[携帯モード] [URL送信]

短編集
花料夜話 5
 絵を描くことだけが僕達の生きている意味。僕達の絆。
 充津、レットバルの戦役に魅せられている君ならわかってくれるはずだ。
 僕達は同じ憧れを抱いている。
 君が恋しているのは僕じゃない。届かない、絵の中のあの人だ。



 気が付くと、窓から差し込む日差しは赤くなり、角度が変わっていた。夕暮れだ。
 人の群れに押されながらも、僕は花舞いの午後を目に焼き付けるかのように、ついに半日もその場を動くことがなかった。
 もう帰らなければいけない。
 絵の前を離れようと、視線を出口へと走らせた時だった。
 人々の頭の間に、やけにきれいな身なりの気取った男がいた。その雄々しい顔つきは忘れない。多少やつれていてもすぐにわかる。
 充津だった。彼もすぐに僕に気付くと、小さく笑って近づいてきた。
 僕の涙の跡を見て、指で優しく拭ってくれる。
「君が愛しているものに嫉妬するよ」
 充津は静かにそう言った。
「君が愛しているのはこの絵だったんだな。だから僕は君の心を奪えなかった」
「ずいぶん、自信家だね」
「ああ、そうさ。だから、僕は必ず君の心を奪うような絵を描く」
 僕は頷いた。
「僕達はきっと同じ運命なんだ、充津。誼湾様の絵を描きたくて生まれてきた」
「さぁ…? 僕は君と会う為に生まれてきたような気がするけど」
 冗談のような口調で言ったが充津の目は本気だった。
 充津は絵を見上げる。
「素晴らしい絵だ」
 ただ一言、そう呟いた。
 たった一言だったが、その口調、その眼差しに、僕は満足する。充津もこの絵に感嘆したのだ。


 彼が用意した馬車で、ラクリアン街の外れまで乗った。そこから徒歩で帰る。
 創理様の屋敷は伶項様の屋敷と反対に位置する。僕達は早々に別れることになった。
「街で、李燐様に同情する声を聞いた」
 別れ際、僕がそう切り出すと充津は頷いた。
「そうだ、民衆は李燐様の味方だ」
「だけど貴族は無戸家が怖くて李燐様を見捨てた。次の選挙は李燐様には勝ち目はないのだろう。だけど、充津、まさか核真様を襲ったのは君達じゃないだろうね?」
「まさか……。僕達は筆より重いものを持てないよ」
「だけど説が僕に教えてくれた。無戸家に味方する者を殺すと」
 充津は黙った。それが肯定だ。
 だが認めたくない。
 美しいものを作り出す芸術家達が、政治の為に手を汚す。そんなのは悲しい。
「充津、なんとか答えてくれないか」
「すまない」
「なんで謝るんだ」
「君の意見を聞かなかったばかりに……」
「え?」
 思いもかけないことを言われてしまった。僕の意見って、何のことだ。
 充津は苦々しい表情になった。
「サロンに、核真様の息のかかった者が紛れ込んでいた」
「な、まさか……」
「次にその男がサロンに来た時に、僕は……説得できなくて、口論になってしまった。核真様に密告されたら終わりだ。思わず、その男を……殺してしまった。間者が戻らなければ核真様に疑われる。迷っている暇はなかった。核真様の予定をすぐに調べて、夜間に外出する日を狙ったんだ」
 僕は愕然とその話を聞いていた。
「君が……?」
「いいや、核真様を襲ったのは、サロンに参加している者の中でも過激な連中だ」
 脳裏によぎる数人の顔があった。なんとなく、予想はつく。
「すまない」
 充津はもう一度、言った。
「君の意見を聞いていたら……」
「いいや、もう、過ぎたことだ」
 僕に謝ったところで、何も解決はしないのだから。これ以上、謝罪されても無駄なことだった。
「これからどうするんだ?」
「このままでは創理様にも無為な危険が及ぶかも知れない。あの方にお話してみようと思う。もしも味方をして下さるならサロンは本格的に誼湾様を支持する。創理様が反対されるなら、解散せざるを得まい」
 主人を捨てて、誼湾様を支持する画家として活動することは困難だった。資金や、安全面で、主人の庇護は必要だ。
「解散しても誰かが同じように集会を開くだろう。僕はまだ、李燐様に勝ち目はあると信じている。味方は多い」
 充津は創理様の安全の為に、秘密サロンを閉鎖するかも知れない。だが創理様に危険が及ばない範囲で活動は続けていくだろう。
 僕達は日が沈みきってから別れた。別れ際、充津はまた会いたいとは言わなかった。
 危険だから会いに来てはいけない、と僕に忠告した。


***


 祭典が滞りなく終わり、すぐに伶項様は僕を自慢する為のサロンを開いた。
 久しぶりのサロンでは飾った人々が行き交い、神殿で見た群衆の質素さと比べてうんざりする。もう長いこと僕はこんな世界にいたと言うのに、たった二日ばかり民衆に溶け込んだだけで感覚が変わってしまったようだ。
「やあ、璃月、絵を見たよ!」
「お嬢様の若々しいお美しさが絵から溢れているよ!」
「張り裂けそうなほどにハリのある肌だ! 生きているかのようだ」
 仲間や、顔見知りの貴族の方々には、口々に褒めそやされた。伶項様のお気に入りとなった僕の機嫌を取っておくことは決して損にはならないから。
 それでも、中には明らかなお世辞とは違う言葉をかけてくれる者もいる。
「お嬢様を描くならもっといやらしい格好をさせてみたら面白いのに」
 にやにやと笑いながら、そう言ってきたのは説だった。
「なんだ、僕の首が飛ばされてもいいのか」
「まるで絵から飛び出してきそうな美人画だ。裸婦画を描けばいい。売れるよ」
「数年前に禁制になったばかりじゃないか」
「そこは、ちょっとしたコツだよ」
 説は声を潜めて、
「禁止されてたって男は買いたいのさ。裏で流せばいい」
 と言う、その顔はいつもと変わらない。
 今日、僕を取り囲む人は多く、説は変わらぬ素振りをしなければならないのだ。
 サロンでは珍しく、充津の姿は見えなかった。僕はそれを案じなかったわけではないが、充津と会わずに済むということに安堵していた。


 その日の夜、伶項様にはまた、お嬢様を描くようにと言い付けられた。
「あの絵は手元に置きたい。今度は公爵に送る為の絵を描くんだ」
「公爵様に?」
 絵を送るということは、見合い前提だ。見合いをする前に、互いの絵を送り合う慣習だった。
 伶項様はご満悦の表情だ。
「今日、お見えになっていただろう。絵を気に入られて、是非にと向こうからおっしゃったのだ」
「おめでとうございます」
「娘のドレスを用意させなければな。急いで支度させるが数週間はかかるだろう。その間は自由にしていればいい」
「はい」
 この絵の為に、また特別なドレスを作るのだ。なんて無駄なことが好きなんだろう。


***


 お嬢様のドレスが仕上がるまで、短い期間だが僕はアトリエにこもった。
 とうとう絵を完成させる為に。
 この絵が完成しても日の目は見ない。僕はそう諦めているが、充津は諦めていない。彼は誼湾様の血筋が正しいと信じて描いている。
 僕は、だから……自分自身の為に描いている。だが、彼が描くから描いているのかも知れなかった。
 彼の絵に対する情熱に触れなければ、僕の根底にあった絵を描きたいという気持ちは忘れ去られたままだったかも知れないから。

***


 ねぇ、と蘭凉様の赤い唇が言う。
「どうかしら、このドレス」
 宝石を縫い付けた、豪華な赤いドレス。見合いの絵の為にわざわざ作らせたものだ。白い肌が浮き立って見える。
「素敵ですよ。さ、お座りになってください」
 椅子を勧めるが、お嬢様は僕の隣に立つと首に腕を絡めてきた。外そうとしても強く嫌がられる。あまり力を入れることはできないから、なされるがままになるしかなかった。
 僕にぴたりと体が寄せられて、丸い胸が押し潰されている。
「あなたが好きよ」
 お嬢様の目は潤んでいた。
「綺麗な顔も、ちょっと冷たい態度も好き。ねぇ、お願いよ、わかって?」
 くちづけをねだるように顔が寄せられた。
 彼女の気持ちは本当かも知れない。毎日、毎日、絵の為に二人きりで顔を合わせて過ごしてきた。伶項様が案じたように、いかにも恋に落ちそうな機会だ。
 しかし彼女は僕の何をも知らない。
 蘭凉様のくちづけをかわし、僕は身をよじった。
「お嬢様……」
「どうして? 一度は抱いてくれたでしょう」
「あなたはご存知ではないんですね」
「何がかしら?」
 僕が戯れに彼女を焦らそうとしているはずはない。本気で避けていることに彼女も気付いたのか、まなざしがきつくなった。
「蘭凉様、僕は伶項様のものなんですよ」
「わかっていますわ。それでも……」
「おわかりではないでしょう。僕は女性は愛せません。毎晩のように伶項様と抱き合い、あの方に愛され、愛しているのです」
「……」
 嘘なのはもちろんだった。伶項様を愛しいと思ったことはない。どちらかと言えば、可愛くて若い肉体美を誇る蘭凉様の方が、僕の興味を引く。
 それでも、伶項様が恐ろしく、僕は彼女を突き放した。
 お嬢様の表情は固まっていた。僕の言葉が理解できない、と言うように。
 しかし徐々に顔から血の気が引いてくる。やはり、伶項様のご趣味をご存知ではなかったらしい。
「からかってらっしゃるの……?」
 唇が震えながらの問い掛けだった。
「いいえ、からかってなどいませんよ」
「だってお父様は、そんな……そんなこと、なさらないわよ。お母様のことも愛していらっしゃるわ」
「奥様は療養の為に遠く離れてお住まいで、そのまま亡くなってしまわれたのでしょう。伶項様はお寂しいのかも知れませんが、僕が伶項様に見初めて頂いたのは本当のことです」
「そんなでたらめ、許さなくてよ!」
 お嬢様は突然、激昂した。
「お父様に、あなたに汚されたと言うわ! お父様はあなたと私、どちらを憎むかしら!」
「おやめなさい!」
 僕も思わず大きな声を出していた。お嬢様は顔面蒼白で、目に涙を浮かべている。
「そんなことを告げ口しても、二人とも憎まれるだけです。それに今は大事な時期ですよ。公爵様とのご婚約を申し込まれているのでしょう。醜聞でも広まったら、どうなるか……。僕などの為に人生を捨てるのはおやめください」
 瞳から雫が零れ落ちそうな蘭凉様を、優しく説得する。
 彼女の誘いを断った為に、過去のたった一度の過ちを告げ口されてしまったら、僕の人生までも終わってしまう。
「公爵様とお幸せになってください。僕はもとよりあなたに似つかわしくないのですから」
 媚びるように言うと、お嬢様は少しばかり押し黙った。だが、ついっと踵を返し、扉を開くとその向こうへと走り去ってしまった。
「お嬢様っ!」
 叫ぶと彼女は廊下で立ち止まる。一瞬、僕を見たが、すぐに顔をそむけられてしまった。
「あなたの顔を見ていられないの!」
 お嬢様は擦れた声でそう言うと、また走って行ってしまった。
 仕方がない。今日は絵を描けないが、そのうちご機嫌も直るだろう。
 僕は隣の部屋へ行くと衣稟(いりん)に声をかける。
「すみません、お嬢様のご機嫌を損ねてしまったようで……。走って逃げてしまわれたので、後を頼みます」
「まぁ、そうですか」
 衣稟は心得ていて、すぐにお嬢様を追って走って行った。
 僕はため息をついて、絵の道具を片付ける。
 もしも、本当に伶項様に告げ口されたら……?
 考えると、恐ろしくなる。だが、まさか僕などのために、彼女も父親の機嫌を損ねたいとは思わないだろう。
 ヴィオラ弾きのことをふと思い出す。手に怪我をして捨てられた彼の、その怪我は伶項様にやられたものではないだろうかと、以前は思ったのだが、そんなことはもう忘れてしまっていた。
 その彼の顔が、突然思い出されたのだった。


 翌日、説が僕を訪ねて来た。
「充津には最近会ったのか」
 そう問い掛けられ、答えに惑う。会ったのは祭典の時。だが、祭典の際には外出は禁じられているから、破れば犯罪者なのだ。
「いいや、会ってないが……」
 僕は結局そう答えた。
「説は? 会ったのか?」
「いや、俺も……。充津は祭典の後、すぐに集会を打ち切ったんだ」
「そうなのか?」
 創理様に話をして、協力を得られなければ誼湾派としての活動はやめる、と言っていた。創理様には、反対されたということか……。
「ああ、充津は絵に集中したいからと言っていたよ。君を描きたいと言っていた、あの絵かな」
「さぁね、僕は最近、会っていないから」
「絵を描くことが本分なんだから、精を出すのは正しいよなぁ。しかし、今は」
「もうすぐ選挙、か」
 まだ国民には大々的には発表されていないが、少数の貴族は知っており、そこから情報は流れ始めている。
「だが、充津はやらなくても、僕達は連絡は取り合っている。いつか決起するんだ。それがいつになるのか、大局を見極められるのはやはり充津なんだろうけどね」
「気を付けろよ。僕達なんて、消されるのは簡単なんだから」
「ありがとう。君もだよ、璃月。伶項様はどうやら、無戸派につくようだから」
「やはり、そうだろうね」
 伶項様は政治にはさほど関心があるようには見えない。それならば、長いものには巻かれていた方が楽だと考えていらっしゃるだろう。
 無戸家が有利な今、あの方はあえて李燐様を支持することはない。

「ところで、絵はまた描いているのか?」
「ああ」
 僕は苦笑いを浮かべる。
「またお嬢様の絵さ。困ったことに、ご機嫌を損ねてしまってモデルを放棄されてしまったけど」
「はは、何したんだ。胸を揉んだ?」
「揉まなかったから嫌われた」
「ははは」
 説は一層高い声で笑った。僕の言葉を冗談だと思ったようだ。
 説はその日、すぐに帰っていった。その後、衣稟にお嬢様をアトリエに連れてきてくれるよう頼んだが、とうとう彼女は来なかった。
 ただ衣稟だけが、ドアの所で僕に頭を下げて謝った。
「申し訳ございません、お嬢様はご気分が優れないとおっしゃられまして」
「ああ……。ありがとう、今日はもういいですよ」
 お嬢様は僕には会いたくないのだろう。


 その日、夜には伶項様に呼び出され寝室へ赴いた。部屋に入るなりベッドに倒されて、僕は驚いて伶項様を見上げる。
「どうなされました?」
「私の娘に何をした?」
 問い返されて、血の気が引いた。だが部屋は薄暗く、伶項様はお気付きではないかも知れない。
「何のことでしょう……」
「絵を描くことを拒んでいると衣稟から聞いた」
「ああ……」
 具体的にお嬢様から何か聞いたというわけではないのだ。それならば誤魔化せる。
「お肌の具合が優れないんだとか。衣稟には蜂蜜を肌に塗って温めるといいそうですよと言ったのですが、それはもう試されました、と……」
「そうか、あの子はああ見えて、気難しいからな」
 伶項様もどうやら、お嬢様の性格は大方把握されているようだ。
 しかし僕を押さえ付ける手は弛まなかった。服をはぎ取られ、薄い胸の上を手がゆっくりと這う。
「娘が君を欲しがっても不思議はない。魅力的だからな……。だが、君をやるつもりはない」
 下着さえも取られる。僕は素直に従った。
 腰を押さえられ、指で愛撫されてもいやがらない。
「お嬢様は僕など見向きもされませんよ。ご安心ください」
「ふん」
 伶項様は鼻で笑った。その後、僕は貫かれ、意識を失うまで弄ばれた。


 伶項様の意図はわからない。
 だが翌日、お嬢様の絵は他の画家を雇って描かせるからと、僕は暇を出された。
 僕のアトリエに男達が押し込んで来たのはその日の午後だった。

***


 男達は、閑様の屋敷を取り囲んでいた兵士と同じ格好をしていた。
 僕はあっという間に剣に囲まれ、両手を上に挙げたが乱暴に床に蹴り倒された。アトリエ中を引っ繰り返され、検分され、僕は引っ張って連れ出された。
 屋敷の外で、「璃月!」と僕を呼ぶ可憐な声がし、振り向くと蘭凉様が必死に僕を追い掛けたきてくれていた。だが兵士によって丁寧に阻まれている。
 あの方はこんな時にも僕の名を叫んで下さるほど、僕のことを愛して下さっていたのだろうか。
 そう思うと途端に、泣いているお嬢様が愛しく思えてきたが、それも僕の置かれた状況による錯覚なのだ。
 空蘭様と誼湾様の絵を見つけられたことにより、僕は偏った思想の危険人物として、当局に引っ張られた。


 デルタルメス監獄に連れて来られた時、やはり僕は閑様と運命を共にする定めなのだと思った。
 僕よりも先に、充津は昨夜、監獄に連れてこられたらしい。即日開かれた裁判では、検事が僕の罪を読み上げ、裁判長がすぐに裁決を下した。
「充津が発表した絵は、著しく無戸家を侮辱する内容である。璃月はそのモデルである。それだけで同罪だが、璃月は同じモチーフの絵を描いていた。人心を惑わす危険思想を持っている」
「絵を描いただけで?」
 そう問い掛けると、僕の両側をまるで守るかのように立っていた兵士に、持っていた剣の鞘の先で、激しく頬を殴られた。口の中には血の味が広がる。
 誼湾様の絵を描いただけで、反逆?
 そうだ、こうなることはわかっていた。だから僕はあの絵は生涯、隠しておこうと思ったのに。
 充津は発表したのだ。
 モデルが僕であることは公表しなかったようだが、僕が頻繁に彼のアトリエを訪れていたことと、絵の顔が似ているということから、疑われたのだった。
 愚かだ。しかし、それが彼なりの主張だったのだ。
 だから僕は彼を恨まなかった。そんな気持ちは湧いてこなかった。
 彼はただ、絵によって訴えかけようしただけだ。本当の王は誰なのかと。
 それを感じた裁判長は、「公開処刑」と判決を下した。裁判では、僕は兵士に引っ立てられるままに立ち、歩き、座り、何一つ自由意志は許されなかった。
 同じ日に充津の裁判をしていたはずだが、彼には会えなかった。
 圧倒的な権力により、公正な裁判など行われることもなく、僕は監獄に入れられた。


 監獄は独房で、毎日、看守の気晴らしに殴られ、時には面白半分に犯された。
 看守に聞くと、伶項様は僕に欺かれたと主張し、またこの監獄に多額の寄付をする意向を示した為、罪には問われなかったらしい。
「薄情な主人を持ったな!」
 看守はいやらしく笑った。
「創理様は充津という画家を匿って援助していたことを認めて、おとなしく捕まったと言うのに!」
「創理様、が?」
 僕は驚いて顔を上げたが、髪を掴まれ元通りに床に押しつけられた。高く上げた僕の尻に看守は突っ込んで、低く呻きながら話す。
「貴族の独房に入れられてるよ。お貴族様は監獄でも特別扱いだからな」
 監獄でも、貴族ならばただの幽閉と変わらないと聞いた。身分の低い者や、看守に賄賂を払えない者は、過酷な労働を強いられ、慰み者にされ、時には暴行による死もありえる。その死は、事故死と偽られるのだ。
「おい」
 独房の外から男が呼んだ。ドアに開けられた窓から、違う看守が部屋を覗いている。
「殺すなよ。その男は公開処刑だ」
「わかっている」
 看守は外の男に答えた。
 公開処刑とはつまり、見せしめということだろうと、僕は思っている。
 飽きたように男は僕を放り出した。僕は力なく倒れこむ。ここでの食事は日に二度、とても薄いスープのみだ。
 看守が外へ出て行くと、がちゃがちゃと鍵をかける音がした。
 僕はただぼんやりと、小さな窓から外を見上げた。空しか見えない監獄で、生きる希望を失った。
 だが後悔はない。僕の絵は完成していたから。
 もう望むものはない。
 だけど……ああ、そうだ……僕はまだ、充津の絵を見ていなかった。彼はどんな絵を描いたのだろう。


 食事は日に日に少なくなっていった。一週間経って、僕は体がだるくて起き上がれなくなった。医者らしい男が来て、僕を診ると、粉薬を飲ませて出て行った。
 ただ熱が出ただけらしい。しかし三日、寝たまま動けなかった。毎日一回、医者が来て薬を飲ませて行った。


 充津に会いたいと願っていた。
 同じ環境にあっても彼は強く生きているだろうと思ったから。
 僕達は決して愛し合ってはいなかった。だけど、お互いに惹かれ、影響され、運命を共有していた。


 ***


 病が明けて二日目に、看守が二人やって来た。いつもの軽口もなく、押し黙って僕の両腕に枷を付けて立たせた。
 熱が出てから今日まで何も食べていなかった僕は、足元がおぼつかなく、倒れそうだったので、両脇を持ち上げられるようにして歩かされた。
 独房を出ようという時、部屋の前を通り過ぎようとする足音があったので、看守は一度歩みを止めた。囚人を余計な人間に接触させないためだ。
 だが足音は僕の部屋の前で止まった。
 がしゃん、と扉の窓が音をたてて揺れたのはその時だ。窓にはめ込まれた鉄格子の向こう、看守に押さえ付けられているのに抵抗している充津の姿があった。
 やつれて汚いのに、その目は僕を見つけて輝いている。
「璃月!」
 枷をはめられた手で、鉄格子を掴んで彼は叫んだ。僕も思わず、震える足で近づく。
 看守は入ってきた時に扉に鍵をかけるから、僕達は窓越しに顔を合わせることしか出来なかった。
「璃月!」
「み、充津!」
 何を言ったらいいのか。
 元気だったか。無事だったか。創理様はどうしているのか。絵はどうなったのか。君は後悔していないか。辛い思いをしていないか。
 言葉が出なかった。だが、充津は指に筋が浮くほど強く格子を握り締めて言う。
「会いたかった!」
「……」
「会いたかった! 会いたかった! 璃月!」
 僕は……僕だって、君に会いたかった。
 充津の目は輝いて綺麗だった。やはり君は強い。
「充津……」
 僕はその名を呼ぶ。
「会いた……」
 看守が強く、充津の体を引っ張った。半ば持ち上げるようにして彼を連れて行く。
 行ってしまった。充津はずっと、僕の名前を呼んでいた。


 監獄の正面にある広場は、陰惨な歴史が染み付いている。そこに連れ出されると、今日は、大きな木が二本置いてあった。連れて来られた時は周囲など見渡す余裕がなくそんなものがあったか覚えはないが、確かにその木は新しいようだった。
 僕達は並ばされた。並んで置かれている木の上に、それぞれ寝かされたのだ。
 木の中程にある出っ張りに足を乗せられた。麻縄で足、胴、首を木と共に締め付けられる。木はゆっくりと持ち上げられ、視界が高くなっていった。
 地面に掘られた穴に男が数人がかりで木を差し込む。
 僕と充津は磔にされた。
 二人とも抵抗はしなかった。諦めだったのだろうか。もしかしたら、二人で死ぬなら怖くないと思っていたのかも知れない。
「充津、どうして絵を発表したんだ?」
 僕は並んで立つ木に話し掛ける。
「君に見せたかったからだよ」
 充津の返答に、振り向こうとしたが、首は締め付けられて動かなかった。
 僕が黙っていると、しばらくして充津は小さく呟くように言う。
「誼湾様の母は庶出だ。君の顔が誼湾様に似ているのは、血が繋がっているからじゃないかと思って、調べてみた」
 そんな話は初耳だった。
「僕は家族からそんなこと、聞いたこともないよ」
「ああ、調べてもわからなかった。誼湾様の母の出身も隠されていたから」
 だけど、と充津は言う。
「そんなことは最初から、どうでも良かったんだな。気になったから調べたが、血族についてわからなくても僕は失望しなかった。君が君であるだけで良かった」
 驚いたが嬉しかった。僕のことをそんなふうに思ってくれる人がいるだろうか。
「ありがとう。僕もずっと、君に会いたかったよ」
 充津からの返事はなかったが、気にはならない。僕達はやっと、心を通じ合わせることが出来たから。


 一際こぎれいな服を着た男が広場に入って来た。彼の後からやけに大きな台車が付いてきた。平たい大きな物が乗せられている。
 それは絵のはずだった。自分と充津の絵の大きさはよく知っているからわかる。
 しかし、僕の所からはよく見えない。
 広場の周囲に兵士が立ち並び、その外側をたくさんの民衆が埋め尽くしていた。高い所にいるから、よく見渡せる。
「反逆の絵を描いた画家、充津、璃月の両名の公開処刑を行う」
 男が言った。
 僕と充津が並ぶ所の斜め左前方に、薪が積み上げてあり、その中に太い木が二本立っている。兵士が二枚の絵を、紐でくくり、木に吊るし始めた。
「二人は策謀して過去の王、誼湾を讃える絵を描き、人々の意識を操作しようとした。諸悪の絵と、反逆者を火刑とする」
 観衆の間にざわめきが走った。絵が高く吊り上げられたからだ。
 僕も、そして充津も、互いの絵を見たことはない。息を飲んでその絵を見つめた。

 僕の絵は空蘭様と幼い誼湾様だった。父王を慕う誼湾様と、息子を慈しむ空蘭様。

 充津の絵は、民衆を支え、人々を慈しみのまなざしで導く誼湾様だった。
 誼湾様を慕う民の中に、充津のような風貌の男がいた。王を見つめるまなざしは尊敬と信頼に満ちている。
 重い使命と、深い慈愛。誼湾様の抱えているものがそこにはある。

 僕の目から涙が零れ落ちた。
 どうして、君はこんな絵が描けたのだろう。
 僕への情愛に溺れて、誼湾様と僕を混同して見ていたのに、彼はその欲を振り切って、美しい、荘厳な誼湾様を描き切った。
 そして絵の中で、永遠に充津は誼湾様についていくのだ。
 僕の生涯で最後に見る絵だ!
 僕が見たかったのはこの絵だ。
 きっと、そうなのだと、確信した。

「誼湾様だ……」
 人々の間に、声が上がり始める。
「誼湾様だ!」
「誼湾様と空蘭様だ!」
 民衆は誼湾様の味方だ。絵に感嘆する声は瞬く間に広がる。

 絵の下の薪に火が点けられた時、同時に、僕達の木にも火が点けられた。
 燃える。燃えてしまう、絵が。

 僕は何を言おうとしたのだろう、口を開いた。瞬間、どんっ、どんっ、と激しい衝撃を胸に受け、苦しみに呻く。首は動かせないので、目だけを下に向けると、胸に矢が二本突き立っていた。
 早く絶命させる為に、兵士が矢を放ったのだった。
「璃、月……」
 呻くような声がして目線だけを向けると、充津の胸からも同じように矢が生えていた。彼の顔はもう蒼白だ。
「り、げ……あ、あ」
「充津、どうしたんだ?」
 喋ると胸がひどく痛んだ。充津は擦れた声で答える。
「あ、すばらしい、絵だ……」
 僕も彼に何か言ってやろうと、息を吸い込んだ。煙が肺に入りそうになったが構わない。
「僕が最後に見る絵だ。でも後悔しない。充津、神殿のあの絵よりも、君の絵を愛しているよ」
「僕の絵を……」
 充津の声が不意に途切れた。彼の様子が気掛かりだった。矢の当たり所が悪ければ、火にまかれるよりも早く死ぬだろう。

「さぁ、反逆者に薪をくべるのだ! 我は正義と思う者は、反逆者に薪を!」
 兵士達が声高に、観衆に薪を配っていた。だがそれを、投げ入れる者はいない。
「誼湾様!」
「誼湾様!」
 観衆が騒ぎ出した。
「空蘭様の直系である誼湾様こそ王だ!」
「誼湾様は王の血筋だ!」
 前列の5人が兵士を乗り越えて広場に入ると、後から後から人々が流れ込んできた。5人の中に見覚えがある顔がいて、記憶を探れば、祭典の時、酒場で無戸家のやり方に対する不満をしきりと叫んでいた庶民出身の兵士達だった。

 僕は見ていた。
 絵が炎の中から救い出されるのを。
 そうだ、僕達の命よりも、大切な絵だ。
 絵が人を動かす奇跡を、僕は、炎の中から見た。

「充津、見ろよ!」
 僕は叫んだ。
 充津!
 充津! この時代に生まれ、ここで死ぬことを後悔しないだろう?

 時代が違えば僕達は、共に暮らし、切磋琢磨して絵を描く人生も送れただろう。だが、今の時代でなければこの絵は生まれなかった。こんな絵を描くことは出来なかった。
 熱さも苦しみも恐怖ももう感じなかった。


***


 兵士に阻まれながらも観衆が二人の画家を助け出すことが出来た時、すでに一人は絶命し、一人は瀕死だった。
 だが、一人もすぐに息を引き取った。

 はからずも、公開処刑で絵を披露したことにより、今まで黙って政治の成り行きを見守るだけだった民衆が初めて反抗する、そのきっかけを与えてしまった。充津の意図とは違ったが、民衆が政治に対して声を上げるという革命が起こったのである。

 後世、焦げ跡が残る二枚の絵は王宮に飾られた。
 王家の滅亡に際し、革命を誘因した一対の絵として、その主題となっている偉大な王よりも名高く語り継がれることになる。




**終**


[*前へ]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!