短編集
水たまり
父が大きな水たまりに落ちて死んだ。
その水たまりは「そこなしぬま」と言うんだと、後になって知った。
実際には、底に群生する藻が人の体をとらえて溺れさせてしまう。
僕は自分のあしたも決められない18歳になった。
父が死んだのは僕が12歳の時。
父が亡くなったことが精神的な傷になっていると医者は淡々と言った。
僕はあの日から口がきけなくなっていた。
誰とも話をしたくはない。
そんなだから、手話も覚えられなかった。
通信制の学校に通う。
病院に通う。
全部、祖父母が決めたこと。僕はただ黙っていた。
口がきけないというよりも、言いたい言葉もなくて口を閉ざしていた。
「将来は社会福祉に貢献する仕事なんてどう? 障害のある子は、そういった仕事につくことが多いそうよ」
なんて祖母が話しているから、僕は「そういう仕事」につくんだろうか。
諾々と僕は周囲の言うことに従う。
今日、叔父が来るので駅まで迎えに行ってほしいと頼まれた。叔父は父の弟。
「あなたの特徴を教えておいたから、駅で声をかけてくれるはずよ。あなたは叔父さんと会うのは子供の時以来よね。覚えていないかしら」
祖母の言葉に、首を左右に振る。
叔父のことなんて覚えていない。
僕はバスで駅に向かった。
駅では僕はただ改札前につったって待っていた。
特徴を教えたって、どんなことを言ったのだろう。まさか、父に似ているとか?
そんなこと、どうでもいいけど考えていた。
「タケルくん?」
横から声をかけられ、振り返る。僕はわずかに目をみはった。
叔父は、父によく似ていた。父そのものだった。
「なかなか会いに来られなかったんだが心配はしていたんだ。元気そうだね。……葬式の時、君は病院にいたから会えなくて」
叔父はバスの中でよく喋った。
話し方をきいているとわかる。本来、あまり喋らない人だということが。
僕が無反応なので、やがて諦めたのか叔父も黙った。
無言で30分。無言でバスを降りた。
貴弘叔父は父によく似ていた。
それに父のように優しかった。
家には昔、叔父の部屋があったけれど、今は僕の部屋になっている。だから叔父は客間で寝起きすることになった。
夜、布団の中でうつらうつらしていると、控えめに扉を叩く音がした。どうぞ、と言えないので起き上がって歩いて行き、扉を開ける。
叔父が立っていた。
室内が暗いのを見て、
「ごめん、もう寝てた?」
僕は小さくうなずいた。
「ずいぶん早いんだね。起こして悪かった。ちょっと本を取りに来たんだけど…」
僕の部屋には、叔父が置いていった本棚がそのまま残されていて、ぎっしり詰まった本もそのままだった。
叔父は立ち去りそうな気配を見せたのだけれど、僕はすぐに消したままだった電気をつけてあげた。
「入っても、いいか?」
僕はまたうなずいた。
叔父が本棚の前に立つ。僕はその後ろからのぞきこんだ。
「ここの本、どれか読んだ?」
本棚を人指し指でさし、ぐるりと大きな円を描いてみせた。
「まさか……全部?」
叔父は僕に背を向けたままだったが、僕はうなずいた。
叔父はすぐにハードカバーの本を何冊か取り出して抱える。
「邪魔してごめん」
そう言って、部屋を去っていった。
僕は棚の空白になった部分を眺めてから、電気を消した。
僕は叔父の後を追いかけるようになった。
叔父の読んだ本を読んだ。叔父の見るテレビを見た。
叔父の後をついて歩いた。
なぜかわからないのに、その背中を追いかける。
夜、叔父の部屋に押しかけたらさすがに部屋に戻れと言われた。頑固に戻らないでいたら、やっと同じ布団に入れてくれた。
叔父は父の匂いがした。
父の温もりがした。
病院の先生が叔父のことを知っていた。一緒に行った祖母が話したらしい。
「どうして叔父さんの後をついて行くの? 自分ではわかる?」
先生にそう言われてもわからなかった。
叔父の後をついて行く、理由……理由……理由……なんだろう。
「父の匂いがする」と、ホワイトボードに書いた。
先生は満足そうに笑っていた。
僕が父の匂いのする、父によく似た叔父を追いかける理由は、僕にしかわからない。
叔父と並んでひとつの布団の中。
うつぶせになって肘をつき、同じ姿勢で本を読んでいた。
僕の本は叔父が昨日読んでいたもの。叔父の本は明日僕が読むもの。
やがて、
「そろそろ寝ようか」
そう言って叔父がスタンドの明かりを消した。
暗闇の中で、本にしおりをはさんで枕元に置いた。
叔父の体に、体をすり寄せてしがみつく。
やっぱり、父の匂いがした。
動かない叔父の体に両腕を回して抱き締めた。
温かかった。
顔を押し付けていると、いつもは動かない叔父が突然起き上がる。びくっと僕が手を引くと、それを捉えられ布団に押し付けられた。
叔父が体の上に乗る。
重い。
「タケル、」
かすれた叔父の声がして、口に濡れたものが押しあてられた。顔に鼻息がかかった。口に押しあてられたのは、多分、叔父の唇。
僕はそれを受け入れた。
叔父の手が僕の胸や腹を上下に行き来する。
僕も手をのばして叔父の下半身をまさぐった。
途端に、叔父の手が止まった。
「タケルっ」
驚いたような声。なぜ、そんな声を出すのかわからない。
叔父は焦ったように僕の上からどいた。そして僕に背を向けて寝てしまった。
僕はその背中にしがみついて、腕を叔父の股間にまわす。それはすぐに振り払われた。僕はまたすぐに手を伸ばした。
何度も、叔父に手を払われては伸ばした。
抱いてほしかったから。
何度目か、同じことを繰り返した後、叔父が突然、僕の方へ向き直った。
暗闇に慣れた目に、怒りに燃える叔父の瞳がはっきりと見てとれた。
「こんなことは、駄目だ」
まるで自分に言いきかせているみたいだ。叔父さん。
「君は僕に、お父さんを求めているんだよ。でも僕はお父さんじゃない。それに、こんなことしちゃ駄目だ」
先に僕の唇を奪ったのは叔父のはずだった。
それなのに僕は諭されていた。
「誘うようなことも、したら駄目だ……もう部屋に帰って。君と一緒には寝られない」
どうして、と僕は口を動かした。
叔父が怪訝そうな顔をしたから、ゆっくりと何度も「どうして」と口を動かした。
「僕達は叔父と甥だよ。こんなことは、いけない」
「ど、う、し、て」
僕は呟いていた。
ひどいがらがら声だ。それにとても小さい。
それでも呟いていた。
叔父が驚愕に目を見開いたけれど、そんなことは構わなかった。
抱いてほしかったんだ。
「だ、い、て」
かすれたひどい声の僕の懇願に、叔父は顔をひきつらせた後、また勢いよく僕の上に乗ってきた。
さっきとは比べものにならない、荒々しい手つきで僕の服を脱がせた。
僕も叔父の下半身をまさぐって、今度こそ拒まれなかった。
「あ、あっ」
内側を熱いものでえぐられて、体を揺らされて小さな声があふれる。
両足の間で、叔父が前後に揺れていた。僕も揺られていた。
「あ…あ、お、とうさん」
僕のかすれ声。叔父の驚いたような顔。
でも行為は止まらない。
「おとうさん…お、とうさ、ん」
「道広…っ」
叔父がせっぱ詰まった声で父の名を呼んで、僕にしがみついた。
僕が、父が死んだ時のことを思い出した瞬間だった。
沼の淵で遊んでいた。
そこへ錯乱したような父が駆けて来た。
母が僕達を置いて逃げたのだ。
父は惑乱していた。僕を草むらに押し倒して、乱暴にズボンを脱がせて性器を口に含んだ。僕が抵抗すると激しく頬を殴られた。
父は僕を犯そうとした。
父は泣いていた。
泣きながら呼んでいた。
「タケル……真美子……貴弘……俺からいなくならないでくれ……」
僕の名前も、母の名前も、叔父の名前も。
呼んでいた。
僕を犯そうとしながら。
僕は抵抗した。12歳の小さな体で、必死の抵抗。
錯乱していた父はその抵抗に憤り、暴れた。
暴れたひょうしに、足を滑らせて沼へと滑り落ちて行った。
あっという間の出来事だった。
僕は父に抱かれたかった。抱かれてあげれば良かった。
父はかわいそうだ。
僕と叔父は明け方近くまでむつみ合っていた。
体が痛んだけれど、僕は満足だった。
父が僕を抱いてくれたような気分だった。
そして叔父も、父を抱いたような気分だったんだろう。
後になって叔父から聞いた。
父と愛し合っていたけれど、兄弟という禁忌が恐ろしくて逃げたと。
そして父が愛した母も逃げて、父は錯乱してしまった。
僕も叔父に話した。
父が死んだ時のこと。
父に犯されそうになって、僕が沼へ落としたことを。
僕達は父を受け入れてあげなかったことを後悔していた。
叔父は父に似ていた。
僕は父に似ていた。
僕達は父の代わりにお互いを愛した。
お父さん。僕も叔父も、本当はお父さんをとても愛していたんだ……。
ごめんなさい。お父さん。
終
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