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短編集
幸せを探し(暗め)
 この制服を着る時、僕は決別を受け入れなければいけない。
 支給された灰茶色の、装飾もない地味な制服を寝台に置き、僕は二里離れた隣の家に住む幼馴染みに会いに走った。

 月は時折雲に隠れる。他に明かりもない草っ原の夜道だが、慣れたこの二里を僕は易々と駆け抜けることが出来る。
 だけど。
 こうして、こんなにもあいつに会いたいと切望しながら走るのは初めて。……で、最後。

 やがて辿り着く屋敷の裏側から入ると、障子をそっと叩き呼び掛けた。
「昭(あき)」
 静かな人の気配がする室内から、すぐに障子は開かれる。飛び出してきた小さな昭は闇夜でも白い顔が浮き立つようだった。
「お兄ちゃんっ」
 胸元へ入り込みしがみつく愛しい幼馴染みを僕は力をこめすぎないように抱き締めた。
「昭……」
 昭は長い髪を結い、僕にもたれかかりバランスを崩した下半身が両足を揃え横向きに投げ出されている。寝巻の裾から覗く細い足首は変声期前の少年のもので性を判別しかねるが、その所作は少女のそれだった。

 8つ年下の昭を僕は生まれた時から知っている。



「昭江ちゃん、陣痛が始まったって。弓彦、昭江ちゃんの赤ちゃん見たいでしょう? 行きましょ」
 そう言って助産婦である母が隣家へ行った12年前、僕は同行していた。昭の母親の昭江おばさんは陣頭が半日以上も続き、母はそばを離れられなかった。
 他に家にいたのは昭の父親と昭江おばさんの姉。三人の奉公の女性。僕は炊き出しや風呂の支度を手伝っていたが、8歳では出来ることに限界があり、いつになく忙しなくどこか落ち着かない様子の大人達を見上げていることにもやがて飽きた。ふと母親の姿が恋しくなり、その日は男子立ち入り禁止と言い付けられた昭江おばさんの寝室に向かう。
 部屋に入れば怒られる。見つからないように、息を殺すようにして寝室の襖を開けた。
 開ける前から、泣き声はしていた。
 赤ちゃんだ……。
 襖を細く開けると、中央の布団に横たわる昭江おばさんの顔は見えなかったが、横に座る母はよく見える。母は腕に何かを抱きかかえていて、姿も見えなかったがそこに赤ちゃんがいるのだと思った。
 産まれたのだ。
 だが、喜ぶはずの二人は押し黙って、その重い空気は僕にも感じ取れた。母の顔は強ばっていた。
「男の子……」
 小さな、昭江おばさんの声がする。
「どうしよう、希美ちゃん、どうしよう」
「どうしたの。産まれたのよ、昭江ちゃん!」
 昭江おばさんはおびえたような声色をしていた。手が伸ばされ、それは母の膝にすがりつく。
「希美ちゃん、軍部のお義父さんから聞いたのよ! この国はもうすぐ戦争になるのよ! どうしよう、この子を兵隊にとられてしまう!」
「兵隊……」
 尾を引くように母は呟いた。その時もしかしたら母は僕の顔を脳裏に浮かべていたかも知れない。
 昭江おばさんの様子は明らかに緊迫していて、僕はその場から動けず、まばたきも忘れていたように思う。やがて啜り泣く昭江おばさんの声が細く聞こえてきても。
 僕も、母も、黙っていた。


「昭江ちゃん、昭江ちゃん」
 しばらくして、母は、すがりつく昭江おばさんの腕を二、三度叩きながらなだめるように呼んだ。
「この子を、女の子として育てましょう」
 その突飛な話に驚いたのか泣き声はぴたりと止まった。
「この子、目鼻立ちも整ってるし色白よ。女の子として育てられるわ」
「そんな……顔もくしゃくしゃなのに、わかるの?」
「今までたくさんの赤ちゃんを取り上げてきた私よ。わかるわよ。この子は昭江ちゃん似。ね、昭江ちゃん、お屋敷の奥深くに大事に大事に隠して育てましょう。この家ならできるわ」

 昭の家は、この地方一帯では「湯本さんのお城」と呼ばれる、門構えから遠くまで続く塀囲いも立派なお屋敷だった。代々陸軍の重役に任命される名家である。産まれた女の子を箱入り娘として屋敷の奥深くに隠してしまうことは可能だった。
「希美ちゃん、できるかしら……あの人もお義父さんも納得するかしら」
「大旦那様は男の子を望んでいらっしゃったから……。話せないわ。旦那様には話しましょう。あの方ならきっと、わかってくれるでしょう。それに私、しばらくこの子のお世話をしに来る。弓彦にも世話をさせる。私達で守っていきましょ、ね、昭江ちゃん」
「……うん、希美ちゃん、お願い。産まれた子は女の子ですって言って」
「うん。さ、産まれたことを報告しなきゃね」
 母はそう言うと、赤ん坊を昭江おばさんの隣に寝かせ、立ち上がった。こちらに近づこうとし、母の顔色が変わる。襖が開いていることに気付いたのだ。
 母は足早に僕のもとへやって来ると勢い良く襖を開け放った。
「弓彦っ! ……聞いていたの。他には誰もいなかった?」
 僕は母の剣幕に声を出せず、うなずくのみだった。
 母はゆっくりとその場にしゃがみ僕と視線を合わせる。
「弓彦、赤ちゃんが産まれたから他の人を呼んで来てちょうだい。女の子よ」
 僕はまた無言でうなずくと廊下を走り出した。
 だが数歩で止まり振り返る。母は僕をじっと見ていた。
「お母さん、僕、赤ちゃん守るよ」
 そう言うと、母は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。


 その後、皆で昭江おばさんをねぎらい、昭を抱き上げ、それから、その場で母と昭江おばさんは、この男の子を女の子として育てることを告げた。母と昭江おばさんと、昭の父、おばさんの姉、そして僕だけが、昭の秘密を知っている。

 昭の祖父、湯本家の大旦那様と呼ばれる人は、産まれた子が女の子と聞くと落胆し、昭に興味を失ったらしい。名付け親は大旦那様だ。母親から一字取り「昭子」と名付けた。愛情の感じられない名前だった。


 それから12年、僕は、昭を大切に大切に面倒見てきた。
 だけどこの日がいつか来ることは、わかりきっていたんだ。「この日」が来ないのなら昭を女の子として育てはしない。
 僕は明日、支給の軍服を着て兵舎へ行く。


 腕の中で昭が顔を上げた。愛しい昭。僕の宝物。
「お兄ちゃん、行かないで……」
「昭」
 うっすらと月明かりが差した昭の頬を涙が伝っていた。
「そんなことを言ったらいけないよ」
「だって、お兄ちゃんが……」
 三年前に徴兵された僕の兄は、ここ一年、音沙汰がない。近所でも、軍に入った男衆と連絡が断たれたという話をよく耳にする。
 帰って来られないのだと思う。
 生きては二度と会えないのだと思う。
 だからこの薄闇の中であろうと昭の顔をしっかりと見つめていたかった。その背に回した腕を外し親指で頬を拭ってやった。
 それでも、次から次から、大きな瞳から涙が溢れてくる。僕は無理して笑ってみせた。
「泣き顔しか見せてくれないんじゃ、悲しいよ」
「っう、お、お兄ちゃっ」
「昭、お願い、泣き止んで」
 ぽんぽん、と昭の背を軽く叩いた。あやすように。
 それが逆効果だったのだろうか。昭は、うわぁと声をあげて僕の胸に泣き崩れる。
「だって、だってっ! お兄ちゃんが行っちゃう! いやだよ! 行かないで!」
「昭……昭、昭」
 しがみついてくる頭を撫で、背を撫で、抱き締め、こめかみに何度も口づけた。
「昭、泣き止んで、お願い、昭……悲しい昭の顔を見たくない」
「お、おに…っ、うっ」
 早くも昭の声は枯れ始めていた。恐らく、昼間もこうして部屋で一人で泣いたのだろう。僕を思って。
 昭のことならなんでも知っている。あの時僕が守ると言ったのは母の為だったが、すぐに昭の為に昭を守ろうと誓った。僕を慕い、僕の後を付いてくる昭を守りたいと思い、そしてこの12年の間に、自分の中に密かに育っていた恋慕の情に気付いたのはつい最近で。
 僕はこの気持ちを決して漏らすまいと決心した。
 昭は再び僕を見上げる。涙をこらえようと、唇を噛み締めて。
 僕が「お願い」と言ったから、僕の為にこらえてくれている。
 僕の為に昭はなんでもしてくれる。僕はそれを知っている。
 僕の気持ちを伝えたなら昭は喜んでその身も心も差し出してくれるだろう。いや、心は既に僕のものなのだ。
 僕はそれを知っている。だからこそ、告げられない。
 相思相愛となってしまったら弓彦という男は今より強く昭の心に残るだろう。死地に赴いた男を忘れられない一生を送らせることになってしまう。
「お、にいちゃん……」
 泣き声の可愛い昭。必死に僕にしがみついている。
「私、私……お兄ちゃんのこと、ずっと」
 昭の口が紡ぎだす言葉を、僕は遮った。
「言ってはいけないよ、昭」
「お兄ちゃん、お願い、私の話を聞いて」
「駄目だよ」
 昭の為に、昭の気持ちを今は拒むのだ。
「聞いてよ」
「言ってはいけない」
「どうして」
「昭…」
 僕、は……
 その言葉を聞きたくない。だけど。
 聞きたい。本当は、言ってほしい。
 昭の言葉をかき消すように僕は言う。

「駄目なんだよ!」
「好きなの!」
 そして僕の言葉をかき消すように昭が言った。


「私にはお兄ちゃんが全てだよ。大好きで苦しい」
 僕の頬を、涙が伝った。
 思わずのように力をこめて昭の頭を引き寄せると、僕は身を屈めてその唇に口づける。
 柔らかい小さな唇。触れてはいけないと自分に禁じていた。
 だけど、僕だって本当は、触れたくて触れたくて触れたくて……
「昭……昭……」
「お兄ちゃん、泣いてるよ」
 僕は昭の体を抱き締めて泣いた。
 これ以上は昭を汚さないように、お別れしよう。
「さようなら、昭。僕も愛しているよ。おまえをとても好きだよ」
 つられたように昭がまた泣き出す。
 ごめんね、昭。こんなに泣かせてごめん。

 どうか幸せになって……僕の愛した昭。僕が育てた昭。僕を愛してくれた昭。





 涙を堪え家に帰ると、僕の部屋に父がいて面食らった。もう夜も明ける頃だというのに。
 父は厳しい顔をして言った。
「お帰り」
「た、だいま、帰りました」
「逃げたかと思ったぞ」
「あ……すみません」
 父の前には僕が支給された軍の制服がある。父はそれを恭しく持ち上げると僕に差し出した。
 逃げるなと言うように。……だが父も痛ましい顔をしていた。
 僕は制服を受け取った。それはやけに重く感じられた。








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