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短編集
旅立ちへの導き手(暗め)
 いつでも窒息しそうだ、この世界は。
 咥えた煙草から灰が落ちると同時に、そのスイッチを押すと、強い音に数コンマ秒遅れて尻の下が揺れた。僕がいる非常階段の真正面のビルだ。火を噴き上げて窓ガラスとコンクリの残骸が夜空へ舞う。黒い煙がたっているはずだが、生憎と周囲が暗過ぎて見えない。
 僕の眼は無表情にそれを眺める。そこに誰かの魂が吸い込まれているにも関わらず、心を動かされることはもう無かった。
 僕だってこうして、這いずり回るように生きているから。誰かが今、この瞬間に理不尽な爆弾テロで死んだとして、僕の人生と何の差があるというのだ?
 死ぬように生きているこの僕と、予告もなく命を散らされた人と、何の違いも感じられない。そう、今の僕には。
 じりじりと煙草の白い身体は火に侵食されて、また灰が落ちそうになっていた。煙を吸い込むでもなく咥え続けていた煙草を床に落とすと、立ち上がって踏みつけてやった。ざり、ざり、と擦れて無残な姿を晒す彼にはもう、見向きもせずに階段を降りて行く。

 あの日、僕が何も出来なかったから、僕の愛しい父は死んだ。母が狂ったように男と交わっていた日々。父は、母が精液の匂いをさせて帰って来るのと同じ数だけ、狂ったように僕を犯した。
 痛みも快楽もない。従えば父は僕をいつくしんでくれた。僕は父の愛が欲しかっただけだ。
 狂った様に。それは比喩のはずだった。実際には狂ってなどいないのだ。この貧しさから解き放たれたら、僕達は正気に戻れるはずだった。
 だけどある日突然、父は黄泉へと旅立った。僕の上で。
 口からあふれた黄色い泡が汚くて、僕はその死体を押しのけて風呂へ行ったけれど湯はおろか水も出なかった。父の部屋からコカインが見つかって、なぜ突然、彼がああなってしまったのか僕は理解した。
 その頃、家の外にある下水路の中にはすっかり腐敗した母が眠っていて、僕はいつから父が麻薬を多用し始めたのか定かには思い出せないけれど、彼女がここに入った頃からである可能性は高いように思えた。母があれほど体を売ってお金を得ていたはずなのに、僕がいつも腹をすかせているほどに貧乏だったのは、父が薬を飲んでいたせいだ。
 悲しさは僕を通り越して父と共に天国に行ったに違いない。僕は両親と言う重荷から解き放たれた、と同時に、これから一人で食べて行く手段を思いつくことが出来なかった。
 僕の家では金を得る手段と言えば、母がやっていたようなことだから、思いついた仕事はそれしかなかった。街での立ちんぼから、裏社会を仕切っている連中の下っ端の男達と知り合いになり、そんな奴らが僕に勧めてくるのはやはり麻薬だった。
 僕が中毒になれば、体を売って得た金は全てあいつらの懐に入る計算だ。
 両親の二の舞にはなりたくなかった。もともと感覚が麻痺していた僕が中毒になるほどそれに頼ることは無かったのだけれど、連中はそれが気に食わなかったようだ。監禁されて薬漬けにされて、客をとらされ続けた。身寄りのない僕の体ひとつ、命ひとつ、連中には扱うことは容易かった。
 頭の血管が切れる寸前で、理性を失って糞尿を食わされた日、突然店に押し入って来た連中がいた。とかげの尻尾切りのように、組織の内情を知る人間は事前に逃げ出していて、何も答えられない僕のような人間だけが警察に捕まった。
 痩せた青白い腕。折れそうな僕を抱きしめた彼は心配そうな顔をしていた。
「君、大丈夫か! 意識はあるか!?」
 顎の下まで襟を詰めた苦しげな制服。そんな物に囚われていたあなたは、一体、僕と何が違うというんだろう。

 拷問まがいの取り調べの末、麻薬中毒患者の更生病院へ入れられたが、一週間経たずに抜け出した僕は、自分に出来ることは何もないと思った。出来ることと言ったら、ただ、この腐った世の中を変えていくことだけ。それも、最悪なやり方で。
 面白半分に作った爆弾は性能が良かった。試したのは僕自身が詰め込まれていた更生病院だ。
 あっという間に広がる炎、人々の悲鳴。誰かが死んでいく。父や、僕と、同じような運命を辿ってこの病院に入れられた人達の命が失われていく。
 父だって死んだんだ。みんな死ぬ運命にあるのだ。
 僕でさえ。今、生きているように見える僕でさえ、もう死んでしまっている命なのだから。




 思い出すと陳腐な人生を送って来たなと思う。別段、自分を憐れんでいるわけではないんだ。
 ただ、どうしてか、何もかもを破壊してやりたい衝動に駆られる。
 この国を壊したいという組織に拾われたのはつい最近のことだった。爆弾テロの手伝いをするならいくらでも飯を食わせてくれる、という条件だった。食べて行く方法を知らない僕はその言葉に乗った。
 カツン、カツン、と非常階段に足音が響く。向かい側のビルから唸りを上げて立ちのぼる炎のおかげで、僕は足元を見失わずに歩いて行くことが出来る。

 その時、下から昇ってくる足音に気付いた。複数の音、しかも慌ただしい。
 僕は立ち止まって待った。その姿が見えてくるのを。
 折り返しの踊り場で、僕を見つけ黒い制服の集団が立ち止まった。腰にサーベルと銃を下げた連中だ。ああ、ここまで来たのか。
 その先頭にいた清冽な瞳と目が合う。僕の掌に冷や汗が浮かんだ。
 何故ここにいるんだ。僕を監禁から救い出したあなたが。
 相も変わらず苦しげな制服を着ている。
 彼は僕に気付いたのだろうか。炎に照らされた残酷な爆弾魔の顔に。
「あ……ルーディ、君」
 彼の口が開かれ僕の名が呼ばれた。僕を覚えていたのだ。顔だけではなく、名前まで。見開かれた目がまっすぐに僕を射抜いた。
 僕を鞭打って組織のことを吐かせようとしたにも関わらず、死にかければ優しげなしぐさで病院へと放り込んだ彼は、今日また、僕を捕えに来たのだ。

 どうしてだ。教えてほしい。僕は初めて会った時から、あなたの目には弱い。

 心が、体が、囚われそうになる。
 僕は身をひるがえして階段を駆け登り始めた。組織の掟は徹底して守らなければいけないのだ。僕が嫌いなこの世界を変える為には必要なことだ。僕の意志を継いで、この世界を壊してくれる連中の為に、対抗する組織に決して秘密を漏らさないこと。
 秘密を漏らさない為に、僕自身の口を封じること。
 逃げ出す。
「待て!」
 お笑い草なセリフを吐いて追ってくる連中になど捕らわれない。
 キィン、と足元で耳を裂く金属音がした。銃弾が金属製の非常階段に当たった音だ。足を撃ち抜いてでも僕を止めたいのだろう。僕は立ち止まると振り返り、緩慢に上着を脱ぎ捨てた。下から現れるのは僕の細い肢体ではない。肉のない細い肢体にしがみついた、たくさんの爆弾だ。銃弾が当たればそれだけで僕が粉微塵となるのは言うまでもない。
 驚愕して構えた銃を引っ込める連中を嘲うように、僕はまた階段を駆け上がった。

 いつでも窒息しそうだ、この世界は。
 僕の存在は死と同じだ。生きてなどいるものか。この腐った体も、感情を示さない心も。
 屋上に飛び出すと、そこには僕を遮る物はなかった。迷わず走る。
 飛び降りる瞬間には、久しぶりに口元に笑みが浮かんだ。旅立つのだ。父と母のいる遠い異国へ。そこにはきっと、笑顔があるだろう。
「ルーディ君!」
 あなたの声が僕を振り返らせる。だけど、目を合わせながら僕は飛び出した。
 足が空に浮いた瞬間には、煙草が幾本か零れ落ちてぱらぱらと舞った。胸元のスイッチを探る。僕が地面で赤い花と成る前に、このビルごと消えてやる。
 僕が爆発すれば非常階段は巻き込まれて崩れ落ちるはずだ。そしてビルが半壊するくらいの衝撃を与えられればいい。そうしたらあなたは逃げ場がない。あなたと心中なら悪くはない。
 旅立とう。この上もない幸福感の中で、スイッチを押した。

 嗚呼。僕を恨むか? 僕を憐れむか?
 あなたの顔が見たい。異国で待ってる。






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あきゅろす。
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