短編集 翡翠夜話 3 「でも、僕……! 僕、そんな噂、汚らわしいと思うのに。それなのに、ジュールのことが好きなんだ」 「………」 絶句せざるを得なかった。 アルは表情を隠そうとしても隠し切れない子で、自分に懐いているのはよくわかっていた。 しかし、今の「好き」が子供のような感情で言ったことではないことぐらいはわかる。 いつの間にか、アルの手がしがみつくようにジュールの腕を掴んでいた。さっきまで、掴んでいたのはジュールの方なのに。 「ジュールに、抱いてほしい……」 まっすぐに見つめられたまま言われ、ジュールは一歩下がった。 アルは離れない。 綺麗な瞳が潤んで見つめている。 普通の男ならば、簡単によろめいてしまうだろう。 しかしジュールは予想外の出来事に驚愕し、半ばおびえていた。 彼にとっては、アルにそういう感情を抱かれることを望んでなどいなかったし、むしろ今後の計画に邪魔になるとさえ思えた。 ただ、利用する為だけに引き取ってきた子供が、今では細い体を震わせてジュールに抱かれたいと言っている。 つっぱねて言うことを聞かなくなってしまうのは、得策ではない。かと言って、抱いてやることも出来なかった。 「アル、やめるんだ」 きっぱりと、アルの手を外させてから言った。 悩み、心が疲れきっていた時に、ジュールが部屋に現れた。 どうしても、自分を馬鹿にした貴族達を許せないのに、それなのに、あの夜からジュールをやたらと意識していることに、アル自身は気づいていた。 もう、隠しようがない。 お館様とは決して「そういう関係」になりえないのだが、ジュールとそうなることを自分は望んでいる。 前からぼんやりと感じていた、自分の中にある気持ちが、今でははっきりと「欲情」という形で現れていた。 ジュールに触れられるとやけに感情が高ぶる。 涙さえ浮かんでくる。 望んでも叶わないと思えば、なおさらだ。 ジュールは決してアルを受け入れないだろうと思えた。何故ならばジュールにとっては、初めて会った時は6歳で、それからずっと面倒を見てきた子供だ。彼の目には自分はいつまででも子供に映っているのだろう。よくて弟、だ。 ジュールが18歳の時に6歳だった自分など、まるっきり子供だ。 夜、一人で寝られないと言って部屋に押しかけた日のことも、彼は覚えているだろう。記憶力は良い人だから。 子供の顔をたくさん見せてきてしまった人に、今更恋心を抱いたところで叶うことはないと思われた。 だから、諦めようと、思ったのだが。 気がついたら、声が口から滑り出していた。 出てからは、もう止められなかった。 「ジュールに、抱いてほしい……」 そう言ってしまってから、それが全く叶わない望みだと気づいた。 ジュールの表情の微妙な変化でわかる。 絶対に、そんなことはないのだと。 突き放されるのが恐くて恐くて、足が、手が、ふるふると震えていた。 ジュールの目が見つめ返している。 何を言われるのか、恐い……! そしてその手を自分から放す前に、ジュールに外されてしまった。 「アル、やめるんだ」 冷たい声がアルの耳を叩いた。 「お前は情緒不安定になっているだけだ。そういうふうに俺を誘うなら、もうお前とは会わない」 「……っ!」 息を飲んだのを、ジュールは見逃さなかった。 その口がわずかに上がり、微笑を刻む。 その笑みを不思議な気持ちで見つめた。 「俺のそばに、いたいだろう?」 アルは悟る。 そしてジュールも悟っていたのだ。 アルを有用に使う方法。 「俺のそばにいたいだろう?俺の役に立ちたいだろう?」 アルのうなずきを待たずして、その内心は読み取れる。 「それならば、もう泣いたりするな。大人になれ。そして早く一人前に仕事をこなすようになるんだ」 アルはゆっくりとうなずいた。 どのように利用されても、ジュールのそばにいたいと思うから。 有能な彼は、無能な人間を嫌う。 軽蔑されることは耐えられない。それならば、もっと、もっと大人になろう、と。 涙はすっかり乾いていた。 そして、アルがお館様の補佐として、お館様の力すら借りずに一人で働けるようになった時から。 会社が傾き始めた。 何故かジュールは、弁護士としての仕事にはほとんど関係ないと思われる事業について、アルに何度も書類を持ってこさせる。 ジュールは会社の全てを把握しているわけではない。 もちろん知っておいた方がいいのかも知れない。 アルは信頼していたし、何よりもジュールが望むことなので断る理由もなく、厳重な扱いを命じられている書類さえコピーをとって持ち出してジュールに見せた。 お館様には黙っていろという命令にはかすかな疑問を感じないこともなかったが。 それでも、命令に逆らってお館様に、自分がしていることとジュールの指示について教えるほどの「悪いこと」をしているとアルには思えなかったので黙り続けていた。 そう、アルは、ずいぶん長い間、「悪いこと」をしているわけではないから、と思い込んでいた。 一年経つ頃には、会社は建て直すには容易ではないほどに落ち込んでいた。いや、まだ経営に関しては詳しくはないアルには、もはや建て直すことは不可能に思えた。 レフェリエドの代々の家を売り払って資金を作るか、会社の経営権を手放すか……お館様は考え始めたらしい。 「会社……どうなるの?」 アルが小さな声で問う相手は、ジュールだ。 このところお館様は家を空けていることが多い。 会社の経営を他人に任せきりにしてのんびりしていた頃は、もう遠い過去のことだ。 ましてやここ最近、貴族に対する風当たりが厳しくなっている。王制を廃止して数十年、貴族という身分差別も廃止すべきだという運動が活発になってきている。政府側にも民衆から成り上がって役職に就いた者が増えているからだろう。 もう、いつ貴族制度の廃止が決定されてもおかしくはない。お館様には資金を工面することも困難になっていた。 「さぁなぁ…」 ジュールは低い声で呟くように言う。 「会社は手放す方が賢明だと思うが。屋敷も売り払って新しい会社を興す方がいい。もう……お館様の会社は駄目だろう」 「…………」 ジュールにそう言われてしまえば、本当にもう駄目だということをアルは実感せざるを得なかった。 黙ってうつむいたアルを、彼は見ない。 「ジュール……聞きたいんだけど」 「どうした」 アルの質問になど興味はなさそうな応えだ。 それとも、何を聞きたいのかなど、彼にはわかっていたのだろうか。 「ジュール……僕が何度も渡していた書類は、何に使うの? ジュールの力で会社を助けてよ」 「そんなことか」 あっさりとそう言い放つ。 「何があっても対応できるように、会社の状況を逐一知っておきたかっただけだ。しかしそこまですると、お館様は心配しすぎだろうとか言って、逆に俺を心配するだろう。だから黙っていてもらっただけだ」 「本当に?」 「何故疑う?」 「疑うというより、確かめたいんだよ。安心したいの」 「俺がお館様を裏切っていると思うのか?」 「ううん…」 首を左右に振ったが、それでも猜疑心をぬぐい去れないのは、何故だろう。 ジュールを見上げれば、端正な顔がこちらを見て、軽く唇を歪めて笑った。 お館様は、屋敷と土地を売ることを決意した。 今まで、数多くの別荘は全て売り払い、残る財産はこの本邸の屋敷と土地だけと言っていい。 屋敷内の、価値のある家具等も、使っていないものはとうに売ってしまっていたから。 弁護士のジュールがそれらを目一杯高値で売ることに成功し、アル達は、今月中にはここを出ていくことになった。 もう、下働きの人間は一人もいない、広い広い屋敷。 「ここより狭いですが、今度住む家もなかなかのものです。住めば都と言いますよ。労働階級の生まれだった俺には、今度の家も羨ましいくらいのものです」 広い応接室でくつろぎ、自分でブランデーをつぎながらジュールは告げた。 お館様は薄く笑って応えるが、代々続く大貴族に生まれこの屋敷で何ひとつ不自由なく暮らした彼には、レフェリエドという名前を失ってはいないとはいえ没落以外のなにものでもない。 会社はもはや手放すにも莫大な借金をこさえるような状況で、後にも先にも進めないのだ。 「そうかな……アルは不自由しないかな」 「お忘れのようですが、あの子はもともと孤児院から連れて来ましたから大丈夫でしょう。何よりもあの子に必要なのは、家族ですよ。あなたがいてあげることが一番、あの子のためです」 「そうだな……。なんだ、お前、今日はやけに優しくないか」 「俺も、時と場所はわきまえていますよ」 そうか、と呟くように言うその声にさえ覇気がない。 安穏と暮らしていたこの人には、もう会社も家も建て直せないだろう。 だからこそ、この人を気に入ったのだ。 「俺は少しアルの様子を見てきますよ。お館様もお早くお休みになった方がいい」 「そうだな……アルの顔も最近まともに見ていない気がする」 「俺もです」 アルが最近、一人で行動しているのはジュールも知っている。 会社は多忙な部署は多忙だが、ほとんどは閑散としてしまって、かろうじて残っている社員でさえ一日中ぼーっとして座っているような有様だ。アルがいてもいなくても、変わらないのだった。 アルは書類の束を前にして、絶望の縁に立たされていた。 自分がどうするべきか、そんなことがわからない。 「ジュール…」 苦い思いでその名を口にした時。 部屋の扉をノックする者があった。 振り返れば返事を待つ間もなくジュールが入室してくるところで、彼のやってくる気配に気づかないほど、自分が呆然としてたことに気づかされた。 いつでも、ジュールの足音、あるいは気配だけは、感じとれるのに… 。 「アル?」 「ジュール……」 名前を呼ぶと、言葉が途切れた。 それ以上の何を言えばいいのか、口が、肺が、動くことを拒んで息さえ止まりそうだ。 「っぅ…」 嗚咽のような声を一瞬漏らしたアルを見つめていたジュールは、やがてその視線をテーブルへと移した。 見たこともない書類の数々。 それらはアルの仕事関係でここに集められたものではない。 つかつかと早足に近寄り、手に取って見つめ、今度はジュールが呆然とした。 しかしさすがにアルのように自失したりはせず、すぐに気を取り直す。 「アル、これをどうしたんだ」 「調べさせた…」 「それで? 何か言いたいことがあるんだろう?」 「ジュール……?」 見上げたアルの目に、やっと光がともる。 「僕に罵って欲しいの? 裏切り者と言ってほしいのかよ!」 立ち上がりアルは書類を取り上げた。 それらをテーブルに叩きつけるようにばらまく。 「これはどういうこと? ……最近出来たこの会社とこの会社は、実質的にはジュールの物なんだろう」 「そうだ」 「どうして…」 本来、お館様の会社に入るはずの利益が、ここ一年ほど、全て他社に流れていた。 ブロックワークス社と、エージェイ社。 調べてみれば、それらの会社は、たった二年前にジュールが興したものだった。 お館様の会社にはほとんど利益がなく、他社に金が流れるように動いている。 そのため、急成長した他の二社と、比例してお館様の会社はここまで落ち込んでしまったのだ。 ライバルと言うよりも、もはや勝負にもならない勢いで抜かれていった。 「どうしても、何も」 少しの沈黙の後、ジュールが口を開いた。 開き直ったように、馬鹿に明るい声音で言う。 「俺は財産を乗っ取るつもりでお館様の下についた。16歳、初めてこの家に来た時から、俺が描いていたシナリオ通りの未来が、ひとつの狂いもなくここにある」 自分のシナリオがうまく進んでいることに、この鉄面皮の男も笑みを隠し切れないかのようだ。 珍しくほころんだ口元を信じられないような目でアルは見つめた。 「後継者として養子を引き取ろうと言ったのも俺だ。そしてお前を選んだのも。……そこそこ頭が良くて、しかし純真で愚かで、お館様が気に入るような顔の可愛い子供……女でも良かったんだ。女を選んでも、お館様を説き伏せる自信はあった。むしろ女の方が利用し易いとさえ思っていたんだがな……だが、お前がいた」 美しい顔をして、頭は良いが愚かな子供。手懐けるのにたやすい、孤児の子供。 「俺が俺のために選んだお前だから、手間暇かけて教育してやっただろう?」 「僕のこと……馬鹿な子供だと思ってるんだね」 お前は、俺の言う通りにしていればいいんだ。 初めて会った時から、そう言われ続けてきた。 そしてその通りにしていた自分を、なんて愚かしい子供だろうと思う。 「お館様に言うのか?」 まさに裏切られ者の目で睨んでいるアルに、さらに笑みを深めてジュールが問う。 「お館様に……言って、解雇にする」 「言うのか? そうか。お前も共犯だということを自分の口から告げるというのか。俺の言う通りに、お館様に内緒で情報を流し続けたお前は充分に、共犯なんだがな。お館様に捨てられるのはお前だ」 「……っ」 美しい唇を噛み、顔を歪める姿を、ジュールは楽しげに見ている。 ゆっくりと、部屋の中を歩き回り始めた。アルを中心として、ゆっくりと壁づたいに。 「言うのか? 言えるのか?」 アルが自分の犯行を告げられるはずがない。 その確信はあった。 貴族達に「お館様の稚児だ」と噂された時の落ち込みようを思えば、確信できる。 見ず知らずの貴族達に後ろ指をさされるだけではない。もし告げれば、慕っている養父から罵られ、縁を切られるかも知れない。 アルに、出来るはずがなかった。 うなだれたアルは、どうやら諦めたようだ。 細いうなじが覗く。 絶望した背中をジュールは目を細めて見やった。 可愛い愚かな、俺が選んだ子供……。 「俺に協力してくれたお前に、報酬くらいはやろうか。こっちへおいで」 「え……?」 顔を上げ、アルが振り返る。 自分の周囲を歩いていたジュールがいつの間にか背後にいた。 アルの背後にあった、大きな寝台の真横に。 いぶかしげに近寄っていく。と、あと二歩という辺りでジュールの手が延び、アルの腕をとらえた。 そのまま引かれ、胸の中に抱きすくめるような体勢になり驚く間もなく二人一緒に寝台へと倒れこみ。 柔らかなその寝台で、体が大きく揺れる……。 口づけされて、やっとアルには納得がいった。 ジュールが言った「報酬」の意味が。 確かに自分は望んでいた。 ジュールにこうされることを望んでいた。 それなのに、それを報酬だなんて……。 そう思っても、拒めるはずがない。 冷たい態度とは裏腹にジュールの体温は高く、熱い手で触れられるアルの肌の方が冷たいくらいだった。 しかしその温度差が一層快感を呼ぶ。 「いや…だ」 「いやじゃないだろ?」 はかない抵抗をみせる腕を難なくジュールは封じ込め、激しい勢いで唇を奪いながらアルの寝衣を肩から引きずりおろす。 真っ白な無垢な肌を撫でられてアルは困惑した。 そして、口腔を犯す舌にも。 唾液が口から溢れ頬を伝う頃には、ジュールの手によって下まで脱がされていた。 淡い色をした乳首にジュールが唇を寄せる。 舌で、歯で、甘い愛撫をされ。 その刺激で勃った下半身を素手で触れられ、羞恥のあまり暴れようとする脚も大きく開かされ。 やがてその間にジュールを迎え入れることになった。 きつい思いをしても、もう、離したくないと思う。 アルの中に収まったジュールも、きつそうに眉根を強く寄せていて、それがたまらなくセクシーでずっとその顔を見ていたいと思った。 アルの中でジュールが暴れる。 広い寝台の上、白いシーツがくちゃくちゃにされ、掛け布団は蹴飛ばされた。 もっと欲しい、とねだるように揺らめく腰は、つたない動きながらもジュールを翻弄させる。 初めての体験だから快感よりも疼痛が激しくて、しかし、ジュールにこうされていると実感させてくれるその痛みがたまらなく愛しかった。 痛くていい、と思う。 苦しくていいから、もう放して欲しくはない。 何度もねだるアルに、ジュールは少し呆れたような顔も見せたが、何度でも与えてくれた。 「ジュール…んっ…」 「もう一度か?」 言葉で告げずとも、腰がジュールを求めて蠢いている。 ぐいぐいと押し付けられて呆れたように顔を見やる。が、稀に見るその美しい顔が、目を潤ませて薄く口を開き、濡れそぼった唇から陶酔した息を漏らしている、そんな姿を目の前にしてはジュールも諦めざるを得ない。 純真なジュールへの恋心ゆえか、アルのなまめかしさは恐ろしいほどだった。 見つめているだけで臨戦体勢になる。 一回だけ、慰め程度に抱いてやるつもりが、もう逃げられない。 汗ばんだ肌が乾くことはないまま、二人は朝を迎えた。 疲れて眠る顔はいつもと変わらないはずなのに、明らかに昨日までとは違う、汚されてしまった者の色気があった。 それが一層美しい容貌を引き立てる。 閉じた瞳の、目蓋に散りばめられた長いまつげがきらきらと旭光を反射していた。 初めて見つけた時に、何故こんな綺麗な子供を捨てたのだろうと、純粋に思ったものだ。 聞けばまだ目も開かないうちから捨てられていたのだという。 もしも子供の未来が見えたなら、アルの親はこの子を捨てなかっただろうか。 しかし、捨てられなかったならお館様に引き取られることもない。 子供を捨てたくらいだから貧乏な家の生まれだったのだろうか。それならばこの容姿を利用するしか無かっただろう。 考えても埒もない。 ひとつため息をつくと、ジュールは寝台をそっと抜け出した。 [*前へ][次へ#] [戻る] |