「妹がいるから帰るのか? 仲良いのか?」
「良い良い。10歳離れてるからな。生意気でも可愛いぞ」
「なんだ子供か。美人なら紹介してもらおうと思ったのに」
おまえなんかに俺の妹を紹介するものか。
その時、休憩所の扉が開いて、また誰か入ってきた。見上げた宮崎が煙草を持った手を挙げる。
「よぅ、平野は盆はどうすんだ?」
入ってきたのは久幸か。
俺も振り返ると、確かに久幸がいた。シャツの袖を肘までまくっていて、宮崎と同じ格好なのに、手足が長いからだろうか、久幸は男前が上がっている。


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