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短編集
花料夜話 3
「画家や使用人には、今回は逮捕状は出ていない。良かったな」
「そうなんですか」
「共犯の嫌疑で指名手配される前に、故郷へ帰ったらどうだ」
「そうですね……。ありがとうございます」
 兵士は親切心で言ってくれたに違いないが、こんな状況で故郷へ帰れるものかという反発心が僕にはあった。
 話を終えて馬車へ戻る。乗り込んでいささか乱暴に扉を閉めると、荷物を取りに帰りたいと言った僕について来た伶項様の部下の男に囁きかけられた。
「あなたの私物は全て、伶項様のお屋敷に移してあります」
「……っ!?」
 驚き、息を飲む。
 つまりは、この閑様の末路を見せ付ける為に、帰りたいと言った僕を引き止めることもなく黙って連れてきてくれたというわけか。当然、朝には帰ると言い出すことくらいは、伶項様は予想していただろうから。
 いよいよ帰る場所を失ったこと、そして伶項様の行動力や冷酷さを、思い知ってみればやはり僕がやるべきはたった一つなのだ。伶項様のご機嫌を取ること。それに尽力するしかない。
 嘆息して男に告げる。
「わかった。もういい、帰ろう」
「はい」
 男がすぐに御者に命じると、馬車は静かに走り出す。
 帰ったら僕の絵を傷つけられていないか確認しなければ。そして毎日のように充津のもとへ通っていることを、伶項様に何と言ってお許しを貰えば良いのやら。
 ラクリアン街の見慣れた並木を眺めながら僕は頭を悩ませた。


 伶項様は存外、懐の広い御方であったらしい。充津のアトリエに通うことには一切反対はなさらなかった。
「良いとも。充津は当人も才能も王宮の誇りだ。学ぶことは多いだろう」
 そうだった。芸術好きでサロンを開く伶項様のこと。優れた芸術家同士の交流はむしろ推奨する方だった。
 だが、誼湾様を支持する秘密サロンにはもう出入りしない方がいいだろう。伶項様の思惑はわからないが、元老院と懇意にする大貴族なのだから恐らくは僕が誼湾様を支持することにも良い顔はなさらないはずだ。


 充津のアトリエを四日振りに訪れた。まずはなぜ四日も来なかったのかと怒っている充津に、問われる前に自ら身の上に起こった経緯を話す。
「それで、伶項様のものになったのか」
 充津は賛成しかねるという目をしていた。
「仕方がないよ。僕は地位も名誉もない画家さ」
「だが、あの御方の趣味を知らないわけじゃあるまい」
「なぜ君が反対する? 僕には他に生きるすべがない。わかってくれるだろう」
 充津の言い分もわからないではない。しかし、名門貴族の保護を受けられると思えば、伶項様の覚えがめでたいことは非常に幸運だったと言える。
 僕達の意見は相変わらず、平行線だった。
「もういい。モデルを始めてくれ」
 充津は飲みかけのお茶のカップを乱暴に置きながら投げ遣りに言った。
 まただ。彼は僕の意見などに耳を貸さない。天才とはこういうものなのだろうか。
 伶項様に拾われなかったら、僕にどうすることが出来たと言うのだろうか。
 ため息が出そうになったが飲み込み、アトリエの隣の部屋で服を着替えた。体の線がより出やすい服を着るのだ。時には上半身だけ脱いだりすることもある。
 大きなキャンパスにはもう描き始めているのに、まだ充津は何度も素描をとる。イメージが固まり切っていないのだろうか。
「充津」
 アトリエに入り声をかけると、充津は振り向かずにペンで窓際を指す。
「今日はその辺りに立ってくれ」
「ああ。……この辺でいい?」
 窓の前に立ち充津の方を向く。すると彼もやっと振り向いた。
「ん……桟に腰かけてみてくれ」
「こうやって?」
「もう少し深く座っていいよ」
 僕が適当に座ると、充津が近くにやって来て、腕の位置を変えた。それから、顎を掴まれて少し上を向くように位置を固定される。
「こんな感じで……辛くはない?」
「大丈夫だ」
 充津自身は元の位置に戻ると、ペンを手に取った。彼が僕を見つめる時間が始まる。
 逆光になって僕の顔などろくに見えないに違いない。だが充津は熱心なのだ。
 アトリエの隅にある埃を被ったキャンパスの山が、僕の目線の先にある。暗い色どりの表面が目に入った。何を描いたものだろうか、物影になっていて良く見えはしない。曇り空を描いたかのように、灰色ばかり使った絵だった。
 それから、使われなくなったのか、放り出されているペーパーナイフ。同様に埃を被って、一番隅の角にある筆。何故あそこに筆があるのだろう。毛先はもうぼろぼろになっていて、使い物にならないことはわかる。捨て忘れたのだろうか。
「ぼんやりしないでくれ」
 不意に充津の叱責が飛んだ。いつのまにか下を向いてしまっていた。
「頼むから、何か真剣に考え事をしてみてくれないか? 君の表情が変わるところが見たい」
「真剣なって……」
 目だけを充津の方へ向けるが、彼の顔は良く見えない。
「例えば……そうだな、閑様のこととか、考えられないか? 今頃、どうしているだろうかと、心配にはならないのか」
「なるさ」
「そうだろう」
 さあ考えろ、と充津は言う。僕が考えたくはない、裏切ってしまった主人のことを。
 あえて目を逸らしてきたことだ……。閑様は一体、どうしていらっしゃるのだろうか。
 僕のことを心配しておいでか。恨んでおいでか。
 優しくしてくださった方を裏切ってしまったのだから、心が痛まないわけがない。僕が伶項様のものになることで閑様を守れると思ったが、はなから伶項様ご自身は僕を手に入れても入れなくても閑様を潰すおつもりだったようだ。
 何が気に入らなかったのかはわからない。もしかすると、閑様が屋敷に多くコレクションされている貴重な絵画を横取りする為に陥れたのかもしれないが……。
 考えるほど、あの方は恐ろしい方だった。
 今はそういう時代だ。誰しもが安全には暮らしていけない。伶項様のように狡猾にならなければ生き残ることが出来ない。


 考え始めると、案外に時間は過ぎて行くもので、日差しの角度が変わり僕の目を射すようになった。眩しさに目を何度も瞬かせるうちに、充津が言う。
「君は、もう……」
「なんだ?」
 充津の声に我に返り、はっと目を見開いたのだが、表情を変えたことを怒ったわけではないようだった。
「いや」
「ん……?」
「なんでもない。休憩しようか」
「ああ」
 体を動かすと、肩や腰がぎしぎしと鳴るようだった。腕を伸ばしながら桟から降りて、隣の部屋へ移動しようとする。
 充津の横を通ろうとしたのは必然だ。そこを通るのが一番扉に近いから。
 だが突然、腕を掴まれて強い力で窓際へとまた押しやられた。
「ちょっと待ってくれ」
「ど、どうしたんだ」
「もう少しいいか」
「いいけど……」
「じゃあ、今度は脱いでくれ」
 僕はシャツの上だけを脱いだ。
「上だけで?」
「いや、下も……」
 下着一枚になれと言うんだろうか。多少の羞恥心がないわけではなかったが、僕だってデッサンの為にヌードモデルを雇うこともあるから諦めて脱いだ。
 また窓際に立つ。
「この辺か?」
「さっきと同じポーズで」
「わかった」
 桟に座り直す。全裸ではないのだが、充津の目が鋭く僕の隅々を見張るものだから、妙な緊張感があった。
 シャッ、シャッ、とペンが走る音がする。
 僕は再び部屋の角に置き忘れられたぼろぼろの筆に目をやった。裸でいるという羞恥心を忘れようとしていたのだ。
 しかし、充津の手は止まりがちで、それが気になった。
「璃月……君はやっぱり」
「どうしたんだ?」
 様子がおかしいので振り向いた。充津は僕を見ていなかった。キャンパスを見つめて、眉間にくっきりと皺を作っている。
「充津?」
「璃月! 君は……!」
 充津は顔を上げると同時に声を荒げた。
「伶項様の夜伽をしたんだな!」
「……っ!」
 胸を刺されたような、言葉だった。
 その行為について全く後ろめたい気持ちがないというわけではないから。
「どうしてだ」
 充津の声は苦しそうだった。もがいているような声だ。なぜ、そんな声を出すのだろうか。
「璃月……どうしてだ。そんなことをしてしまったら、君はもう、僕の」
 充津の握り締めた拳がぶるぶると震えている。拳は血の気を失っていた。
 搾りだされる声。
「もう、僕の、誼湾様ではない……!」
 その言葉を吐き出す充津は苦しそうだった。そう、僕よりも苦しい気持ちを抱えていたのかもしれない。
 だが、その言葉を突き付けられた僕の方もまた、受けた衝撃は計り知れなかった。
「ど、どうして」
「汚れた体で誼湾様にはなりえないだろう。そうさ、君がどんな女と寝たって構いやしないけど、男は駄目だ……。子孫を残さなければならない王族にとっては同性愛は禁忌だからだ」
「そんなもの……」
 そんなもの、黙っていればわかりはしないさ。
 そう言おうとしたが、口に出すことは出来なかった。充津の力量ならば描いてしまうからだ。
 禁忌を犯して肉欲に触れた僕の、猥らな内側をきっと、充津ならば描き出してしまうから。
 一日、僕を見ていただけで見抜いてしまった充津を、恐ろしいと思った。恐らく、僕がお嬢様を抱いた時だって充津は気付いたのだろう。だけど黙っていた。相手が女だったから。
 男は駄目なのか。充津の言う通りだ。王族は同性愛と近親相姦は禁じられていた。正統な血筋を保つ為だ。
 僕は俯いて床を見た。充津をとりなすことは出来ない。わかっている、彼の芸術は真剣だから僕は協力しているんだ。そうでなければ、同じ絵を尊敬する者だったとしても、モデルを引き受けたりはしなかっただろう。
 充津のアトリエに通い続ける日々で、僕達は確かに心も通わせていた。
 誼湾様を敬愛する気持ち、そして絵を愛する気持ち。同じ思いを抱いているから、協力することが出来た。
 僕が悪かったというのだろうか。いや、不運だったとしか思えない。
 伶項様に目をつけられたことで、全てが変わってしまった。
「充津。こんなことを言ったら怒るかも知れないが……すまなかった」
 充津は何も答えなかった。しばし、僕達の間に重い沈黙があり、やがて、
「出て行ってくれ」
 そう告げられて僕は素直に、足元に置いた服を拾いアトリエを出ようとした。
 何もかける言葉はない。次に来る時はいつになるかわからないな、と思いながら、扉を開こうとした。
 しかしまたしても、背後から腕を掴まれて阻まれる。
「わっ」
 強く引かれて振り向くと充津がすぐそばにいて、次の瞬間にはその腕の中に抱き締められていた。
 裸同然の僕に、充津の硬い服が触れる。そして温もりも。
「み、つ……」
 声が出ない。充津は一瞬、僕を強く抱き締めた後、耳の下に口づけてきた。ひくっと肩が震える。そして唇は徐々に下がって来たのだ。
「充津、やめろっ」
「こんなつもりじゃなかった。だが、他の男のものになったのなら、僕が君を犯したところで変わらない……もう僕の理想としていた誼湾様の面影はどこにもないのだから」
「そんな、身勝手なっ」
「ずっとこうしたかったんだ。本当は、ずっと、ずっと……っ」
 僕は蒼白になって充津を止めようとした。しかし、抵抗する腕を掴まれ、後ろに回されて持っていたシャツで縛られてしまう。そのまま勢いで床に押し倒された。
 腕が使えないと抵抗するすべはほとんどなく、体格差もある。上に乗られてしまうとほとんど足も動かせなくなった。
 充津の手は全身を這い回り、伶項様よりもつたない動きで僕を翻弄しようとする。
「やめろっ、充津! やめてくれ、こんなことっ」
 充津が僕を犯したい気持ちと、誼湾様のモデルとして理想の僕を犯してはいけないという気持を持っていたことに、驚きを隠せない。
 僕のことを純粋に絵の素材として欲していたのだと思っていたから。この体を欲しがっていたなんて、思いもよらない。
 充津は無言で僕の、体のあちこちに、舌を這わせ、手でまさぐった。
「充津っ、や、やめ……あ、ああっ」
 中に入られて苦しかったが痛みは少ない。彼は慣れていた。
 そうだ、女性なら誰でも虜に出来そうな美丈夫の画家だ。経験豊富なのだろう。
 彼が慣れているからこそ、僕はろくに抵抗もできずなされるがまなにされてしまう。
「あ、あぁ、充津、ん……う、く、苦し……」
「璃月、っ」
 充津が乱暴に腰を揺すぶった。
 悲鳴が咽喉を通らずに、うめき声に変わる。頭の中がもうすぐ真っ白になりそうだ。
 何をして欲しいのか自分でもわからず、充津の名前を呼び続けた。後で思えば、慈しんでいるかのようだ。
 強く背中を抱き締められて、充津は僕の中に精を吐き出した。同時に僕の性器もこすられて達する。


 勢いに任せた性交。僕は呆然と床に転がっていた。
 気付くと涙が頬で乾いていた。互いに何も言わない。
 充津はしばらく僕の上で荒い息をついていたが、ゆっくりと体を起こして僕の頭の両脇に肘をついて顔をのぞきこんできた。
「もう絵を描けないかも知れない」
 かすれたその言葉に驚愕して目線を上げた。充津の目を見つめると、彼がどうして、絵を描けないと言ったのかわかった気がした。
 僕を見る目は眩しそうで、それでいて愛しげだ。そう、誼湾様の面影はもとから儚いもので、それは今散り去り、僕の面影がきっちりと充津の中に刻み込まれてしまった。
「君が愛しすぎて……」
 充津の台詞はほとんど予想していた通りだ。
「また……レットバルの戦役を見に行けばいい」
「自信がない。もう、誼湾様と君を混同しないという自信がないよ」
「祭典の時に、王宮を抜け出してみろよ。神殿で年に一度だけ公開される絵を見に行くといい。きっと気に入るよ」
「一緒に行こう」
 祭典は2ヵ月後に迫っていた。だが、僕はもう二度とここに来ることはないだろう。だから、守れない約束が口を滑り出る。
「いいよ」
 充津は少し驚いたようだったが嬉しげに微笑んだ。
 もう会わない方がいい。充津の中に刻まれた「璃月」という面影が薄らぐまでは。そうしなければ彼は再び誼湾様の絵を描き出すことが出来ない。
 僕はこれでも楽しみにしていたのだ。充津の絵が完成する時を。


 充津の勧めで湯を使わせてもらい体を綺麗に洗い流した。身なりを整えて立ち去ろうとした僕を、彼は後ろから抱き締めた。
「僕はどうしたらいいんだろう。こんな思いは初めてだ。絵もどうでもいい。君といたい」
「……」
 何と答えてやればいいのだろうか。僕は愛してはいないとか、僕のことなんか忘れろとか、そんな言葉が彼のためになるとは思えない。
 充津は僕の髪に埋めていた顔をふと上げると、向かい合う位置に回ってきた。僕の顎を捉えて持ち上げようとするから、その手をやんわりと除けてやる。
 見上げると口づけられそうだった。それを視線で拒む。
 僕は告げた。
「絵を描こう。それだけが僕達の絆だよ」
 今は、充津の瞳にどんなに惑いがあっても、やがて思い出すだろう。絵を描くことだけが僕達の生きている意味。その証。
 伶項様に服従してでも続けたかったのは、充津と描き始めた絵の為だと、いつか彼も気付くだろう。
 充津の手を振り切って扉を開けた。待たせていた迎えの馬車に乗り込むと、僕は後ろをかえりみなかった。充津の追いすがるような目を見たくなかった。


 屋敷の門を出ると一台の馬車とすれ違った。互いに速度を落としていたので乗っている人物の顔が見える。
 窓越しに目が合ったのは、充津の主人である創理様だった。すれ違った後に突然、創理様の馬車が止まり、御者が飛び降りる。
「お待ちを!」
 叫びながら彼が追ってくるので、僕が乗っている馬車も止まる。「創理様がお話したいと……おいで願えますか」
 外でそう言われ、僕も馬車を降りた。創理様の馬車に近づくと、御者が扉を開けてくれ、乗るように指示される。
 創理様は上流階級の青年達の中でも際立って上品な美貌の御方だった。しかも若くして家を継がれている上に未婚なので、貴族のお嬢様方には最も有名で、そして人気のある方だ。
 僕が乗るまで創理様はこちらを振り向きもしなかったが、向かいに座るとやっと目が合った。
「充津と親しいと聞いている。璃月……という画家だったか」
 創理様の凛とした貴族的な美貌を前にして、少し緊張した。
「はい。僕が璃月です」
「充津の絵を、私は愛している。今度の絵は君がモデルを務めていると聞いたよ」
「はい」
「ありがとう。私からも礼を言おう」
「……は、はい。ありがとうございます」
「絵の完成を楽しみにしているよ」
 そう言って、創理様は馬車の扉を開いた。
「もう行きなさい。帰るのだろう」
「はい」
 扉を開けて頂くなんて、通常はありえないことだ。恐縮して僕は馬車を降りる。
 地面に降り立ち、自分で戸を閉めようと、振り返った時、
「待ちなさい」
 止められて、創理様のお顔を見上げた。相変わらず正面しか見ていない。僕の方を見もしないが。
「伶項様の家付きになったそうだね」
「はい」
「あの方は享楽がお好きだ。流されないように」
「ご忠告ですか」
「いや、気分を害したなら謝る。ただの、私の望みだ」
 不思議な空気を纏った人だ。厳しい顔をしていながら、創理様は芸術家の集会を自分の屋敷で開いてもいいと許可したことを思い出した。意外と理解のある方かも知れない。
「聞いてもいいですか」
 勇気を出して問いかけると、小さな頷きを返される。
「充津は、あなたの肖像画を描いたのですか?」
「いいや」
「どうしてでしょうか」
「私が望まないからだ」
「でも……」
 貴族は代々の当主や、その家族の肖像を残すことが当たり前だ。家名や血筋を何よりも大事にするから。
 僕の言いたいことは、創理様もわかっていらっしゃるようだ。
「望まぬ絵を描かせる為に、風景画家を養っているわけではない。私は今のところこの顔を後世に残す必要性を感じていないが、未来において家族が出来た時、その姿を絵に残したいと考えるかも知れない。その時は人物画を好む画家を雇うつもりだ」
「創理様のお考えは、理解できます。僕のような身分の低い者にはわかる。でも、変わっていらっしゃいますね」
 目線がこちらへ動いた。ふっと口角が持ち上がってわずかに笑みの形を作る。
「私は理解がある、と言ってくれたなら、もう少し角が立たないだろう」
「す、すみません」
「いいや。その口のきき方が、あなたに災いを招かないことを祈る」
 それ以上の無駄口は拒むように、創理様は再び前を向くと、追い払うようなしぐさで手を振った。それを見た御者が、僕の前に割り込んで扉を閉める。
「さあ、もう行って下さい。創理様のお話は済んだようですから」
 主人の話が済めば途端に僕は邪険に扱われる。わかってはいたが、僕は決して身分の高い仕事ではないのだ。
 馬車の小さな窓から見えている創理様の横顔に向けて頭を下げた。僕も踵を返して自分の馬車へと戻る。
 あの方は決して僕を差別していないだろう。権力の誇示もお嫌いな雰囲気は伝わってくる。だけどご自分で気づいてはいらっしゃらないだろうが、傲慢なしぐさや泰然とした態度が、やはり貴族らしいと思う。
 だけど何を差し引いても、充津の絵を愛していらっしゃることが、あの方の何よりの長所だ。


***


 僕はやはり、蘭凉様の絵を描くように命じられた。伶項様にしてみれば、今が盛りの美しい愛娘の姿を残したいという思いが何よりも強いだろう。
 肌が映える青いドレスを纏い、毎日、蘭凉様は僕の前に座る。
「ねえ、璃月、絵を描いている時のあなたの真剣な顔は、とても素敵ね」
 蘭凉様は絵を描いている間はお暇そうで、いつも話しかけてくる。
「お嬢様、あまり、動かないで下さい」
「私に命令するの?」
「申し訳ありません。動かないで頂けますか? 僕からのお願いです」
「よくてよ。じゃあ、あなたも私のお願いを聞いてくださる?」
「内容によりますが……」
 結局、蘭凉様は良く喋り、良く笑い、ころころと表情を変えるので描きにくい。
「そうね、今夜、私の部屋に来て下さる、というのはどう?」
「夜は早くお休みになりませんと、お肌の輝きが違ってしまいます。僕は絵を塗り直さなければいけなくなる」
「そうかしら。少しは遊んだ方が、肌もきれいになるじゃない?」
 あからさまな誘惑の目線に、だが、僕はもう惑わされなかった。
「すみません、夜は伶項様に呼ばれておりますので」
 このお屋敷で、もう二度とお嬢様と過ちを犯すわけにはいかない。伶項様のお怒りに触れたら、僕の人生は無理矢理に終焉を迎えさせられる。
「さあ、日も陰って参りましたし、今日はもう終わりにしましょうか」
 筆を置いてそう告げた。蘭凉様は溜め息をついて、ドレスの裾を持ち上げながら立ち上がる。
「ああ、肩が凝ってしまうわ……」
 言いながら僕の方に近づいて来た。腕を絡められるが、そっとその手を外させる。


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あきゅろす。
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