短編集 (続編)翡翠小話 ジュールは毎日、病院に来て僕の世話をする。 僕はこの幸せが信じられない。 お礼を言いたいけれど、僕の声は出なかった。毒薬と、生死の境をさまよったせいだ。 話せない僕をジュールは時折、哀れむように見る。 僕にしたことを、申し訳ないと思ってくれているのはわかっている。 でも……ごめんなさい。 僕は不安。 あなたは、また僕のことを騙そうとしているんじゃないかと。 それでもいい。ただ、信頼しきれない自分が情けないだけ。 今だに、あなたをこんなに愛しているのに。 ジュールは相変わらず、ぶっきらぼうで、でも時折、優しげな口調になる。そして、ほんのちょっとだけ、そんな自分にはにかんでいるのも、僕は知っている……。 コン、と一度だけノック。僕は枕元に置いてあるベルを一回だけ、チリンと鳴らした。 それは看護婦さんが提案した「イエス」の合図。ノーならば、2回鳴らす。 ジュールが買ってくれたベルは透明なガラスに花が彫り込まれていて、銀の把手がついている。繊細で美しくてとても気に入っている。 病室に入ってきたのはジュールだった。 「気分はどうだ?」 淡々としたその問いに、僕は小さく頷いた。 「そうか。この前、気にしていた本を買ってきた」 言いながらジュールは鞄から、分厚い本を取り出す。 それを差し出され、僕は受け取りながら笑みを浮かべてみせた。本よりも、ジュールが僕のために何かしてくれることが嬉しい。 ジュールもわずかに微笑んだ。 僕はサイドボードの紙とペンを取り、 「ありがとう」 と書き記す。 「いや……」 ジュールはそっけなく、そう答えた。 ジュールのわずかな感情の変化を読み取れるのは、僕だけ。きっと、僕だけだ。 そのまま、ジュールが口をつぐんだので、僕も静かにその顔を見つめていた。 細く開けられている窓から、微風が吹いて、ジュールの前髪がふわりとなびいた。僕の少し長めの髪も浮いて、口の中に入りそうになったけれど、そんなのは構わなかった。 柔らかな風に髪を遊ばせるジュール…………かっこいい。 以前は、彼は毎日忙しくしていて、こんなふうに自然の風を感じたことがなかった。彼が歩くとその早足のせいで、微風が起きていたくらいだ。 こんな穏やかな時間、覚えがない。 いや……。 僕がとても幼い頃、ピアノの練習時間、見守っていてくれたジュールのまわりにこんな穏やかな時間が流れていたかも知れない。 すごく遠い記憶。 すごく幸せな記憶。 あの頃から、ジュールが全てで、父親よりも慕って……。 ……風がおさまると、ジュールがつと手をのばした。僕の頬にかかった髪に指先で触れ、払い落としてくれる。 その時、ほんのわずか、爪の先ほどが肌に触れ、僕はそこだけ敏感になってしまった。 触れられた部分が、ぞくぞくする。 戸惑ってジュールを見上げると、なぜだろう。彼は、鮮やかに微笑んだ。 僕を見て、優しく。 「……退院したら」 ジュールはゆっくりと、切り出した。 「ピアノを習うか? 好きだっただろう」 いつものぶっきらぼうな声。 それなのに、このうえもなく優しく聞こえる。 僕は涙が滲んできて、隠そうと思ってうつむいた。でも泣いていることは気付かれてしまっただろうと思う。 ジュールは僕のことは、なんでもわかっているから。 僕は小さくうなずいて、そっと目線を上げてみた。 ジュールはまだ、微笑みを浮かべていた。 こんなに好きだと、自覚して、胸が苦しい。 例えばまたあなたが、僕を利用しようとしているのだとしても。 それでも構わない。 僕は今、とても幸せだから。 終 [*前へ][次へ#] [戻る] |