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短編集
花料夜話 4
「いけません」
「私の部屋まで連れて行ってちょうだい」
「衣稟(いりん)を呼びますからお待ちを」
 衣稟は蘭凉様のお付きの侍女だった。彼女はお嬢様の我が儘にも慣れている。そして恐らく、お嬢様の男遊びの実態を知っている唯一の人物だ。蘭凉様の彼女に対する信頼は大きい。
「衣稟は来ないわ。私が来ないように命じたから」
「あの女性は賢いですよ。誰の怒りを買うことが一番恐ろしいか、わかっていらっしゃる」
「なにが言いたいの?」
「お嬢様、僕は伶項様のものなんですよ?」
「お父様なんて怖くないわ」
「あなたはそうでも、衣稟はどうでしょうか」
 僕は蘭凉様の手を振り切って部屋を出た。この部屋は蘭凉様の絵を描くために用意された部屋だ。
 隣の控え室の扉を開くと、やはり衣稟が待っている。
「終わりました。お嬢様をお連れして下さい」
 衣稟は無言で僕に頭を下げると、蘭凉様の元へと向かった。
「まあ、衣稟! 今日は来ないでと言ったじゃない!」
「申し訳ございません、お嬢様」
 蘭凉様の激しい怒声が聞こえて来たが、僕は構わず自分の部屋へと向かった。あまり彼女の機嫌を損ねるのも得策ではない。それをわかってはいるが、僕自身もどのように立ちまわったらいいのか、考える余裕がなかったのだ。


 前の主人である閑様のこともあり、波風立てないように伶項様が主催されるサロンにはなるべく顔を出さないように過ごし、一月程経った頃、説が僕を訪ねて来た。その時、説は深透(みすく)という男を連れて来ていた。充津のサロンで何度か会った男だ。説が特に親しかった記憶はない。
 しかし、説が訪ねて来たと聞いた僕は、彼をアトリエへ通すようにと下女に言ってしまっていたので、二人が現れた時には何も言えなかった。
「閑様のことがあってから、君と連絡が取れなくなって心配したんだ」
 説は土産にと持って来てくれていたワインが数本盛られた籠を差し出しながら言う。僕はそれを受け取ってテーブルに置いた。
「だけど充津に話を聞いてね。さすが、彼は情報通だよ」
「僕が伶項様に救って頂いたことは、まだ知られていないのか?」
「いいや、この間の伶項様のサロンではかなり噂になっていたよ」
「そう」
 顔を出さなくて良かった。
 説は沈鬱な面持ちになり、
「閑様だが……」
 と切り出した。
「どうしたんだ?」
「デルタルメス監獄に幽閉されていらっしゃる。このまま、国外追放に決まるだろうという噂だ。これも充津が言っていたんだが」
「……」
 監獄。そして国外追放。
 優しいあの方に耐えられる境遇だろうか。
「伶項様の下では……動きにくいのかい?」
「え?」
「充津の所に来なくなっただろう」
「ああ。あれは」
 言いよどんだのは、僕は充津との関係を、説になら話しても深透に聞かせるつもりはなかったからだ。
「……動きにくい、かな。伶項様は警戒しなければならない方だと思う。僕のことを、閑様の所にいる時から気にかけていらっしゃったようだし。もう、充津の所には行かないほうが、安全だと思うんだ。僕の、というよりも、君達の安全の為に……」
「そう、だな。君が来なくなると、充津が落ち込むだろうな。絵はまだ、完成していないんだろう」
「仕方ないさ。完成させるつもりでいたことが、間違っていたのかも知れない。誼湾様の絵など」
 説は沈んだ顔を見せた。そしてひどく言いづらそうに、口を開く。
「その、充津のサロンのことは、口外は」
「無論、しない」
「……なら、いいんだ」
 説は僕のことを案じていたと言っても、僕の口から漏れる秘密のことを恐れていた部分が大きかったろう。やっと、安堵した顔をしてみせる。
 僕達は信頼し合う友と言えども、今の情勢は友情など取るに足らない。そのことを僕はよくわかっているつもりだった。自分自身が主人を裏切ってここにいるからだ。
「璃月、たまには、皆の前に顔を出してくれよ」
 それが通常のサロンのことを言っているのはわかっていたが、脳裏に充津の顔がよぎった。伶項様のサロンにも、充津は参加しているだろう。
「今、絵を描いている。少し忙しいんだ」
 あまり出る気がないことをほのめかす。説は苦笑して答えた。
「君がいないと、寂しがる連中が多いのさ」
 僕は微笑だけで返した。
 二人についてくるように目線で示すと、隣の部屋へ移動した。
 絵画が飾られている部屋だったが、僕の絵ではない。伶項様が以前に囲っていた若い画家のものだったはずだ。大方の予想通り、容姿の美しい男だったと聞いている。
 説と深透はその絵に一瞥をくれたが特に感慨を示す様子もなかった。
「せっかく来てくれたのに、もてなせなくてすまないね」
「そんなことは気にしない」
「深透は最近、どう?」
 久し振りに会う彫刻家に尋ねると、答えは無表情で首を左右に振るだけだった。
 そうだろう。充津のように成功する者は珍しく、名前もよく知られないまま才能を埋もれさせていく者がほとんどだ。
「祭典が終わったら」
 深透がゆっくりと言う。僕は顔を強ばらせた。
「選挙が始まる」
「とうとう……」
「無戸派に優位になるだろうという予想だ」
「貴族はたくさん『狩られた』からね」
 冗談めかして僕は言ったのだが、二人は笑わなかった。それどころか、
「今度は俺達が、狩るんだ」
 そう、説が言った。
「な、なに?」
 急激に喉が渇いてきたので、唾を飲み込み、続けて問い掛ける。
「僕達がやるのか? 貴族が雇ったように、暗殺を請け負ってくれる奴を? それとも……」
 僕達には、そんな金はないはずだ。それならば。
「自分で? 自分で手を汚すのか?」
「璃月、動揺するのはわかる」
 説が僕の肩に手を置いた。
「だが、そうしなければ誼湾様の血筋は途絶えてしまう。空蘭様の直系こそ王家の血だ。そうだろう?」
「次の王権を取られたら、誼湾様の血筋を援助する者は徹底的に潰される」
「僕達は決意したんだよ。君を巻き込むつもりはないが、もしも、まだ僕達の仲間だという気持ちがあるなら、いつでも歓迎するよ」
 言い募る二人に、返す言葉がなかった。自らの手で有権者を殺そうとしている、僕の友が、恐ろしかった。
「大きな反乱を起こしたら犠牲者がたくさん出る。死ぬのは庶民ばかりになるだろう」
 説の言葉が深く胸に突き刺さって、僕は俯いた。
 無戸家は軍を持っている。本格的な武力闘争になっても、勝てる見込みはないのだ。死ぬのは、庶民ばかり……。
「充津は、賛成しているのか?」
 誼湾派の芸術家の実質的なリーダーは充津だ。
「無論だ」
 説の言葉に目の前が暗くなった。彼が賛成しているのなら、止める者はない。
「充津は……璃月は反対するだろうと言っていた。彼は閑様の仇だとしても殺せないだろうと」
 それは、閑様を見捨てて伶項様に下ったことを暗に言われているかのようだった。
「璃月、僕はこれでも、君を心配している。友よ、伶項様を襲う前には、必ず君に忠告するよ。君を信じて打ち明ける」
 僕が、伶項様に密告しないと、信じて……。
 二人は話したいことは終わったというように、出ていった。僕は見送ることも出来ず、しばらくその場で立ち尽くしていた。


 充津から手紙が来たのは十日後だった。
 会いたいから次の伶項様のサロンに出てほしい、と書いてあった。お嬢様からはサロンでエスコートしてくれないかと頼まれ、最近だるくて体調が良くないのでサロンには出ない、と断った。
 実際のところ、だるいと言うよりも、集中力がなく、お嬢様を描いている時は特に上の空だ。最近はすぐに切り上げてしまうので、お嬢様も僕の仮病を疑わなかった。
 充津の手紙に返事はしなかった。


 次のサロンがあった翌日、核真様の馬車が夜道で襲われ、殺されたと聞いた。閑様が疑われ、処刑されることに決まった、とも。
 それを告げ、伶項様は反応を伺うように僕の顔を覗き込んでいた。内心では顔面蒼白になりそうではあったが、僕は顔色を変えずに返す。
「襲った者はどうなったのですか?」
「御者さえも殺して逃走していた」
「なぜ、核真様だったのでしょう」
「実はな、祭典後には選挙が始まる。その話を聞いた誼湾派の人間の仕業だろうな」
 僕は驚いた振りをしながら、充津がいち早く選挙のことを知っていたのは、やはり創理様が情報を与えているからだろうかと考えていた。
 誼湾様を支持する者は僕達だけではない。充津達とは違う組織の犯行かも知れなかったが、犯人は逃走したと聞いて安堵した。
「閑は死ぬというのに、顔色も変えないな」
「あの方にとっては、国外追放も辛いものでしょう。自国で死んでも同じことかと」
「濡れ衣で殺されるとしてもか」
「濡れ衣、と断定できるのですか?」
「閑はあのように野蛮なことを出来る人間ではない、と思うよ」
「ご存知でいながら、僕を脅したのですね」
 皮肉って笑った僕に対して伶項様も不適な笑みを見せた。
「私のものになった時のことか」
「そうですよ」
「判断したのは君自身だろう」
 私を責めるのは、間違いだろう、と伶項様はおっしゃってワインをあおった。説が持ってきたワインを。
 そして顔を歪める。
「まずいワインだな」
「僕ら、画家が口に出来るものなんて、その程度のものなんですよ」
 そう言ってやると、伶項様は苦い顔をしてグラスを置いた。二度と口をつけることはないのだろう。
「娘の絵はいつ出来上がる?」
「ああ」
 僕は視線をグラスから伶項様へと戻した。
「もうすぐです。祭典までには完成するでしょう。そうですね、あと、5日も頂ければ」
 気は進まずとも、筆はきっちり動かしていた。どんなにゆっくりでも、絵は完成に近づいている。
 伶項様は相好を崩した。
「そうか。ならばひと月後にはサロンを開こう! 絵を披露目しよう」
「僕も出席しなければいけないのでしょうね」
「無論だよ。いやなのか?」
「いいえ。ただ、ここのところ少し調子が悪く……」
「そうらしいな」
 だが、と呟き、
「私の自慢の画家だ。必ず出席してもらうよ」
 と命じられた。
 上流階級の家は祭典の間、王宮での式典以外に外出は許されない。準備もあり忙しいので、絵が完成してすぐにはサロンを開く余裕はなかった。


 三日後に充津から手紙が来ていたが、最初の数行を読んで机の奥に押し込んだ。
 彼の手紙は怪しまれないよう美術協会の烙印が押してある。どこで手に入れたのか知らないが、何の事務連絡だろうと思って開封してみると、充津の名前と、自分達の関係を疑われないように美術協会をかたって連絡したことを謝罪する文章が最初に記されているのだ。
 読む勇気が出るまで、しまっておこうと思っただけだった。何が書かれているとしても動じないようになるまで。
 なぜこんなにも充津を気に掛けているのか自分でもわからない。

***


 絵が仕上がった時、初めに伶項様にお見せした。
 最後の仕上げは一人でアトリエでしていたから、お嬢様にお見せしなくて済んだ。伶項様は自分の持ち物に対しては嫉妬心を抱く。自分よりも先に絵を見る者があったら、きっとご機嫌を損ねるだろう。
「美しい、実にあの娘らしい」
 そうおっしゃって、伶項様は絵から目を離さない。その瞳はきらきらと輝いていた。
 うわの空で仕上げたというのに、絵を大変気に入って下さり、ずいぶんな高値で引き取られた。
「だが安心した」
「何がです?」
「この絵を見る限り、君は娘を愛していない」
 背筋に寒気が走った。
「そんなこと……お疑いでいらしたんですか」
「ああ、画家が娘と恋に落ちるという話はよくある」
「そんな。伶項様にそのようなことを心配されていたとは、心外です」
「そうか? まさか君が、私を好いているわけもないだろう」
 伶項様は笑ってそうおっしゃった。何度も抱かれているが、僕達の間には、充津から感じたような熱はなかった。
「僕は僕なりにご主人様をお慕いしていますよ」
 つい口から出た言葉だった。主人の機嫌はとらなければ、という長年の癖から出たようなものだ。
 伶項様は一瞬、驚いたような顔をし、それから笑みを浮かべた。
「可愛いことを言えるのだな」
 そう言いながら、絵から目を離さなかった。


 祭典というのは創世を祝う習わしで、三日通してお祭り騒ぎとなるが、初日には祈りの儀式がある。
 貴族は王宮へ、その他の者は神殿、あるいは自宅で、創世神を讃える言葉を述べて過去に感謝し、未来を祈る。貴族やそれに仕える者は王宮へ行くこと以外の外出を許されないのだが、それは儀式の為と言うよりも、貴族と民衆の安全の為だった。
 祭典の三日間、国民は無礼講で騒いでいる為、窃盗や強盗に遭い易い。金を持つ者の警戒心が弱まると同時に、貧しい者達の倫理観も弱まるからだった。貴族は家を空けることはおろか、少人数での外出も危険とされていた。儀礼の名目の下、三日間は外出禁止とされているのだ。
 その代わり主人は王宮で式典という名の盛大な宴に参加する。僕達のような、貴族のお屋敷に仕えている者には特別手当として給金が支払われるが、外出も許されず禁欲的に過ごさなければならない。
 祭典の初日、伶項様はご親族の方々と王宮へと赴かれた。執事の判譜(ばんふ)さんによって屋敷中の使用人は食堂へ集められ、朝から祈りの儀式が始まった。時間はほんの1時間程度のことだ。その後は普段は出ないような豪勢な料理が振る舞われ、酒も出される。
 僕は料理には口をつけず、特別手当だけ受け取ってアトリエへと戻った。
 屋敷を抜け出そうと考えていたのだ。ラクリアン街の外れまで来てもらうように、城下町の馬車を手配してある。屋敷の警備も祭典の期間が一番手薄になっているから、今なら出られそうだった。

 アトリエは1階にある。わずかな金だけ持って、窓から外に出た。屋敷の裏を通り抜けて庭の垣根の間を隠れながら進む。
 高い塀は越えるのは容易ではなかったが、使用人用の裏門は誰でも通ることができるから問題ない。皆、食堂で宴会をしている。閂を外して外へ出て、外から手を伸ばしてまた閂を戻すことは簡単だった。
 誰も外出していないからこそ、ラクリアン街を一人で走っていてもその姿を見かけられることすらない。
 今日は町へ出て安宿に泊まり、明日の朝から神殿に並んで宝物庫を見る。明日の夕方頃には戻ればいい。最近は体調が悪いと言い続けて食事を摂らない日もあるから、僕が食事を取りに行かなくても厨房の人は怪しまないだろう。
 なんだ、祭典の外出禁止令を破るなんて簡単なことだ。
 僕はそう思いながら、走っていた。


 城下町に来るのは久し振りのことだった。
 神殿近くの宿はいっぱいで泊まれないだろうことは予想していたので、離れた所で宿を探した。この祭典の期間、城下町は賑わうのでなかなか宿が見付からず、随分と格の低い所しか見付からなかった。
 恐ろしいほど汚い部屋、経年で歪んだベッド、立て付けが悪いドア。治安に不安はあるものの、大声を出せばすぐに宿中に筒抜けになるくらい壁も薄くぼろぼろなので、そこに決めた。
 久し振りに神殿に行くと思うと部屋にいても落ち着かず、一人で酒を飲みに出かけた。

 充津と見に行くと約束したものの、僕は決して彼に連絡は取らなかった。それに、彼と見に行くつもりはなかった。
 一人で見たかった。自分自身の為に。


 酒場の主人は陽気な人だった。
「遠い所から来たのか?」
 と聞かれて、僕はもともと住んでいた地名を出した。城下町の外れの実家のある所だ。
「なんだ、近いな!」
 と言って主人は笑った。客に対して大雑把な言い方をする人だったが、誰に対してもそのように接しているようだ。それにその話し方には居丈高なところはなく親しみやすい。
「最近、里帰りしたんですよ。ちょっと前まで隣国にいたんです」
 と調子に乗って嘘をつく。何を言ってもばれないし、問題ではない。
「わざわざ帰って来たのかい。内乱は治まってないって言うのに」
「自分の国ですから。やっぱり帰りたくて」
「そうかい。まあゆっくり飲んで行きなよ」
「はい」
 屋敷にいれば大層な料理が食べられるというのに、自腹で貧相な料理と安酒を飲んでいる。この状況に自然と自嘲する笑みがこぼれた。
 ずっと主人に反抗することもなく生きてきたというのに、説に充津のサロンに誘われてから、僕は変わってしまったのかも知れない。内乱を無関係だと思っていたわけもないが、それでも、主人についていきさえすれば、なるようになる、死ぬ時は死ぬ、と思っていたのだが。


 人々は浮かれて、酒場は混んでおり、テーブルに一人で座っていたので後から来た客と相席になった。彼らは陸軍の兵士達だったが、ほとんどが一般家庭の出身で、酒が入ると途端に無戸家の悪口を言い始めた。
「無戸家のやり方は汚いってんだ! なぁ、姶豪(あいごう)!」
 何度目か、同じことを問われて僕はうなずいた。名前を聞かれ、姶豪と名乗っていたのだ。
「誼湾様に味方する人間を次々と消しちまうなんて! 信じられない!」
「そうだそうだ! おまけに誼湾様の直系であられる李燐(りりん)様は、無戸家の女と結婚の約束をさせられてる! お可哀想でならねぇよ」
 兵士達はずいぶんと言葉遣いが汚い。だが李燐様に同情的で、気持ちは痛いほど伝わってくる。
 親族もほとんど殺された李燐様の後見は賀月(がげつ)家という名門の家だったが、どんな弱みを握られたか、李燐様を無戸家の当主の次女と婚約させた。暗殺の可能性も、あの方の生涯にはつきまとうのだろう。
 まだお若い李燐様をお見かけしたことがある。遠目ではあったが、12、3歳の李燐様は、レットバルの戦役に描かれた誼湾様に似ているような気もした。
 あの方が僕に似ているかと言うと、そうでもないと思う。
「賀月家は、李燐様に味方する者の声を聞かせないようにしているに違いない」
 僕が言うと、男達も「そうに違いない」と賛同した。
「屋敷の奥深くに囲って隠して、李燐様に味方はいないと思い込ませてるんだ」
「あの方はまだ子供だ。騙すのは容易い」
「次の王が李燐様以外ならもうこの国は終わりだ」
 と、あまり大声で騒いでいるので、酒場の主人がテーブルまでやって来た。
「おいおい、あんた方、気持ちはわかるが、大声で言っちゃいけないよ。無戸様は大貴族様なんだろう。うっかり無戸様の兵士にでも聞かれたら、大事だぞ」
「こんな場末に無戸の擁護派がいるもんか!」
 兵士達は一笑に付したものの、それから声を抑えた。僕はあまり注目を浴びたくなかったので内心で安堵する。
「もしも無戸の当主が次の王なんてことになったら、反乱だ」
「そうだそうだ、俺達は絶対に許さない」
 誓い合う三人に僕は同意することも出来なかった。
 保身を考えて伶項様に付いた僕が、反乱などに参加するわけもない。だが次の王は無戸家の当主に決まるのかと思うと、誼湾様の話をしてくれた祖父や両親、充津や説など誼湾派の集会で出会った人々の顔が脳裏をよぎり、胸を絞られる心地になった。


 それほど飲む気はなかったのに、酒場の雰囲気に酔わされ気付けばずいぶん深酒していたようだ。なんとか宿に帰り、鍵をかけたかどうか記憶も曖昧なまま眠ってしまう。
 早朝に外出することを宿の人間に伝えていたので、夜明けよりも早く、戸を叩かれる音で目覚めることが出来た。
 徐々に空が明るくなり始める街を神殿に向かって急いだ。
 朝靄の中に静かに佇む神殿を見ると、幼い頃の記憶が蘇ってくる。だが今日は早く来たおかげで、記憶にあるよりも混んではいない。
 列に並ぶと、日が昇りきるのを待った。


 太陽が昇りしばらくして、神殿は開放される。宝物庫の品々は大広間に飾られていた。
 絵だけではない。彫刻や、刀剣、宝石もある。
 最も奥の壁に「花舞いの午後」はあった。一際大きく、目につく。
 僕はまっすぐそこへ向かった。
 近づくにつれ、心音が早まる。記憶にあるよりもさらに鮮やかな絵がそこにはあった。
 こんなにもきれいな絵だったなんて……。
 万物を司る精霊王が人の姿を仮り、花と戯れる姿。嬉しげに王の周りを舞う花の精霊達。
 幼い僕の心を魅了した精霊王の微笑み。
 やはり、僕は……。

 やはり僕は、この絵の為に、画家になった。

 この人に会いたい。この絵にいつも会いたい。
 誼湾様なのか精霊王なのか、それはどうでもよかった。
 なぜか涙が溢れたが、咎めるように僕を見る人はいなかった。この絵の前で立ち止まる人は皆、感嘆のまなざしで見上げるから。
 なぜこんなにも優しい絵が。
 なぜこんなにも美しい絵が。
 ここに存在するのはなぜ。

 幼い頃、この絵に心を奪われたはずなのに、いつのまにか絵を生きる為の手段にしていた。絵を描く為に生きているいるのに。
 絵を残す為に伶項様に身を任せたことを忘れてはいけない。
 充津に自分で言ったはずだ。


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