短編集 翡翠夜話 1 初めてアルがレフェリエド家に連れて来られた時、お館様は片膝をついてその顔を覗き込み言った。 「よく来た。随分綺麗な顔をしているね。……お前が面食いとは知らなかった」 と、お館様が見上げたのはアルを連れて来た男だった。 「まさか」 と彼は片眉を軽く上げて言う。 「孤児院で一番頭が良かったからですよ」 「そうか、お前は頭がいいのか。楽しみだな」 アルの頭を撫でるその手は大きくて温かかった。 ある日、孤児院にやって来た男は、レフェリエド家の弁護士だった。黒髪に深い青の目をしていて、そのまなじりは厳しそうに切れ上がっていた。 人好きする面立ちとは言えないが、美男子である。 名前はジュール・ラスマン。 孤児院で彼は1週間、孤児達の生活を見つめていた。朝早く来て、授業風景や役割分担をして家事をする姿を監視するような目で観察し続け、夜遅く帰って行く。 誰が選ばれるかと孤児の間で話題になっていたが、アルは自分が選ばれるとは思っていなかった。 それどころか。高貴な身なりをしたその男に引き取られたいと望む者は多かったが、アルは彼の鋭い眼差しに怯え、絶対に連れていかれたくないと望んでいたのだ。 それもそのはず、ジュールはいつもアルを見つめていたのだから、その視線を一番敏感に感じて当然だった。 1週間通いつめ、ジュールはアルを選んだ。 アルがどんなに人ごみに隠れて彼の目をやりすごそうとしても、銀に近い金髪に、労働階級には稀に見る透き通るほど白い肌のアルは目立って仕方がない。逃れようもなかった。 大雑把に伸びていた髪は肩のあたりで見目良い形に切られ、綺麗な服を買い与えられ、お館様に初めて会った時には目をみはるような美少年に仕立てあがっていた。 もともとが、ひどくはかなげな美しい顔をしている。 信頼する弁護士が連れてきた養子候補を、お館様は気に入り、アルは名字を得た。 アルは身の回りのことはほぼ自分で出来る。わからないのは上流階級特有の作法だけだ。 だから、アルの世話はしばらくはジュールが見ることになった。 「アルには翡翠の部屋を与えよう。同じ目をしているから」 可愛らしい養子を、我が子としてすっかり気に入ったお館様はそう言った。 「ジュール、案内してやりなさい」 「はい。おいで、アル」 ジュールが呼び掛けるとアルはお館様にぺこりと頭を下げてから後に続いた。 二人は黙って広い屋敷を歩く。 着いた部屋は、さきほどお館様が翡翠の部屋と呼んだ場所。 扉には美しい木の模様が彫られ、要所要所に大きな翡翠が入れられている。 中に入れば、床や柱にも同じようなモチーフの模様と翡翠が施されている。全ての家具も、どこかしらに翡翠があしらってあった。 見慣れない光景に、アルは唖然とする。 「アル」 ぼぅっと立ち尽くしているアルにジュールは呼び掛けた。 振り返れば、椅子を引いて待っている。座れという意味に間違いない。 椅子は一つの卓を挟んで二つ置かれており、ジュールは反対側の椅子に座った。 「わかっているな、アル」 冷たいその声は、はっきりと命令の口調だ。 「お前は俺の指示に従っていればいい。俺がお前を追い出せと言えば、お館様は従うんだからな」 「はい」 「今のところは、せいぜいお館様に気に入られるように振る舞え。毅然としておとなしく、求められた時以外はあまり自分の意見を出すな。ただし求められたら、くれぐれも愚鈍なことを言ったりするなよ」 「……はい」 アルにはジュールの命令の意味を具体的に理解することは出来なかったが、とりあえず黙っていればいいのだと思った。 「お前の教育は俺が見る。芸術方面はきちんと家庭教師を雇う予定だ。俺にはピアノなんかは教えられないからな」 「はい」 「あんまりか細い声で話すな」 「は…はい」 か細いと言われ、ますます声が小さくなってしまう。 責められるかと思ったが、ジュールは苦笑いを浮かべるだけだった。 それが、孤児院で出会って以来、初めてアルが見たジュールの笑顔だった。 アルが養子になったのは6歳の時。 レフェリエド家の顧問弁護士のジュールが家庭教師を買って出てくれたが、仕事が忙しく来られない日は代わりの人間をわざわざ手配してくれた。 お館様、つまりアルの義父は、帝国貴族の末席に名を連ねる家系だったが、もはやこの国では古い貴族はかつてのように実権を持っていない。お館様はアルに貴族の長子として帝王学を学ばせることはなかった。 忙しいジュールがいつもアルのそばにいられるわけもない。 ある日、ジュールは屋敷の廊下を走り出しそうな勢いで歩いていた。貴族の屋敷内では走ることは禁じられている。 焦る気持ちもあらわに、足音も高く歩いていく。 向かっているのはピアノ室だ。 アルが初めてピアノのレッスンを受ける日は、養子になってまだ1週間しか経っていない頃だった。 まだ慣れないアルの為に初日のレッスンは同席すると約束していたが、当日、行くことが出来なかったのだ。 今日は二日目のレッスンだった。 ピアノ室は防音されている。 ノックをせずに扉をそっと開くと、ぎこちない音が聞こえてきた。 中に入ると教師が気付いてこちらを見たが、手を向けて「気にするな」と示してやる。 アルも気付いて顔を向け、教師に続けるように言われて再び鍵盤を見る。その横顔は緊張してかジュールが来る前よりも紅潮していた。 白い小さな手が届かない音も叩こうと懸命に指を伸ばしている。 音楽などの芸術方面には馴染みがないジュールにはピアノを弾く子供などはあまり見ない姿だ。それも間近では。 ゆっくりと部屋の隅にある椅子に腰かけた。アルのわずかに斜め後ろで、手元を見守ることはできるがアルからは彼の姿が見えない位置だ。 緊張していた赤い頬も、いつの間にか違う緊張に引き締められていた。 口をきりりとつぐんで、幼く思い通りに動かない手に苛立ちながらも、楽しげに鍵盤を叩いている。 情の薄いジュールには珍しく、 「可愛いものだ」 と口の中で呟いた。 アルはピアノが気に入ったようだ。自由な時間はピアノ室に籠もるようになった。 しかし、ジュールはアルを芸術家にしたいわけではない。励んでほしいのは学問だ。 「今後、ピアノはレッスンを除いて1日1時間だ。それ以外の時間は勉強に費やせ」 そう言い付けた。 アルはジュールが留守の日でも、忠実にそれを守る。 これからいくらでも伸びる才能は、そうして遮られてしまった。 レフェリエド家の庭に美しい花が咲いている。全く興味がないジュールにとっては、名も知らぬ道端の花に等しい、白い花。 実際は、皇宮御用達の庭師の一族の者に命じて、手間暇かけて咲かせた花だ。 中庭を颯爽と行くジュールは、鬱陶しいほど花を咲かせてどうする気か、としか考えなかった。 花はお館様が咲かせたもの。 ただ、アルの為に。 アルは自室で教科書を開いていた。 開いているだけである。 その耳は音を捉えず、瞳は文字を追ってなどいない。 その指は教科書を開いてから一度もページを繰ることなく、優雅な所作で机上を軽やかに踊っていた。 耳が聞いているのは、妄想の中の演奏。 指が奏でているはずの音。 目は閉ざされて外界を拒否している。 ピアノを弾いている自分。 アルが耽っているのは、ただそれだけの空想。 ふと、かすかな足音が聞こえ、アルはすぐに目を開いた。 窓から差し込む日の光が、しばし視界を奪う。すると自分は自室で勉強をしていることなど忘れそうだった。 しかし確かな足音が耳に届いている。 早く忘れなければ。 ピアノを奏じていたことなど一瞬のうちに忘れ去るよう努め、夢想していたことが知られないように、わざと勤勉な顔つきをして教科書のページをめくる。 敏感な耳が感じた足音は間違いなくジュールのもので、数分後にはノックと同時に部屋の扉が開かれていた。 「待たせたな」 机に歩み寄りながらジュールは無感動な声で言った。 怖そう、と感じていたこの声にも慣れた。 本当に悪いと思っていてもいなくても、彼はこういう声音しか出せないのだ、と。 気付いてからは、そういう不器用な部分を愛せるようになった。 アルは微笑んで彼を見上げる。 「大丈夫」 声変わりをしていない涼やかな声で言った。 ジュールの位置から、開いた窓の下方に花が見える。 それはつまり、ただひたすら白い花だけが広がる庭を背景に、アルが微笑んでいるように見える。 内心で感嘆のため息をつくほど、アルが美しく見えた。 日差しによって室内は薄白く照らされ、もともと色の薄いアルの金髪は柔らかな銀色だ。 白い肌も日に透き通り、そこにわざわざ白いシャツを選んで着ている。 窓から見える庭には花。穏やかな風に揺らされるカーテンはレース。 白、白、白。 白に囲まれてアルはまるで人間ではない、陳腐な言い方をすれば天使のように、純潔に美しい。 遠い世界の風景を垣間見たジュールは、それを引き止めるように手を延ばした。 アルの頭にそっと乗せて髪を撫ぜる。 「お館様が可愛がるのもわかるな」 呟くと、言いたい意味がわからないというように長い睫毛が数度まばたきをした。 「お前はお館様にこれ以上ないというほど取り入ることに成功している。よくやった」 手を退けて、ジュールはアルを見下ろしたまま言った。 偉そうな物言いにもアルは静かにうなずく。 「うん」 「そろそろ、俺が教えてやれることもなくなってきた。お館様は明日からでもお前を補佐につけて育てていきたいと」 「補佐?」 「お館様の仕事を手伝いながら、後継ぎとして仕事を覚えていくんだ」 大きな家、広い土地、そしてただの庭の花に莫大な費用を注ぎ込めるようなこの家の財産、全てが将来おのれのものとなる実感がアルにはない。 後継ぎとして学ぶ、と聞いても、とっさに出た言葉は、 「ジュールは?」 という問いのみ。 6年間そばにいた教師のことのみだった。 「お館様の仕事を手伝えば、俺とは今度は仕事場で会う。俺の仕事は全く違うものだが」 「そう……。ジュールの部屋は?このまま?」 ジュールはアルの面倒を見るようになってから、屋敷内に部屋を与えられそこで寝起きしていた。しかしそこが家というわけではなく、車で30分ほどの距離の所に自分の家を持っている。 アルに付き添って6年間、ほとんど帰ることもなかった家。 もう思い出せない我が家の玄関を思い、ジュールは苦笑した。 「俺は自分の家へ帰ることになる」 「そうなんだ……。僕がいてって言っても?」 「ああ。お前はそんなどうでもいいことに構うな。お前は…」 初めて会った日から、何度か告げた言葉を、再び。 「俺の言うことを聞いていればいいんだ」 その日の夕飯の席で、アルはお館様に、明日から自分と一緒に出勤をするようにと告げられた。そして翌日からわずか12歳の少年が事業を手伝うことになる。 明日からの不安に、アルはその夜、自室をそっと抜け出した。 静まった邸内。 人の行き来がないとその広さ、天井の高さが際立つ廊下を忍び足で歩く。 ひるがえる寝衣の裾の音さえも気になる。 向かう先は、わざと質素な造りの部屋を選んだ人の所だった。 寂しさからか、不安からか、無性に人肌が欲しかったので。 そんな時、優しい義父よりも家庭教師の方を身近に感じてそちらを選ぶことは間違っていないと思っていた。 そして本人の部屋の前までは勢いよくやって来たものの、いざその扉を叩こうとすれば途端に腕が固まる。 ジュールの冷たいまなざしを思うと、引き返して帰ろうかという気になる。が、それでも、一人で広いベッドに寝ることに、今夜は耐えられそうにない。 思い切って扉を小さく叩いた。 起きていてほしい。 あるいは、眠っていて気付かないでほしい。 どちらにしろ一人では寝られないくせに、相反する望みで胸が激しく鼓動を打つ。 起きていて、僕に気付いて。 眠っていて、僕に気付かないで。 ドキドキしながら待った時間は、数十分にも思えたが、実際は数十秒。 ジュールはすぐに扉を開いた。 やはり冷めた目が自分を見下ろし、驚いたように一瞬瞳が揺れるさまを、アルは沈黙して見守る。 どんな言葉を吐き出されるのか……。 「どうしたんだ?」 尋ねる声は低かったが意外にも機嫌が悪い時のすごみはなかった。 ただ穏やかな問いだ。 「あの……」 アルは何という言葉にしたらいいのかわからない。 なんと言えばいいのだろう、わからない。 一緒に寝てもいい? そんな問い掛けをアルは知らない。 孤児院は子供がたくさんいたから、先生は一人だけをひいきすることはなかった。それに狭い部屋で大勢で寝起きをしていたのだから、誰かと一緒に寝たいというよりは、一人で寝たいと思うくらいだ。 もっとも、そんなふうに思うようになる年齢に達する前にアルは引き取られたのだが。 「ジュール……あの」 戸惑い、声を詰まらせるアルに、ジュールは小さく息をつくと、部屋へ入るように示した。 ジュールの部屋に入ると、背後でパタンと戸が閉められて、居心地悪さに小さくなった。すると彼の視線を頭に感じた。今、顔を上げれば、ジュールと目が合うだろう。 部屋に入れてくれる前の、小さなため息はなんだったのか、気になったが聞くことは躊躇われた。 きっと、邪魔だと思われたのだろう、と自分で気付いたからだ。 ジュールは立ったままアルを見下ろして、 「何か聞きたいことでも?」 と問い掛けた。 寝る前だからなのか、低くて普段にも増して抑揚がない声音だ。 アルは小さな頭をそっと左右に振った。 「じゃあ、どうした?」 問われても声が出せない。 出せない代わりに、上目遣いにちらりとうかがい見れば、しっかり目が合ってしまった。 そのまま目が離せずにいるさまを、ジュールはまじまじと見返した。 小動物のようで可愛い、と思われているとは知らないアルは、まだ小さく縮こまっている。 ふとジュールの口元がわずかに歪んで、今日1日の勤務を終えて疲弊しきった筋肉が笑みを浮かべた。それはあるかないかわからないほどの、微小な表情の変化だったが、当然アルには、彼の笑みを読み取ることが出来る。 肩の力を抜いたアルに、ジュールはやはり変わらない声音で尋ねる。 「一人で眠れないのか?」 アルは素直にうなずいた。 ジュールは実は、この子供が夜中にやって来た理由には初めから思い当たっていた。 だが、まさか、という思いが強く、本人に尋ねたのだ。 初めてこの家に来た日も、さして寂しがるふりを見せなかったというのに。 なぜ、今日になってここを訪れたのか。 「俺ももう寝るところだから、先にベッドに行っていなさい」 努めて優しい声音で言ったつもりだったが、アルにはどう聞こえただろうか。 残っていた仕事などを明日に回し、いつもよりずっと早くベッドに入った。 すでに眠たげな半目でベッドに入っているアルの横に滑り込み、目の前の金髪を撫でてやると、彼はもう目を閉じてしまった。 アルが、眠れない時に一緒に寝たいと思うほどに、ジュールに信頼を寄せるようになった、ということ。 そのことに、ジュールはその夜には気付かなかった。気付いたのはずいぶん後になってからである。 アルの16歳の誕生日、初めてバースデーパーティーが開かれることになった。 アルがレフェリエド家に来たのは6歳の時だったが、10年間、一度もバースデーパーティーなどというものを催されたことはない。 16歳になってやっと、後継者として認められたからなのだろう、とアルは解釈していた。 後継者としてお披露目するに相応しい大人になったとお館様が認めてくれたから、こうしてパーティーが開かれることになったのだ、と。 実際には、お館様は12歳の時にパーティーを開くつもりでいた。しかし、連れてきた時から屋敷に閉じ込めるようにして勉強しかさせてこなかったアルを思えば、社交界に出すのは可哀相に思えた。そのため、お館様は翌年に見送りにすることに決めた。 ところが12歳以降、事業の補佐をさせてから、アルの身体の弱さが露見した。 軽い貧血・眩暈はしょっちゅうで、熱を出して寝込むことも、年に何度もある。 実際にお館様の補佐という立場は多忙なもので、幼いアルが倒れるのも無理はなかったのかも知れない。 誕生日の前後はベッドで過ごすという年が続き、とうとう、4年経ってしまったのだった。 パーティーの一ヶ月前から、その準備でアルは忙しくなった。準備をしているのはお館様と屋敷の使用人達だが、主役のアルの衣装を決めるために何日にも渡って仕立て屋が屋敷に通い詰めたり、衣装以外にも飾り付けに使う宝石や食器、招待状にまで、お館様はアルの意見を求める。 屋敷で仕事を片付けているアルのもとへ、出入りの宝石屋とお館様がやって来て、多種多様の宝石を見せられたりする。一度、これがいいと言って決めても、 「アル、こんなのも綺麗じゃないか?」 と再び宝石を運び込ませる。 そんなふうに、毎日時間を潰されていく。 宝石ならばまだ良い。 衣装を決める時は、まずは布地からだった。 立たされ、何度も布を身体に当てられて、髪の色を考えればあれが良いかこれが良いか、瞳の色を考えればあれが良いかこれが良いか、お館様は何時間でも悩んでいる。 その後には衣装のデザインも決めた。 数十、あるいは百に及ぶデザイン画を机いっぱいに広げ、布地と合わせて考えながら選ぶ。気に入ったデザインに布が合わないようであれば、再び布地から決め直す。 お館様は終始楽しそうで、アルは何度も、 「なんでも良いのでお館様が決めて下さい」 と言いたくなったのだが、とても言えなかった。 そんな多忙な毎日だったが、古くから屋敷に勤める執事がアルにそっと漏らしたことがある。 「奥様がお亡くなりになって以来、このお屋敷にこれほど活気があふれたのは初めてでございます」 と。 お館様がパーティーを開くのも、何年ぶりか知れない、と。 アルは嬉しかったが、それをうまく顔には出せなかった。どこか複雑な思いがあったからである。 やはりどうしたってお館様の本当の息子にはなれない、寂しさ。 奥様という言葉を聞いてしまえば、その寂しさが募る。 養子になって10年経っても、お館様を父と呼べない。そしてお館様も、父と呼ぶことを強制はしないのだ。 子供の頃、お父様と呼んだ方がいいのだろうか、と思った。 [次へ#] [戻る] |