短編集 臆病な恋の話 31日、電話を取らなかったら僕は、変わらなかった。でも電話を取ることには、迷いがあった。 12月31日、16時だ。大晦日というイベントも気にせず実家に帰るでもなく借家でテレビを見ていた。正月特番のCMがたくさん流れて、それらをウザイと思いながら。 コタツの上に置いた携帯電話が震え出し木と擦れ合ってガタガタと小刻みに大きな音で僕を呼ぶ。着信音の電子音が嫌いで常に消音状態だが、さすがにバイブレーションにしておかなければ連絡に気付かず、携帯する為の電話である意味がない。 予備校も休みで気楽に一人で過ごしているのに誰かと思えば、中学から大学まで共に過ごした学友だった。正直に言えば、電話に出るのをためらった。 電話着信、平山兼則(かねのり)。 電話を見つめ、しばし戸惑う。だが、電話はしつこく鳴り続け、僕は惑いを振り切るように通話ボタンを押した。 「これから、初日の出見に行こう!」 突然の誘いだった。 突然すぎる。学生時代ならともかく僕らは立派な社会人で……僕は司法試験の為にフリーターで予備校に通っているのだが、それでも少なくとも社会に出ている立場だ。 こういうことは事前に誘って予定を立てておけ、と兼則の車の助手席に乗り込むなり僕は説いたのだが、昔からそうなのだが彼は僕の話を真剣に聞いてくれる貴重な友人ではあっても自分が責められる立場の時にはまるで聞く耳を持ってはくれない。僕の顔も見ずハンドルをさばきながら返してきた。 「お前さ、電話した時、何してた?」 「家にいたけど」 「勉強してたのか」 「いやテレビ……」 「へーっ」 という意外な返答に横顔を伺うと、わずかに眉が上がっていて驚いているような顔をしていた。 「修(しゅう)は勉強してると思ったけどな。でも、じゃ、暇してたんじゃないか」 「え?」 「暇してるお前を連れ出そうとしてやった俺の気持ちもわかれよな」 「勉強してると予想してたんだろ。勉強の邪魔するつもりで電話してきたんだろ」 押しつけがましさに僕は呆れた。だが兼則は否定する。 「いや、違うよ」 「違わないだろ」 「違うって。勉強の息抜きさせようと思って誘ったんだよ。修は年末年始も家帰らないだろうし」 兼則は僕の生活パターンを知っている。なぜならば中学でクラスメイト、同じ高校に進みクラスは違えど同じ寮で三年間過ごし、同じ大学に進み、一人暮らしの借家も大学生向けのアパートが密集する地域でかなり近所だった。親密な付き合いをしていたと思う。 だが兼則は卒業と同時に就職し、新人だからという理由もあろうが社交性に長けた彼は色々と付き合いに忙しかったのだろう、この年明け差し迫った日まで一切連絡を寄越さなかったのだ。 それを、なぜ今更、という気がする。「勉強の息抜きさせようと思って」だなんて、僕のことなど忘れていると思っていたのになぜ、今更思いやるようなことを。 僕は呆れて兼則の顔から目を背けた。 「今更……」 窓に向けて小さく呟く。 「ん?」 兼則は聞き返してきたが、聞かせる為に漏らした言葉じゃない。僕は答えない。 そして兼則は僕の沈黙などこたえない。 「なぁ、後ろにお茶あるから取ってくれよ」 「あぁ」 体をひねって後部座席を見るとコンビニの袋が転がっていた。腕を伸ばして袋ごと持ち上げ、膝の上に持ってくる。中をあさるとペットボトルの緑茶が2本、同じくペットボトルの烏龍茶が2本、おにぎりが3つ、サンドウィッチ3つ、菓子パン5つ……おい、誰がこんなに食べるんだ。 とりあえず緑茶を出し、蓋を開けて隣に手渡してやる。 「さんきゅ。あー、寒くないか?」 「いいや」 僕は烏龍茶を取り出して勝手に蓋を開けた。 「そういえば兼則はどうなんだよ、実家帰らないのか?」 「帰ってるよ。けど出てきた。今更家族と年末年始だけ過ごすってのもないよ」 「あー……今更ね」 僕達は高校から既に家を出てしまっているし、家族の側としても僕達が家にいないことの方が自然だ。 「でも、他の人誘わないのかよ? ヤマとか、ミヅキとか」 「いーよいーよ、あいつらとはしょっちゅう会ってるから」 ああ、しょっちゅう会ってるのか。そうだよな、兼則はいつも連中の中心だったから。 俺はその会合に誘われもせずそんなことがあったとは初耳だということにチクリと胸を刺されたが、その痛みからは目を逸らした。 「あー……稔里(みのり)、とかは」 僕が知る限りは大学卒業時にはまだ付き合っていた兼則の彼女の名前を出してみた。 「稔里? 別れたぜ。5月かな? ゴールデンウィークの予定で揉めて。めんどくさくなって」 アホか。 兼則の付き合いはいつも不誠実だと僕は思う。面倒臭いとか、彼女相手にそう思うのは良くない。 しかもゴールデンウィークの予定で揉めてということは……。大方のいきさつは予想できたが、僕が何か言う前に兼則は話を続ける。 「会社の同期と旅行の予定立てたんだよ。みんなで彼女連れて行こう、とか。だから誘ったら、稔里の奴、勝手に俺と二人で旅行行くつもりだったらしくて、キャンセルしろって言い出したんだよ。こっちは会社での顔もあるっていうのに、絶対行かない、何勝手に予定決めてんの、って怒り出すから、面倒になって別れた。泣いてたけどあいつが悪い」 「……ふぅん」 お前のその短気が悪いと思うけどな。稔里も短気だったけどね。 「で、旅行は兼則だけ彼女いなくて?」 「いや、彼女いない組といる組で、な。でもその旅行で女と揉めたって奴、他にもいたぜ。女ってめんどくせーよな」 「そっかな」 「修は甘いからな」 甘いって、彼女に甘いっていう意味ではないと思う。僕は彼女がいたことなんて、大学二年の時に二ヵ月だけだから。 じゃあ誰に対して甘いかと言うと、たぶん兼則は、他人に甘いっていう意味で言ったのだろう。僕は他人に甘いから、女をめんどくさいなんて思わないんだろう、って。 「でも」 兼則の言葉の意味を考えてたら、さらに続けて言われた。 「お前は、やっぱり女はめんどくさいんだろ?」 「え……なんでだよ」 「告白されてもされても、断ってるじゃん」 「そんなの、めんどくさいから断ってるんじゃないよ。相手を好きじゃないから、付き合えないんだ」 「好きになれないのはめんどくさいからなんじゃねぇの? 中学から男子校でさ、女に免疫がなくて、大学でいっぱい知り合ったのに、知ってみたら実際は面倒だと思ったんだろ? お前が否定しても深層心理はそうなんだよ」 「そんなわけないよ、面倒だって感じるほど女の子と近づいたこともないし」 「それだよ。距離を縮める時点でお前は面倒だって思ってるんだ。だから距離も縮めようとしない」 「なんだよそれ……兼則にそんなふうに言われる筋合いないけど」 「図星だから怒ってんだろ?」 「違うよ」 「違わないよ。お前、滅多に怒らないけど、お前の領域に踏み込むと怒るよな」 僕は兼則を睨みつけた。兼則もちらりと僕に目を向けたが、すぐに前を見る。いつの間にか高速に入っていたんだ。あれ、いつだろう。インターチェンジを通った記憶がない。 俯きっぱなしだったからだ。 兼則を睨んだものの、僕はやっぱり言葉がなく、黙ったまま前を俯いた。人を攻撃する言葉は僕には難しい。ましてや僕は正当なことを言われている。兼則の言う通りなんだ。 確かに僕は女性に近付けないでいたけれど、それは決して、面倒だと思っていたからじゃない。嫌われるのが怖くて踏み出せなかっただけだ。 だがその臆病を兼則に曝すのはいやだった。 沈黙は長くなく、兼則はさらに僕を追い詰めてくる。 「でも彩香は付き合ったんだよな」 彩香は僕が唯一付き合った女性だった。優しくて、普通の人だった。だから付き合った。 「お前は彩香の何が良かったのかわかんないよ。普通の女なのに。俺とも仲良かったし、あいつ、俺にも気があったのかもな」 「……」 「なんとか言えよ。修が彩香と付き合った時、お前ならより取り見取りだったのになんで彩香なんだってみんな言ってたぜ。彩香は確かにいい子だったよ。でも地味。普通。お前には似合わない。みんな言ってた」 「……みんなみんなってお前は小学生かよ」 「お前こそ小学生みたいなこと言うな。それで、なんで? なんで彩香なわけ?」 それはもう、三年前にも兼則には散々詰められた問いだ。 「蒸し返す話じゃないだろ」 「お、逃げんのか?」 「逃げるとかじゃなくてな……。もう三年も前の話じゃないか。なんで今話す必要があるんだよ」 「俺はお前を暴き立ててやりたい」 「は?」 突如飛び出した乱暴な言葉に僕は一瞬、思考が停止した。 暴き立てる……って、兼則が僕を? 友人である僕を? なぜ? なぜそうしたがるのか? 理由を考えれば思い当たる節はある。兼則は僕を恨んでいるのかも知れない。 僕を憎んで、こんなことを言い出したような気がする。 昨年の年末は大学の仲間と忘年会だと言って居酒屋で飲んでは騒いで、誰かの家に転がり込んでいた。そこでも飲むのだが、学生向けアパートや下宿の密集した地域で、周辺住民は慣れたものなのだろう。さしたる苦情は来なかった。 31日はさすがに友人のほとんどが実家に帰り、兼則のアパートの住民を集められるだけ集めて飲んだが5人しかいなかった。 兼則の家で飲み、騒いで、零時前には近所の神社に行くことになっていたのだが連日の飲み会がたたって僕はもう出歩けないほど酒が回ってしまっていた。 「初詣はみんなで行って……起こさないでいいから」 僕はそう言い置いて、兼則の家なら慣れたもの、居間の隣の和室に転がり込み布団に横になった。寝室と言うと他にも部屋がありそうなご大層なイメージだが、2Kのアパートだから皆がまだ騒いでいる居間とこの寝室以外には風呂とトイレしかない。 「修ー、初詣は絶対起こすからなぁ!」 ご機嫌な兼則の声が聞こえて僕は眠っているところを叩き起こされる不快感を思い出し、いやな気持ちになったが、酔っ払いだからすぐに忘れてしまった。 その後は気持ち良く眠りについた。襖一枚はさんだ隣の部屋はまだ喧騒が続いていたというのに。 目覚めた時は暖かかった。ぼんやり目を開けると、目の前に兼則の顔がある。僕達は向かい合って眠っていた。 驚いて身を引くと掛け布団がずれ、寒さが襲ってきてまた布団に身を寄せた。兼則は左側に寝ていて、彼の左腕は僕の腰辺りに乗せられていた。 布団がずれたせいだろうか、兼則は「んっ」と小さく呻いて顔をしかめ、肩を震わせると、すぐに目を開いた。 居間の明かりがつけっぱなしだ。襖から漏れてくる光で、表情が見てとれる。 「あ、起きたのか」 兼則の呟きはしっかりしていて、さほど酔いも眠気も感じなかった。 対する僕の声はかすれてやや舌足らず気味。 「みんなは?」 「初詣行ったよ。修はもっと寝てろ」 言いながら、兼則は僕の背に腕を回して、自分の胸元に引き寄せる。 布団は狭いし仕方ないのだが、僕は驚いて少し抵抗した。 「やめろよ…」 「なんだよ、寒いんだよ。もっと寄れって」 寝起きで力が入らない僕はあっさりとその腕の中に抱き込まれてしまう。確かにくっつくと暖かい。眠くなる暖かさだ。 兼則の腕のに中で、ぼんやりとまた意識が薄れ始めた。 ああ、あったかい……眠い。 つん。 違和感を感じて、目を開ける。さっきよりも近くに兼則の顔。 そして、もう一度、つん、と唇に触れた。兼則が僕に顔を寄せて、唇を触れたのだ。 え、な、なに? 僕を稔里と勘違いしてるのか? 兼則も実はかなり酔っているらしい。 わずかに触れただけの唇のぬくもりが、ずっと残っていた。 兼則は閉ざしていた目蓋を薄く開く。その目線は僕の唇を見つめているような気がして、まだ求められているようで怖かった。僕は声を押し殺していた。息すらも。 そして早く彼が眠ってくれることだけを祈っていた。早く、早く、眠って……。 だけど兼則はそんな僕の願いを嘲笑うかのように、覚醒しているのか夢現つなのかわからない無表情のまま微動だにしない。僕はその動きを見守っていた。 やがて開かれた唇がため息混じりに呟く言葉。 「触れてしまったな……」 その意味を、僕は計りかねる。 触れてしまった? 何に? 「ずっと我慢していたのに」 兼則の声はどこか生気がない。寝呆けているのか、と思ったけれど、それにしてはこの何かおかしい。 意味を考え、混乱しながら、僕は何も答えず相変わらず息を押し殺していた。 ふと、兼則が目を上げる。視線がぶつかった。 僕は彼が全く正気であることを知らされる。今まで伏せがちになっていたその瞳は強い光を放って輝いていたから。 その強さに僕はたじろいでしまう。 兼則の目にあるのは情熱だった。僕は怖くなる。 兼則を恐れて息を潜めていた明確な理由を、僕自身がこの時はっきりと自覚させられてしまった。何となく感じていた恐怖、それは、兼則が僕を愛しているんじゃないかという疑惑だった。 僕はその答えを知ることになるのが怖かった。 常に感じている、兼則の僕に対する優しい態度や眼差し、その、空気……ただの男の友人に向けるにはやけに濃いその空気は、僕を愛しているが故なのではないだろうかと。そして、そんなことを疑っている僕のなんと間抜けでさもしい人間であることか。 僕はただの優しい男友達の態度に自惚れて、恥ずかしい。だから兼則の気持ちを疑っていることを知られたくはなかった。 「男友達の態度で、自分を好きなんじゃないかと感じるなんて、お前こそゲイなんじゃないか」と、そう兼則に罵られることが怖かった。 本当に怖かったのは、それだ。 僕が、僕こそが彼を好きなのだと、彼に知られることも、かなわない恋だと思い知らされることも、怖かった。 しかし、兼則の酔いに潤んだ熱い目線を受けて、僕は舞い上がろうとする気持ちを殺そうと必死だった。そしてそれに成功すると、心がすぅっと冷え切っていく。 例え兼則が気の迷いで僕を愛してくれることがあったとしても、僕の気持ちには到底及ばないし、捨てられるのは僕なのだ。彼は女性が好きで、女達も精悍でうつくしい彼を好きだ。 僕の冷えていく心を読んだかのように、兼則がまたぐっと顔を近付けてきた。 「好きだ」 もう、吐息も触れるほどの距離。 僕の唇にかかる息に体がかっと熱くなる。 「好きだ、修。お前を好きなんだ。ずっと我慢してた」 次々と告げられる言葉。耳に入るたびに僕の心は震える。 見つめ合っているのが怖くなり僕は目を逸らした。目線は兼則の顎の辺りをさ迷う。まだ動いている唇を、顎を、意識しないように自ら言い聞かせながら見るともなしに見る。 「修、お前も……」 その言葉に、僕はびくりと肩を震わせた。 「お前も、俺を好きだろう?」 見透かされていた……! そのことが僕をうちのめす。 兼則は僕の肩をつかんだ。それだけではない、背中に手を回して、また体を引き寄せようとする。 僕はその腕を振り払い、胸を押し返して拒んだ。 「なんでだ! 修、好きなんだよ! 俺と一緒に……」 抗う手を掴まれる。僕は兼則の目を見ることが出来ない。 「一緒にいよう、修」 祈るような、懇願するような声に、ハッと目を上げた。兼則はまっすぐ僕を見ている。 「修……」 こんなにも頼りない兼則の顔を僕は見たことがない、と思った。 僕にすがろうとする顔。祈るように名前を呼ぶ声。 こんなことがあるなんて、僕は想像もしなかった。……いや、こんな夢だけならば見た。だがいつか現実にこの日が来るなんて、予想もできなかったし、落胆するのが恐ろしくて考えないようにしていた。 僕は臆病だ。 兼則は一瞬、そんな顔を見せたものの、次にはまた意志を込めた強い瞳を取り戻し、僕を押し返した。そして一方の肘をついて体を起こすと、一瞬のうちに僕の上にのしかかってくる。 襟を強く握られて青ざめる。案の定、兼則はそのまま強く服を引っ張り、ビッと悲しい音をたててボタンが千切れ飛んだ。 「やめろ!」 襲われる恐怖に僕は夢中で彼を突き飛ばしていた。 「僕達、友達だろう」 ……僕は卑怯だ。兼則の気持ちを知りながら、彼が僕に焦がれていることを知りながら、受け入れることも突き放すことも怖くて、それなのにずっと傍にいたいのだ。 友達でいい、兼則の傍にいたい。僕に焦がれながらずっと傍にいてくれればいいのに。 僕が告げた時の兼則の絶望の表情は、彼と同じように僕をも絶望させた。 もう彼は僕のもとには帰ってこない。こうして傷つけた僕を再び求めることはない。 これは復讐だ。 兼則を愛しているのに逃げた僕への、兼則の復讐。 憎まれる覚えは、充分にあった。 車は軽快に追越し車線を飛ばしていく。100キロを越える速度で走っているはずの車を次々と追い抜かし、後ろに小さくなっていくそれらの車をサイドミラーで確認しては、僕は速度表示に目を走らせる。 160キロ……滅多に出さないその速度が、兼則の怒りを表しているようだ。 兼則がこの年末に突如僕を呼び出したのはそういう訳なのだ。お前こそが浅ましいずるい人間だ、と兼則は僕に突き付けたいのだ。 彩香の話から、僕を暴き立てたいと言った彼は、しばらく黙ったまま車を飛ばし続けていた。 何台目だろうか、追い越した車があっという間に小さくなるのを見た僕は、こくり、と小さく唾を飲み込んだ。一番親しい友人である彼に、注進することがためらわれる。 「スピード、出しすぎだよ…」 やっと口にした言葉は醜くかすれて小さかった。 だが、わずかにスピードが落ちたようだ。ぐんと重圧が軽くなり、安堵から吐息する。 「なんとか言えよ。言ってみろよ、彩香と付き合った理由をさ」 兼則はしばらく黙っていたくせに、また問いかけてきた。沈黙は、僕の返事を待っていたからだったのだと思う。 「別に……いい子だったよ。彩香は。それだけだよ」 「そうか? いい子だったな、確かにな。でも毒のないつまらない女じゃなかったか? 魅力的なところなんてあったか? お前に告白した女の中にはもっと可愛くて優しい女がいただろ。もっと性格のいい子はいただろ。でもお前が彩香以外の女と付き合わなかった理由は?」 問い詰められて、真面目に答えを探そうと、僕は考える。 けれど行き着く答えは結局、 「好きになるのに、理由付けは出来ないよ…。それにそんなふうに心理学みたいに、人間を分析したらつまらないよ。ただ彩香がいい子だったってだけで、いいじゃないか」 「いや俺は、お前が彩香と付き合った理由を突き詰めたいから聞いてるんだよ。それとも、俺が答えを当ててやろうか?」 「なんだって?」 あんなに、僕を問い詰めたくせに、答えを初めから知っていたというような言い方に、からかいを感じ、語尾が荒れる。 それに、兼則の言う「答え」とやらが僕は怖かった。まさか、兼則を好きだということを、隠したくて付き合ったんだろうなんて、兼則は思ってないだろうな? まさかそんなことを言い出さないよな? 怖くて怖くて兼則の横顔を注視してしまう。流れて行く、高速道路の電灯、他の車のヘッドライト、時折灯るブレーキランプ、それらに複雑に照らされて兼則の表情は見えたり見えなかったりを繰り返す。 だが一瞬、彼がこちらに視線を向けた時、はっきりと見えてしまった。目が合い僕はたじろぐ。 「答えを聞きたいのか? 聞きたくないのか?」 「答え……」 僕はまたはっきりとした返事をすることが出来ないまま、目を自分の膝に向けた。 兼則の方から鼻で笑うような気配がして、 「それとも両方か。聞きたいような、聞きたくないような?」 さらにそう言われた。 選択する権利を与えられているうちに、何か言うべきだ。ここで言わなかったら後悔する。 聞きたくないのに兼則は言い出しかねないし、あるいは、今答えを求めなければ永遠に教えてくれないかも知れない。僕は、聞きたくない。やっぱり聞いておくべきだったと、後で思うことになっても、聞きたくはない。 「いや、僕は答えなんて要らないよ」 軽く言ったつもりだった。軽い口調の兼則に合わせて、いかにも冗談ぽく言ったつもりだった。 「そうか、聞きたくないか。だったら俺はお前の口から答えを聞かせて欲しいんだ」 「僕は、答えなんて要らないと言ったんだよ」 聞きたいとか聞きたくないとか、そんな返答をしていない。この会話を拒否したのだ。それなのに、兼則はさらに求めてくる。 「答えが欲しくないのは、お前が自分の気持ちを隠したがってるからだ」 「なんで決め付けるんだ」 「彩香に悪いことをしたという自覚があるから、彩香のことを考えたくないんだろう」 「そんなわけないじゃないか」 僕は、兼則の言葉に心がいっそう怯えて肩が震えそうになるのを、必死に堪えながら答えた。 「彩香に悪いことって、確かに振ったのは僕だったけど」 「そうじゃなくて、付き合う時だろ? 好きでもないのに付き合ったお前が悪い。彩香を利用したな?」 「……」 「さっきから黙ってばっかりだなお前。俺はそんなに気まずいことを言ってるか?」 兼則の問い掛けは意地悪な響きを含んでいた。僕を少し、嘲るような……。 「言っただろ? お前を暴き立ててやりたいんだ」 「……っ」 何か言い返そうと、息を吸い込んだが、何も言えなかった。何も。 言葉が出てこない。僕が黙っていると、 「お前はさ…」 そう兼則が漏らすように呟き、やや速度が落ちるのを感じた。顔を上げると、料金所が目の前だ。高速を降りるらしい。 兼則は中途半端な言葉を発したまま、窓を開け、料金を支払って、また走り出す。ほんの1分にも満たない時間だったろうが、僕は放って置かれていたたまれなかった。 高速を降りてからもしばらく兼則は口を閉ざしたままだった。 彼は何が言いたいかったのだろうか? いやそんなことより、もう車を降りたかった。初日の出なんてどうでもいい。兼則だって今日のドライブの目的は日の出なんかじゃないんだから。 「お前はさぁ…」 兼則が再び呟く。 「彩香を選んだのは、お前が誰を好きでも許してくれる女だったからだろ。鈍いもんな、彩香は。お前が自分を好きでなくても、とりあえず一緒にいてくれて優しくしてくれりゃ良いっていう、単純で鈍い女。だから付き合ったんだろうが」 「彩香に……失礼なこと言うな」 「失礼なのは俺じゃないだろ。彩香は害がなくて楽だろ? だから付き合ったんだろ? 他の女だったら、もっと私を見てだのなんだの、うるさく言ったはずだからな。あの頃のお前は、彩香と無理して付き合ってるのがバレバレだったよ。気付いたのは俺だけだったろうが」 「そうか」 「あの時から考えてた。お前はなんで、無理してまで彩香と付き合ったんだろうって。やりたいだけなら、相手は見つかるだろうからな」 「お前と一緒にしないでくれ。恋人でもない人とやったりしない」 「そうか、悪いな。でもお前が彩香と付き合う理由がわからなくて、ずっと考えてた。お前、彩香とやったか?」 「はぁ?」 「やってないだろ?」 「お前に話すことじゃない」 「やってないんだろ?」 すぅっと車が脇に寄せられて止まった。他に車も人もいない真夜中の住宅街だ。 兼則はハンドルに片手をかけたまま、首だけ僕に向けていた。じぃっと見つめられている。 彩香……。 僕は目を固く閉ざした。脳裏によみがえるのは、情けない思い出だ。 彩香とやろうと、ベッドに入ったけれど、僕は兼則を思い出してしまって出来なかった。 出来なかったのだ。オトコが立たなかった。 やっぱり僕は、彼女を愛していたんじゃなくて、何も気付いていない、鈍くて優しい彩香に愛される心地よさが良くて付き合っていただけなのだと、最も実感した夜だった。いや、愛していないわけではないが、それは女としてではなかった。ただ母親や姉や妹のように感じていただけだ。 申し訳なくて数日後には彩香に別れを告げた。 ただ、僕以外の人間から見たら仲睦まじい二人だったと思う。兼則が感付いていたことには驚きだ。 僕は誰とも付き合えない。不誠実なことをした彩香にすまないと思う。だからもう誰にも同じことをしない。そして、兼則と付き合うことも出来ないのだから、僕は今後一生、誰とも付き合えないのだ。 僕は目を開いた。 右手でシートベルトを外しながら、左手では側にあるドアに手をかける。開こうとしたがぴくりとも動かない。目線を運転席の前方に走らせる。ロックを解除するボタンを見付け、手を延ばした瞬間、兼則に阻まれた。 「降ろせ!」 とうとう僕は叫んでいた。 兼則が僕の手首を右手で掴み、引き寄せる。そして後頭部に左手が回されて、後ろ髪をがっちりと掴まれ顔を固定されてしまった。痛いくらいに髪を握られている。 「降ろして…くれ」 口を動かすだけで後頭部が引っ張られて痛い。兼則の顔が近づいて、僕の顔を覗き込む。 「まだ話は終わってない」 低く兼則は言った。 僕は目をさまよわせる。 「もういいだろ」 囁くような声しか出せない。それは、髪を引かれて痛いからというよりも、大きな声を出す気力も失われていたからだ。 これ以上の討論は僕を奈落に突き落とす。僕の、醜い部分ばかりが暴き立てられる。彩香となぜ出来なかったか、なぜ付き合ったか、全ては兼則への思いに繋がっていくのに、昨年のあの夜になぜ彼を拒んだのかまで言及されたら僕は……。 兼則の顔がさらに近づいてきたが、決してくちづけの雰囲気ではなかった。 僕を逃がすまいとする強い眼差し。怖い。 「ずっと考えていたんだよ。お前が彩香は選んだのに、なぜ俺を選ばないのかって。お前は俺を好きなんだと思ってたけどな」 けど? けど、何が言いたい? 僕は目を閉ざした。もう放っておいて欲しい。僕を問い詰めて、僕のことを知って、どうする? 嘲るつもりなのか? ここで兼則に暴かれるのなら、僕が、自分を殺して彩香と付き合い、兼則を拒んでまで守った、彼の中の僕のイメージが失われたしまう。 「一年、ずっと、お前のことを考えていた」 「やめろよ」 「お前は誰なら愛せるんだ? 彩香が駄目で、俺が駄目なら、誰ならいいんだ? どんな女ならお前を落とせる?」 「やめてくれ……僕は、誰も愛さないよ」 「そう、お前は自分が一番いとしいんだよな」 兼則の声は怒気を孕んでいる。 「自分しか見てなくて、自分だけが大事で。そうだよな? ずっとお前だけを見てきた俺が馬鹿みたいだ」 「怒ってるのか、去年、お前を拒んだから」 「いいや、あれは俺が悪かったよ。急すぎたな。だけどお前が自分の気持ちを押し隠して理路整然としているのが、このうえもなく腹立たしい」 「やっぱり、怒ってるんじゃないか」 「突き詰めて考えてみれば、やっぱりお前は俺を好きだとしか思えない。だが俺の気持ちを拒む理由は、結局、お前の気持ちは大したことないってことぐらいしか思いつかない」 「…………」 悲しい。 兼則は僕の気持ちを、所詮大した思いではないんだろうと感じていたんだ。 「違うよ」 涙が溢れてきた。悲しくて。 「違う……よ。好きすぎて、怖かったんだ」 兼則の呼吸が、ぴたりと止まるのを感じた。彼は全身全霊で僕の声を聞いている。 「好きすぎて……。友達として傍にいられたら、お前の気持ちが離れていくこともない。お前にもし捨てられたら、死んでしまうから」 「修…ッ」 息を飲む音が聞こえてきた瞬間、僕の息も奪うようなくちづけに襲われていた。 髪を掴んだ手には力がこもって痛んだけれど、その痛みさえも、僕は嬉しかった。兼則のくちづけは激しかった。 腕を掴んだ手が強く僕を抱き締めて、引き寄せる。 角度を変えて何度も、兼則は貪る。経験の少ない僕は翻弄されるがままだった。 兼則の嵐のようなくちづけが止むと、時が止まったように、僕達は強く抱き合ったまま微動だにしなかった。 兼則のぬくもりを感じる。鼓動も。 幸せすぎて、これは現実だろうかと目を開けてみた。はっきりと見える視界、兼則の背中の一部だけが確認できる。 そして空が、うっすらと明るくなり始めていて、僕は初日の出を見損なったことを知った。 兼則がゆっくりと体を離す。体は遠ざかるけれど、心はすぐそこにあって。 目が合うと兼則も少し涙ぐんでいた。 「修……ホテルに行こう。いいか?」 答えなんて聞かなくてもわかっているけど、と言わんばかりの確認をとる。だけど僕はためらった。ためらいの気配を感じたのだろう、兼則は僕の手を離すまいと強く掴んでくる。 「いやだなんて言うつもりか?」 「違う……そうじゃなくて、兼則、僕は」 兼則にあんなに濡らされた唇が乾いてきた。 「僕は、やられるより、やりたい方なんだ」 「……は?」 間抜けに目を見開く兼則を、僕はまっすぐ見つめる。 「お前を抱きたいんだよ」 兼則は言葉を失って呆然と僕を見つめ返していた。 そう、こういう反応も、怖くて……だから僕はこの恋から逃げ続けていた。だけど、兼則、君が僕と同じくらいに僕を愛していると言うなら、抱かせてくれるはずだよね。 僕は、 「ホテルに行こう」 そう、囁いた。 終 [戻る] |