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短編集
翡翠夜話 4
まさにその翌朝、だった。
いや、朝方に眠りについたアルにとっては朝のような気分だったが、時刻は昼をまわっていた。
「アル…話がある!」
起き抜けのアルに、お館様は告げたのだ。
ジュールが行方不明になったことを。


「ジュールが……なんですか?」
暗い顔のお館様に繰り返し尋ねるアルの声もまた、震えて今にも掠れ泣き声に変わりそうだ。
「ジュールが、」
泣きそうなアルに告げるのは辛いようだ。お館様は何度も逡巡した後に、やっと目をまっすぐに見て信実を告げた。
「ジュールがうちの顧問弁護士を辞めた」
お館様も、彼に去られては困ると必死に引き留めたが、聞く耳も持たず、彼は去っていった。
なおかつかなり前から辞職する際の準備は進めていたらしく、他の弁護士への紹介状まで置いていったのだ。
アルは焦って問いかける。
「ジュールは? 今はどこに?」
「行方不明なんだ」
苦々しくお館様も言う。
「今朝、一方的に仕事を切り上げて辞めてしまったので、私が彼の家まで行ったのだが、もぬけのからで……行く先を知る人はいない」
「……」
アルには何も言えなかった。
うちひしがれているお館様に文句を言うことは出来ないし、慰める言葉だって出てきはしない。

ジュールに抱かれたのは、昨夜だったのに。
あるいは、昨夜だからこそ、だったのだろうか。
辞めるつもりだったからこそ、最後に、アルに餞別をくれたのだ。いや、報酬か。
「僕……ちょっと出てきます」
アルにはジュールの行く先に覚えがあった。
ジュールの会社を、アルは知っているから。
そこに行けば会えると思ったのだ。
しかしお館様は不意にアルの両腕を、すがりつくように必死につかんだ。
「待て。一人でどこにも行かないでくれ」
「お…お館様」
「もう、一人で出歩いたらいかん。お前の警護を雇う金もないのだから」
「大丈夫ですよ」
「駄目だ」

……諦めるしかない。
ジュールに去られたお館様には、もうアルしかいないのだから。
 一人でどこへも行かせたくないのだ。

広い屋敷に、大切な人を失った親子が二人きり。
涙も出てこないほどのショックを受け、二人はその後、長い間口を閉ざしていた。






アルが憧れてやまないもの。
華やかな音楽の世界。

ジュールによって止められていたその部屋へ、アルは数年振りに立ち入った。
鍵を開ければ錆び付いたような重い音がし、蝶番もわずかに軋む感じがする。
押し開いた白い扉の向こうには、閑散と広い薄暗い部屋。
そこはピアノ室だ。
ゆっくりと、まずは窓際に近づき、重い二重のカーテンを開いた。
差し込む日差しに照らされたピアノを振り返れば、あの日を思い起こすことができる。

この家に来て、初めて緊張が解けた時のこと。
ピアノというものに触れ、アルはその楽しさに自分の境遇も周囲の人のことも、忘れることが出来た。
それを禁じられても音楽の世界はアルを魅了してやまない。
ジュールが言うので今日まで絶対に触れずに来たが、彼がいない今、その思い出に浸ってもいいだろう。

アルがピアノをつたなく弾く様を、愛しげにとは言わないが、穏やかな眼差しで見守っていた。あの日のジュールはまだ青年で、幼いアルには大人に見えたのだが、実際には今の自分と大して変わらない年だったはずだ。
凛々しく見えた。そして美しい男性だと思った。
真っすぐなまなざしを、あの頃からとても、愛していた。

カチリ、とピアノの鍵を開ける。
調律もしていないピアノだ。しかしアルも数年も触れていないので音感が狂っている。
ぽん、と鳴らしてみたが音が狂っていることになど気づかず、そのまま、つたない指遣いで弾き始めた。

まだ初歩の曲しか弾けない頃にやめさせられたが、楽しさは変わらない。
もっともっと難しい曲を弾けるようになりたかったが、簡単な曲であろうと、こうして鍵盤を叩けることが嬉しい。
夕日が差し込む部屋が、やがて真っ暗になるまでアルは指を動かし続けた。




そうしているうちに辛いことも忘れられるはずだった……が。

いつの間にか頬を伝っている涙に気づき、鍵盤の上を滑る指を止め、そろそろとそれを持ち上げ拭えば、熱い液体が指にまとわりつく。
まさか、ピアノを弾いていてジュールを想うとは思わなかった。
しかし、弾いているアルを見ていてくれる姿や、アルが夢中になり過ぎたのでピアノを禁じるジュールの言葉が、次々とよみがえってくるのだ。
ピアノを弾きたくて弾きたくて、机を鍵盤にみたてて指を動かし夢想して、ジュールの足音に慌ててその余韻を打ち消そうとしていた、そんな頃もあった。
働き始める前のことだ。


アルにとっては、全ての思い出はジュールに結び付く。
孤児院にいた頃のことなどほとんど覚えていない。
ただジュールが迎えに来た日のことだけを鮮明に覚えている。


「……ジュー…ル」
呟き、ピアノに突っ伏した。
大声をあげて泣く彼を見る者は誰もいない。
そうしている間に疲れきった頭が朦朧としてくる。



やがてゆっくりとジュールが戸口に現れ、
「何を泣いているんだ」
と、いつもの冷たい声で告げる。

そんな夢を見た。










貴族制度の廃止が決まったのはそれから数日後のことだった。
有力貴族のほとんどは周辺諸国の王室と結び付き、次々と亡命していったが、レフェリエド家はもはや没落貴族、そんな家を援助してくれる国などはなくお館様とアルは押し付けられた巨額の納税義務になす術もなかった。
元貴族は、領土を国に返還することを義務づけられ、それを返せない場合は領土に相当する資産を手放すことになった。つまり、金のことである。
もはや何も持ってはいないレフェリエド家には借金だけだ。

お館様が、
「この屋敷と土地は売らないことになったよ」
と言った時、アルはもう何も疑問には思わなかった。
これからどうなるのか、お館様が何も言わずとも彼は予感していたのだった。

数週間で二人とも痩せ細ったが、お館様には、もともと体の弱い息子がさらに痩せていく様子を見るに耐えなかっただろう。


ジュールは、国内に残ってはいたのだが、うまく雲隠れしていた。
これからもっと成長させていく自分の会社についての仕事もある。国外逃亡もしてみたかったが、今は働くべきだ。
お館様の目を逃れて、共に会社を興した友人と懸命に働いた。
しかしさりげなくレフェリエド家の状況に気をつけていたのは何故なのか、自分でもわからない。
初めから乗っ取るつもりだったのに、こうして全てをお館様から取り上げて逃げ出してみると、彼らの行く先が気になって仕方ないのだ。
罪悪感、なのだろうか。
人の好い優しいお館様と、引き取られて利用されただけの無力なアルに対する……。

しかしそうやって見守っているうちに、お館様が土地と屋敷の売買を中止したことに気付いて、何故か胸騒ぎを覚えた。
どこかで金を工面することが出来たのだろうか。
それとも……、という思い。
「ジュール? ぼぅっとしてどうした?」
友人であり、会社を興した仲間であるリゼーに問われ、ジュールはやっと正気に返った。
「なんでもない」
「そうか? お前は最近、レフェリエド家とやらを気にかけてるだろう。そのせいだろ?」
「……ああ」
何故知っているのだ、こいつは。
我が友ながらその洞察力には驚かされる。
「忘れた方がいい」
きっぱりとリゼーが言った。
その通りだ。彼の言う通りなのだ。
「そうだな」
そう答えたものの、ジュールは胸に沸いた不安を忘れられずにいた。
夜半、お館様はアルの部屋を訪れた。
二つのグラスとワインを持って。
まだ寝るには早い時間だが、屋敷の中は真っ暗で、明かりがついているのはアルの部屋だけだ。
もう、家のところどころ、金銀宝石を使った装飾の部分は根こそぎ剥がされ、売り払われていた。
荘厳な屋敷はよく見ればぼろぼろなのだ。
 美しかったもの、全てがはかなく手元から去っていった。
 アルをそんなふうにさせるくらいなら、と思ったのだ。



「さあ、これをお飲み」
お館様がそう言って差し出したグラスに、彼がいつも好んで飲んでいるワイン以外の物が入っていると、なぜか察することができた。
お館様の瞳が暗い絶望に覆われていたからかも知れない。いつも優しい色をたたえている瞳は、今は恐ろしく暗く、アルを見つめている。
アルはためらわずそれを受け取る。その手を、お館様は両手でそっと包むように握ってから、放した。

赤い液体の中に潜む、恐らくは自分の息の根を止めるものが入っている。
お館様の促すような目線に、アルはそれを飲みほした。
アルコールにはあまり強くはない。いつものようにワインが咽喉を焼くように、胃に滑り落ちていく。
その直後に、視界が歪んだ。

こんなに早いものなのか、と思う間に、体が力を失ってぐらりと倒れかかる。それをとっさに支え、お館様が寝台へと運んでくれた。老齢の彼には重労働だろう、半ば引きずるようにして愛しい息子の体を寝台まで運び、なるべく丁重に乗せ上げる。
それから彼は、アルが落としたグラスを拾いあげた。その中にワインを注ぎ、アルに飲ませたものと同じ毒を入れた。

アルは意識が混濁した状態のまま、ただ一人の人を思っていた。

とうとう、叶うことがなかった。
一番、想い続けていた人への恋が。

ジュール……。
子供の頃から、面倒を見てくれた。
厳しかったけれど、理不尽な仕打ちはなかった。優しい人だったと思う。


思い返せば長い付き合いだ。
少なくとも、今ここで終わる自分の人生の中で、10年も一緒に過ごしてきた人。


意識を失うまでの間が、永遠に思えた。
何度も繰り返し思い出す。
初めて会った日も、毎日勉強を見てくれた頃、仕事を覚え始めた自分を手伝ってくれた頃…。一人前に働けるようになってからは悪巧みを持ちかけられて、拒むことなど思い付かずに従った。

目を閉じているのか開いているのかさえ、アルには認識できていなかった。
そして、彼の足音すら聴こえる気がする。
家庭教師をしてくれていた頃、毎日、彼の足音を待った。その音だけでわかる。
その、足音が聞こえるような気がした。

……僕はもう死ぬんだ……。

そしてジュールの声が聞こえる。
「アル!」
最後に聞こえたのがジュールの声で良かった。
アルは幸せな微笑を浮かべたかったが、顔の筋肉はぴくりとも動かなかった。

「アル!」

ほら、もう声が、こんなに近くに聞こえている。
まるでジュールがそこにいるかのように。


愛しい人のその余韻だけを大事に抱え、アルの意識は、途絶えた。
ジュールが悪い予感に突き動かされ、車を走らせてレフェリエド家の門前まで来た時には。

屋敷は真っ暗なのに、門を開けて敷地内に立ち入ってみれば中庭から見える一室、カーテンも引かれていない窓に、明々と見覚えのある光が揺らめいていることに気付いた。

炎が。

見つけた瞬時、体が硬直し、まさかという思いに言葉を詰まらせたが、よく見ればまだそう大きな炎ではない。
気付くと途端に飛び出した。


屋敷の鍵は閉められていた。
この家を捨ててくせに、鍵だけは手元に残していたことを今更感謝する。
鍵を開け、恐ろしいほど静まった邸内へと。

もう何度も何度も向かったアルの部屋へ走った。
走ったのは初めてだ。
貴族の屋敷では使用人は走ってはいけないことになっていたから。
幸いにもアルの部屋の鍵はかけられていない。この部屋の鍵は持っていなかった。
後先考えずに扉を開け放ち、ほっとする。
炎が揺れていたのは隣の勉強部屋で、駆け込んだ寝室に、アルとお館様がいた。

お館様は寝台の横にうつぶせに倒れていた。そしてアルは寝台の上に。
ぱっと見にも空恐ろしいほど顔色が白い。
近付き、まずはお館様の脈と呼吸を確かめたが、絶命していた。
次にアルの手を取る。

 脈は止まっていた……。


「アル!」
無駄とわかっていて、小さな頭を抱えるように持ち上げる。
「アル……!」
泣き出しそうな声が、自分のものとは思えない。
手触りの良い髪をくしゃくしゃにかきまわして頭を愛撫した。
しかし、動転して気付かなかったことに気付く。脈を確かめただけでは不十分だ。
ジュールはそっと頭をおろし、顔に顔を近付けた。
鼻のあたりに手も当ててみる。
「……呼吸している……?」
生きている?
脈は止まっていたが、わずかに、とても浅い呼吸をしているようだ。
 その体を抱え上げ、ジュールは表へ走りだした。
 部屋の気温が上昇している。まだこちらの部屋まで炎は届いていないが、すぐに来るだろう。
 出口で数秒、足を止めて振り返る。
 倒れたお館様に目をやった。
 自分が殺した。
 その姿を、しっかりと覚えておこうと思ったのだ。
 償いだとかそんな気持ちはないが、自分の罪は忘れてはならない。
 なぜかその時、そう思った。



 門の外まで出て、地面に自らの上着を敷いてそっとアルを降ろした。
「アル!」
再び名前を呼び、そうしながら、胸に手をあてて体重をかけて強く押した。心臓マッサージである。
時計を見て秒数を計りながら、脈が戻るまで繰り返し、繰り返し……。
「1、2、3、4、5…………」
秒針の動きがじれったい。
待つ間に、呼吸も止まってやしないかと。
もちろん呼吸も止まれば人工呼吸をするつもりだ。
まだ間に合う、間に合うはず……と、何度も自分に言い聞かせた。
瀕死のアルを運び込んだ病院は、大きくはない町医者だ。
ジュールとは顔見知りだが、どこに勤めているかまでは医者は覚えていないだろう。
「生きるか死ぬか、かなり危ういです」
見知った医者が言った。
「生き延びても、意識は戻らないかと……。脳死の可能性が大きい」
「…………」
ジュールは言葉もなくうなずいた。
ここまで連れてきてしまった以上、見捨てる気持ちはない。脳死で植物人間となろうとも、息を引き取るまでは自分が責任を持つつもりだ。
医者は胡散臭そうにジュールを見ている。
「ラスマンさん、あなた、家族はいないんじゃなかったんですか?」
「あ……ええ、あの子は、知り合いの……」
アルの身元を明かすのはまずい。
今頃はレフェリエド家の火事であの周辺は大騒ぎだろう。消火が終われば、焼死体が一つしかないことも知られる。
ジュールはアルを、馴染みの街娼だと説明した。裏通りで倒れているところを見つけたのだと。住所不定の若者だから、自分が引き取る、とも告げた。

「あなたが、ねぇ。意外な話だ。子供の頃から、自分の怪我でも顔色を変えなかったあなたが……」
アルを運び込んだ時のジュールの剣幕や、ずっと青い顔をして診察を見守っていた様をこの医者には見られている。
「あなたの恋人なんでしょ?無理しなくてもいいですよ。付き添いたかったら家族用の仮眠室を用意できますから言って下さい」
「あ…りがとうございます」
終始無表情な医者だが、彼はうなずくと去っていった。
恋人、という言葉が心に引っ掛かる。
「恋人……?」
自分達の関係をなんと言うのか。
他人が見た関係なんてどうでも良かった。
ただ、自分がアルのことを何だと思っているのかが、わからない。
自分の心が見えない。
ジュールが忙しい時間の合間に毎日のように病院へ通う理由を、友人は問い詰めたりなどしなかったけれど、それでも疑問は抱いていただろう。
ただ、友人とは言っても共同経営者だ。お互いを信頼していなければ出来ない。
だからおそらく彼はジュールを信頼して、何も言わなかったのだろう。
身元不明の少年を……あの火事で死亡したことになっているレフェリエド家の嫡男を匿っているなどと、知られたら友人には縁を切られていただろう。
 間違いなく。





病院のベッドで眠る、美しい人形のようなアルを見つめながら思う。
もう自分の時間は死んでしまったのだろうかと。
この呼吸だけはかろうじてしている美麗な人型をしたものの為に、自分はもう、「活きている」時間を死なせてしまったのだろうか。
毎日アルのことを考え、アルの入院費を払うために仕事をしているようなものだ。
はからずとも今のジュールは生活の全てをアルを中心として回っている。
それこそが自分の罰なのだろうかと、らしくもないことを思ったりもする。



起きてほしい、と特に願うこともなく。
むしろ、起きなくてもいい。
目覚めたアルに憎しみの目で見られるくらいならば、医者や看護婦の目の保養にしか役に立たない今の彼でいてくれた方が、いっそ……。



自分はこの先、どうするのだろうか。
アルが死んだら、一生懸命に仕事をする意味を失うのではないのか。
今まで周囲を見返すために人の何倍も努力をして法学や経営について学んで仕事を進めてきたというのに、そんなことさえ、今はどうでもよく……。
「アルの時間と共に、俺の時間も止まってしまったみたいだ……」

ぽつりと呟く、真昼の病室で、独り。
アルが隣に横たわっていてさえ、独りだ。
彼は脳死だけは免れたようだったが、いつ目覚めるかもわからない状態だ。体内のあらゆる機能が低下しているため幾つものチューブが体に繋げられ、生き永らえている。
もしかしたらこのまま目覚めることもなく衰弱死するかも知れない。
医者はそんなことも言った。

生きてほしいと願うのが、むしろ恐いのだ。
もしも願って、叶わなかったら?

自分はどうするのだろう。
アルに生きてほしいと望み、叶うことなくアルが息を引き取ったその時は。

自分で叶えるための努力すら出来ない、ただ天に祈るだけの願いは恐ろしい。
自分の力では何も出来ないのだ。
アルを国内では最高の設備が揃っている病院に移したところで、そんなものは努力のうちに入らない。

祈りたくない。
けれど、心のどこかでいつも祈っている。

アル、生きてくれ……と。




辛い思いを抱えて生きている。アルは俺の何倍も辛い思いをしながら死んでいこうとしたのだろうと、想像するだけでいたたまれない。
ジュールは自分が今、生きていることを感じていた。
アルに比べて、辛い思いを味わっている今、自分は生きているではないか。
人間、一生懸命い生きていくのは当たり前だ。努力をしない者が落ちて行くのだ。
傲慢にもそう言い切っていた頃の自分は、なんと寂しい人間だったのだろうか。
誰かのためにこうして祈ることも知らない。生きていることの辛さも知らない。
そんな自分を思い知った。

アルに生きていてほしいと祈り、その願いが叶わなかった時のことに脅え……心を絞られるような痛みを感じている。
生活の全てがアルの為に回っている。
一見、アルと同じように自分の時を止めてしまったかのように無気力に生きているようだが、こんなにも一生懸命になっていることに気づいた。

もう今更そんな人間らしいことを思ったとしても、遅いのだろうが。
「お前、最近疲れてるな」
リゼーはジュールを見てそう言った。
今日は久々に二人で飲みに来ている。仕事の打ち合わせも兼ねて、と誘われたのでジュールは断れずに来たのだ。
アルを救ってからもうすぐ3週間過ぎようとしていた。最近ではもう病院に行くことが無駄に思えてきたのだが、習慣になっているのでジュールは暇があれば通い詰めていた。
そんなジュールの生活を知っているリゼーは酒を勧めて酔わそうとしてくる。あるいは単にジュールをリラックスさせたいだけで酒を勧めてくるのかも知れない。
「お前、病院に通っているそうだな。どこか悪いのか?」
「いや…」
「お前が悪いんじゃないんなら、誰に会いに行っているんでもいいんだ。ただ俺はお前の体が心配なだけで。病院から家までだってけっこう遠いのにしょっちゅう行っているんだろうが。体壊すぞ。実際、最近お前は顔色が悪い」
「仕事には何の支障もきたしていないはずだ」
「仕事に問題があったら無理やり有休とらせてるよ」
少し怒ったようにリゼーは言い返した。
「これでも友達だから心配してるんだぜ。レフェリエド家の当主と息子は、借金苦で家族心中だろ。もしかして、それが気になってるのか?」
「そういうんでもないんだがな……」
どこか上の空のような口調で答えた。
お館様のことを思い出したのだ。
死んでしまった彼のことは、もう仕方ないと思う。死んだものは返らないのだから。
しかしアルは生きている。生きていると言えるのかどうか……少なくとも今のジュールはアルを中心として回っているのだから、多大な影響力を持っている存在だ。
何故助けてしまったのだろうかと、たまに思う。
助けなければ、お館様のように「死んだものは仕方ない」と思えるのに。
「ジュール! おい、ぼーっとしてんなよ」
友人の声にふと顔を上げる。
「お前、最近疲れてるな」
リゼーはジュールを見てそう言った。
今日は久々に二人で飲みに来ている。仕事の打ち合わせも兼ねて、と誘われたのでジュールは断れずに来たのだ。
アルを救ってからもうすぐ3週間過ぎようとしていた。最近ではもう病院に行くことが無駄に思えてきたのだが、習慣になっているのでジュールは暇があれば通い詰めていた。
そんなジュールの生活を知っているリゼーは酒を勧めて酔わそうとしてくる。あるいは単にジュールをリラックスさせたいだけで酒を勧めてくるのかも知れない。
「お前、病院に通っているそうだな。どこか悪いのか?」
「いや…」
「お前が悪いんじゃないんなら、誰に会いに行っているんでもいいんだ。ただ俺はお前の体が心配なだけで。病院から家までだってけっこう遠いのにしょっちゅう行っているんだろうが。体壊すぞ。実際、最近お前は顔色が悪い」
「仕事には何の支障もきたしていないはずだ」
「仕事に問題があったら無理やり有休とらせてるよ」
少し怒ったようにリゼーは言い返した。
「これでも友達だから心配してるんだぜ。レフェリエド家の当主と息子は、借金苦で家族心中だろ。もしかして、それが気になってるのか?」
「そういうんでもないんだがな……」
どこか上の空のような口調で答えた。
お館様のことを思い出したのだ。
死んでしまった彼のことは、もう仕方ないと思う。死んだものは返らないのだから。
しかしアルは生きている。生きていると言えるのかどうか……少なくとも今のジュールはアルを中心として回っているのだから、多大な影響力を持っている存在だ。
何故助けてしまったのだろうかと、たまに思う。
助けなければ、お館様のように「死んだものは仕方ない」と思えるのに。
「ジュール! おい、ぼーっとしてんなよ」
友人の声にふと顔を上げる。
アルのベッドの上、哀れな少年をまたいで膝立ちになっていた男が、扉が開く音で慌ててベッドの反対側に降り立った。
白衣の裾をひるがえす、その彼は、ジュールにとっても見慣れた顔だ。アルの担当医ではないものの、この病棟の担当の医師だった。
白衣の下にはきちんとシャツを着ているものの、下半身には何も着けていないのが薄暗闇の中に見えた。
よく見ればベッドの周囲にズボン、下着、革靴が散らばっている。

男が何をしていたのか、問うまでもない。
それが悪戯心による些細なことであろうと立派な強姦であろうと。
 また、未遂であろうと完遂であろうと、関係はない。
そこで、アルに対し大なり小なり不埒なことをしていたことは明白だ。
「リクソン医師……でしたね」
低いジュールの声は大概の人間を脅えさせる凄味がある。いくつもの修羅場を越えてきた医師なのだろうが、罪を犯した意識からかリクソンは小刻みに震え後退しながら頷いた。
脱がさぬよう、ジュールは扉の前に立ちふさがる。
「待って下さい。許して下さい。何もしていません。ぼ、僕は……ただ、彼の寝顔を見ていただけです。許して下さい」
「下着を脱いでいる理由は、説明できますか」
「こ、これは、別に彼に何かしようとしていたわけではなくて……」
当然、その先の言葉は紡げないだろう。
わなわなと震える唇を開いたり閉じたりしている彼を前に、ジュールは大げさなため息をついてみせた。
「訴えられたくなければ、自首退職することです」
そう告げるとリクソンは、壊れた人形のように何度も頷く。
その見苦しい所作をいつまでも見ていたくはない。
ジュールは足元にあったズボンや下着をリクソンの方へと蹴り飛ばした。

「出ていけ! 明日、お前の退職届が病院長のもとに提出されていなかったら、どうなるか、わかってるな!」

怒鳴りつけるとたちまち顔を真っ青にして、リクソンは頷きながら床の物を拾い、病室から走り出て行った。
やっと病室の電灯をつけると慎重にアルの周囲を見回した。
どこかに、あの男の精液なり唾液なり、汚い痕跡が残ってやしないかと。
しかし丹念に見てみたものの特にこれと言った跡は見あたらなかった。ほっと胸を撫で下ろす気分だ。
アルを見れば、何も知らずに無表情で眠り続けている。
確かに綺麗なのだが、笑ったり泣いたりと動き回るアルの方が美しい。そんなアルを見慣れたジュールには、眠り続ける顔はいっそ哀れみしか感じられない。情欲する男の気持ちは理解できない。
手のひらでそっと額を撫でてやれば、ぎりぎりまで低い体温が伝わってくる。冷え切ったこんな体で、どんな夢を見ているのだろうか。
脳死ではないので夢は見ているのだと思う。ジュールには医学的な知識はなかったが。
指を曲げて爪先で、肌には触れぬようにそっと前髪をかきわけてやる。
現れるなめらかな額は透き通るような白さだった。


翌日にはジュールは病院長にリクソン医師の解雇を要求した。
彼がアルに対し行ったことを少し脚色して話し、病院を訴えてもいいのか、と。
貴族の顧問弁護士という立場は、非常に優秀な人物であると世間一般では知られている。貴族制度が廃止されたのは昨日今日の話だ。病院長はジュールを賓客のように扱いその言葉に従ってリクソン医師を解雇にし、彼の指示により国内では彼を雇う病院はなくなった。
実は、訴えればアルの身元について調査され、ホコリが出るのはこちらだった。







夢を見ているのだろうか。
自分はとある国の王子様だった。
王子様の生活なんて本でしか知らないから、アルは童話のようなひらひらの服を着て、きらびやかなお城に住んで、贅沢三昧だった。とは言っても乏しい想像力による「贅沢」なので、大したことはない。
横で家来が大きな孔雀の羽のついた団扇で風を送ってくれるとか、食べ切れない程の量のご飯が出されるとか、その程度のものだ。
王子様であるアルは、何ひとつ不自由はなく生活している。誰も彼もがひざまずいて敬ってくれる。
この世で自分が一番偉かった。
けれどたった一つだけ、思い通りにならないことがあった。
教育係のジュールだ。
彼だけはアルに対して厳しく注意をする。誰もがアルの命令には逆らわないのに、ジュールだけは「ただのわがままは聞けません」と言う。
何とかジュールを思い通りにしたかった。
そうやって彼のことばかり考えているうちにアルは、自分の中に大きな変化が現れていることに気がついた。
自分はジュールが欲しいんだ、ということ。
端整な顔立ちで仏頂面で言葉尻は厳しいけれど、彼だけは本当の意味で自分を気にかけてくれていた。
でも、それは教育係というお役目があるからだということに、アルはまだ気づかないでいた。

隣の国のお姫様とアルは結婚することになった。
アルよりも美しいお姫様をアルは好きでも嫌いでもなかった。
周囲に羨ましがられるので結婚することにしたのだ。
でも、結婚式の日に。
アルとお姫様が指輪をはめようとしたその時に、ジュールがやって来てお姫様をさらって行ってしまった。
アルが欲した優しい笑顔でお姫様に愛を囁き、二人は駆け落ちしてしまったのだ。
あっという間の出来事でアルは放心していた。
放心している間に、周囲の家来達がどんどん国を出て行ってしまった。
行き先は、隣の国。ジュールと、アルの婚約者だったお姫様が治める国。

そして周りには誰もいなくなって、お城もいつの間にかなくなっていて、気づいたらアルは旅の音楽家になっていた。
アコーディオンを持って各地を訪れる。
どこでもアルは拍手喝采を浴びたが、お城へ行こうとすると門前で止められてしまった。
王様は音楽はお嫌いだから、と。
王様はジュールだった。
とある童話のようにアルは、毎日お城の外で、王様のお部屋に一番近い所でアコーディオンを奏で続ける。
やがて王様がお城へ招いてくれないかと期待して。
でも、風に乗って聞こえてくるアルの奏でる音楽に王様はご立腹されて、アルは国外に追放されてしまった。
見知らぬ土地に放り出されて、言葉も通じないまま、音を奏でて旅をする。
やがてアコーディオンは朽ち果てて壊れてしまい、アルの相棒は何にもなくなってしまった。




ぽつり、と涙がこぼれたことにジュールは気づいた。
閉じたままのアルの目蓋の下から、涙が転がり落ちたのだ。
「え?」
驚きのまま立ちすくむ。
その涙を拭うのが惜しかった。
アルはまだ生きている。
何かを思って泣いている……。









目を覚ました時にアルは、近くに誰かがいるなんて思いもしなかった。
もう二度と目を開くことはないと思っていたのに。
それなのに。

目を開けた。

眩しさに目をすがめ、やがて再びゆっくりと目蓋を持ち上げる。

カーテンの閉まっている、どうやら昼間らしいのにやや薄暗い部屋。
白いその部屋が病院だとすぐには気づかなかった。

頭は全く回らない。
それでもただ、感じた。
室内の暖かい気温。布団の柔らかさ。腕の点滴の痛み。

そしてかすんだ目が見つけた。

部屋の片隅で、椅子に座って本を広げたまま、頭を窓硝子にもたれかけて目を閉じているジュールを。
目を覚ました時にジュールがそこにいるなんて、思いもしなかった。

僕は起きているの? なぜ?

死んだ、と思ったのに。
そもそも、なぜ自分は死んだと思ったのだったっけ?……そうだ、毒を飲んだからだ。お館様が僕にくれたワインに混入した毒を。だから死んだと思ったのに、どうやら、生きているみたい……?

なぜ?
そしてなぜ、ジュールがそこにいるの?

じっと窓際の彼を見つめていた。
そうしているうちに、目が疲れて視界がぼやけてきた。
いや、目が疲れているだけではない。
アルには自覚はなかったが、体力もかなり落ちていて思考するだけでもかなり消費してしまう。
アルはすとんとまた、眠りに落ちた。







ふっと目を覚ましジュールはベッドの上のアルを見た。
「あ…アル?」
思わず、おそるおそる呼びかけてしまった。
今までずっと仰向けのままぴくりとも動かなかったのに、何故か首がこちらを向いている。
本をサイドテーブルに置いて立ち上がると、ベッドに近づきアルの頭にそっと手を回した。
こうして持ち上げてみればとても小さな頭をゆっくりと仰向けにさせてやる。
そうして体に繋がっている様々な医療器具が外れたりしていないことを確かめると、病室を出ていった。
一応、首だけ寝返りしていたことを医者に報告するために。





静かな病室にアルとジュールが二人きり。
出会ってからこんなにも穏やかな時間を二人で過ごしたことはなかった、とジュールは気づいた。












アルが目を覚ましたら何を話そうかなんて、ジュールは考えてもいなかった。
アルが自分に対して罵りの言葉をぶつけてくるかも知れない、とは思っていたのだが。

ひと月が経つ頃、アルはたまにわずかな時間だけ目を開くようになったのだ。
しかし、声帯が衰え声を出すことは出来なくなっていた。視力は落ちても目はきちんと見えているようだ。
顔の筋肉すらも衰えているから、アルが笑うところも泣くところも、ましてや想像していたような怒る顔さえ、見ることは出来なくなっていた。

それでも生きている。

ジュールは最初、何を言ったらいいのかわからなかった。
何も言わずただ自分を見ているアルに。
変わり果ててしまった名もない少年に。
「おはよう……アル」
つっかえそうになりながら、それだけを言うのがやっとだった。

アルが目覚めている時間はとても短く、一日の大半は眠っている。
医者は意識が戻るようになっただけ、少しずつではあるが回復しているのだと言ったけれど、明日にはまた目を開かなくなってしまうのではないかという恐れがいつもジュールの中にはあった。
自分がいない時に目を開いているかも知れないと思うといてもたってもいられない。仕事を休むようなことはなかったが、前にも増して上の空だった。
しかしリゼーは言う。

「最近、なんかそわそわしてないか? 最近って言うか、あの家から逃げ出してきてから、お前は変になった」







アルが目覚めて一月過ぎるまでには、二人の間には無言の穏やかな空気が流れるようになっていた。
言葉のないアルに、もともと無口なジュールは何を言うことも出来なかったから。たくさん話しかけてあげなさいと医者は言うのだが……。
ただ静かに時が流れる。
それだけのことなのに、アルがそこにいて目を開いているというだけで、時の流れをはっきりと感じる。

アルはやっと食べ物を口に出来るようになった。離乳食のような食事ではあったが、それからは回復も早く、固形物もそのうちに食べられるようになっていた。


その頃にはジュールはもう、アルの一生に自分が責任を持つと決めていた……。





病室に入ると、アルは窓の方を向いていた首をこちらに回した。窓の外の景色くらいしか楽しみがないであろうアルのために、夜でもカーテンは開けておくようにしている。
特に変わり映えのしない空の様子しか見えない窓だったが、それでも見えないよりはましだろう、と。
それから、室内には音楽をかけるようにしていた。
アルが音楽を好きだということは知らないジュールだったが、医者がリラックスになるからと言って勧めたのだ。

「アル」
ジュールにしてはことのほか優しい声音で呼ぶ。
アルはゆっくり瞬きをした。
はい、の合図だ。
きちんと聞こえるようにゆっくりとジュールは告げる。

「退院したら俺と暮らそう」

病院に連れて来た時から、彼の生死には責任を持つと決めていたから、ジュールにとってはその言葉は当然のものだった。

けれど、何も知らず眠り続けていたアルは。
彼が最後に見たジュールの記憶は、お館様を裏切る冷徹な姿だったのだ。
何故この病院に自分がいてジュールが面倒を見てくれているのか、その事情すらまだ知らない。
それでも。

ぎゅっと強く、アルの目蓋が閉じられた。

そして開く。

「はい」の合図だった。
開いた時、きれいな翡翠色の瞳が潤んで、今にも涙があふれそうな様子を見てジュールは微笑んだ。
アルも見たことがない優しい笑みだった。






End



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