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短編集
花翳り舞う君に
 音の無い痛みにしびれていく。
 ボクが死に絶える時、そこに誰がいるというのだろうか。

 ***  

 緋の灯り差す街路に立つ彼は、褪せた薄黄の打掛、錆浅葱の帯に、素足という姿だった。
 ここは色町。街頭に男娼が自ら立つことはない。……通常ならば。
「兄さん、どう?」
 そう呼び掛ける声が、予想外に若く、そして声の割には落ち着いた調子だった。
 歩み寄ると面差しが明らかになる。肩にわずかにかかる黒髪は揃わずざんばらであったが艶やかで、肌は驚くほど白い。この街でだけ灯される赤灯籠に、扇情的な顔色をしていた。
 惹かれたのは声だったのか、その美貌だったのか、あるいは、夕闇に紛れるように地味な色を纏い絵の如く佇む彼の風情そのものであったのか、六郎自身にもわかりはしなかった。
 目についたのはその美しさ。何処の店でも、いや、この街中で、一番人気の名を馳せられそうな、見たこともない美貌が、路地裏に隠れるようにして客の袖を引いている様はひどく不自然であった。
「どこの店だ?」
 試しに六郎はそう尋ねた。
「一人だよ」
「君が? どこに行っても売れっ子になるだろうに」
 六郎はかすかな驚きを見せて正直な思いを伝えると、ふと声をひそめた。
「もしかして、病気持ちじゃないだろうね……?」
 失礼なその問いも、だが彼は聞き慣れているのだろう、何のてらいもなく答える。
「病気は持ってないから安心して。アタシは店に向かない質なだけよ……。アタシは緑蘭。兄さんは?」
「……六郎だ」





 掘っ立て小屋のような連れ込み宿に入るなり、緑蘭はそれが当然であるかのように肢体を絡ませてきたが、慣れない六郎はそれを押し止めた。
 尻込みする客を物珍しそうに一瞬見つめると、緑蘭は艶やかな笑みを浮かべやはり一度止められた手を六郎の帯にかける。
「ま、待て……」
うろたえる六郎も力ずくで緑蘭の手を止めたりはしない。やはり帯を解かれ、前をくつろげられたその先の行為に対する期待が大きいからだ。
「店とは違う。酒を酌み交わして睦言の語り合いなんて、アタシ達のような街娼には必要ないの。アタシ達は夢を売ってるわけじゃない、色を売ってるんだから」
「そうなのか」
「あんた、色街遊びには慣れてないの?」
六郎の下着の隙間に緑蘭は手を差し込んだ。きわどい箇所を撫でられ、それだけで身体は熱く高まった。
「そうだな……そんなに、慣れると云う程、来ては……」
 緑蘭の手がとうとう六郎の肉の棒を露にした。昂ぶっているそれに舌を這わせ、口に含む。
 熱い口腔の愛撫でもう言葉を交わす余裕はなく、六郎は緑蘭の官能的に揺れる髪に肌をくすぐられるままに任せた。








 二度目に会った時は六郎は自ら色街の脇道を覗き緑蘭を探していた。
緑蘭は年は15と、もうすぐ男娼としてとうが立つ頃であったが、彼の身体の線は細く柔らかで、しなやかに締まり、体毛も薄い。滅多にない美貌であるし、店についていれば固定の客に愛顧され、成人するまで続けていられることは間違いない。六郎は彼の将来を心配していた。
「なぜ店に入らないんだ?」
 初めて会った時に言っていた、店に向かない質、という言葉の詳しいところを尋ねてみる。
「アタシは必ず問題を起こしちゃうから。いくつかの店を転々として、もう雇ってくれる所もないし、一人でいいかなぁって諦めた」
「なぜそのような? そんなに、おまえに無体する客がいるのか?」
「そういうわけじゃなくて……」
 うーん、と可愛らしく首を捻りながら、緑蘭は唸ってみせた。何という云い方をすれば六郎を納得させることができるか、ほんのわずか考えて口を開く。
「忘れられない人がいる」
その答えに六郎は目をみはった。その反応が緑蘭にとっても予想外で、小さく笑うと、
「そういう人がいちゃ駄目?」
「そういうわけでは……」
 春を売る者が、一途な恋をしているとは、全く思いもつかなかった六郎だった。
「女朗の悲恋など、作り話ばかりだと」
「アタシ達は、自分を諦めたわけじゃない。いえ、諦めたつもりでいても、恋はしてしまう……」
 そう言いながら、視線を外し横顔を見せた緑蘭は澄んだ悲しみの空気を纏い、初めて見せる誠の感情ある人間らしい顔をしていた。
 初めて六郎は、緑蘭という、15歳の少年そのものを感じた。
「相手は、どのような人なのだ? 客で来ていた者か」
「……前の街で世話になった店の主人」
「主人? おまえを買い取った者ではないのか?」
 何らかの理由で売られた少年が厳しい娼館の掟に縛られ働かされ、その主人を恨みこそすれ慕うことがあるとは。
「アタシ達の憧れだったよ。一番楽しかった頃。きっと……」
 緑蘭は微笑んだ。六郎ははかなさというものを目の当たりにした。
「あのお店にいた子達、みんな、あの頃が一番幸せだったはず」
 たった15の少年が語るにはあまりに奢った言い方ではあったが、彼は深い色をたたえた目をしていた。六郎には、男娼の世界はわからない。だが、恐らく……幸せだと言える人生を送ることは稀だろうと思われた。
 この頃、春を売る者は事情があって売られた者。色街そのものが、文化と呼ばれるのはまだ後世のことである。
 彼は、六郎の知らない辛い人生を送ってきたろう。だからと言って……。
 六郎は目を逸らしたままの緑蘭の顔を見続けることができず、ぎこちなく顔を俯けた。
 だからと言って、15の少年がこのような笑みを浮かべる姿は、いっそ悲痛だ。そのはかなさをただ美しいと感じるには、六郎は幸せに生きてきすぎたのかも知れなかった。






「家に来ないか」
 告げたのは何度目の逢瀬の時であったか。
 緑蘭は意味がわからない、と云うように六郎の顔を見つめた。
「行く所はないと言っていたな。うちで住み込みで働かないか。下働きだが、野ざらしになって夜を過ごすよりいい」
「……」
 緑蘭は黙って目を伏せた。
 そのまま、ついと寄り添って六郎の胸にもたれてきたから、てっきり返事は肯定だと思ったのだが。
「いいよ、そんな面倒、見てもらわなくたって」
 甘えたしぐさと裏腹に、突っぱねる言葉。
「なぜだ? この仕事を、いつまでも続けていたいというわけじゃないんだろう」
「いいの……」
緑蘭はわずかに笑みを浮かべて六郎を見上げた。細めた瞳と薄く開いた唇が、いつのまにか潤んでいる。
「アタシはこの仕事しか出来ないんだ。前にね、奇跡的にアタシを雇ってくれる商家があったんだけど……そこの旦那と大旦那とが、アタシを取り合って大騒動になった。アタシ、どっちとも寝ていたからね。しがない下働きよ、家の主人に誘われたら断れないじゃない?」
 そしてぽつりと、言い加える。
「アタシは悪くない」
 六郎はふと胸が痛むのを感じた。
 ここのところ、何かと云うと六郎が、緑蘭の仕事や生活態度について説教するようになったので、あのような一言を言い添えたのだろう。現に、なぜ主人と寝たんだ、という言葉を言い出そうとしていただけに、六郎は開きかけた口を閉じざるを得ない。
 緑蘭の人生を否定するような言動ばかりで、自分はうっとうしい客だったかも知れない。
 そう気付くと途端に、緑蘭に見限られたくないという衝動が沸き起こってきた。
「す、すまない。それならば、私の……養子にならないか。それならば、ずっと守ってやれるぞ」
「え……」
 緑蘭は一瞬、目を真ん丸にして六郎を見た。そして次に吹き出す。
「あっははは……あんた、自分の息子と寝るつもり!?」
「あ……そうか」
 養子にしてしまえば、情交は道に外れた行いになる。今まで抱いてきた体を、養子になったからと言って触れずにいられる自信すら、六郎自身になかった。
「アタシは今のままでいいよ」
 言いながら緑蘭は先程着たばかりの六郎の着物をまた脱がそうとしていた。その手に翻弄されるまま、六郎もその話を一旦は留め置いたのだが。







 六郎が色街へ出向く時、緑蘭はいつも客引きをしているわけではなく、買われている最中であることもある。
 いつも川辺の連れ込み宿を使っているようで、六郎がそこで別の部屋をとり待っていると、宿の主人が仕事を終えた緑蘭を連れてくるようになった。払いのいい六郎は、宿にとっても滅多にない上客に違いない。この宿では六郎は自分以外にまっとうそうな人間を見かけたことがない。
 しかし同じ宿で待てるというのも考えもので、ここでは近隣の部屋の声が筒抜けなのだ。
 六郎は他の客に抱かれる緑蘭の喘ぎ声、媚びる声を聞きながら、初めのうちこそこれが彼の仕事だからと自分に言い聞かせていたものの、だんだん我慢ならなくなってきた。
 また宿を出る時に、たびたび見かけるこの宿の常連客から、「旦那、今日もお盛んでしたね」などと下卑た声をかけられることも、その者が緑蘭のあの時の声を聞きながら想像を働かせていることも、六郎には耐え難い。
 今日こそは、もっと街中のまともな宿をとり、情事の一時ではなく、今夜一晩を買おうと、六郎は酒を舐めつつ待っていた。
 部屋が近いのか、六郎の静まり返った部屋に緑蘭のかすかな喘ぎ声が響いてくる。
 隣の女の大きな声も、また別の部屋の男の怒鳴り声も、一切耳に入らず、緑蘭のかすかな官能の声だけがとびこんでくる。
 じりじりと腹に沸き起こる感覚に耐えながら、六郎はじっとその声に聞き入った。
 やがて声がやみ、かすかな話し声となる。他の客とはことが終われば終わりのはずだから、もうすぐ来るであろうと六郎は構えていた。最初に笑顔で迎えてやれるように。
しかし何やらぼそぼそという話し声はいつまでも止まない。詳細までは聞こえないから余計に苛立ってくる。
 かちゃかちゃと酒器が鳴るほど六郎はせわしない。
「待って!」
 不意に甲高い緑蘭の声が響いた。どうやら廊下までは出てきたようであるが、立て込んでいるらしい。あのように切羽詰まった声を聞くのは初めてだった。
「待ってよ、ねぇ。ボクを捨てないでっ。また会ってくれるでしょう? もう会わないって、どういうことっ!」
 泣き叫び誰かを引き止める様子に、六郎の心臓はきりっと捻られたように痛んだ。
 馴染みの客ごときに見限られてあのように泣くはずがない。相手は情人だろうか。
 商売用の声音ではない、素の声だった。六郎には聞かせたこともない声だ。
 男の声は聞こえなかった。無言で緑蘭を振り切り出て行こうとしているようだ。
「ねぇ、また来てくれるでしょう? ボク、待ってるから。待ってるよ。ねぇっ! お願い!」
 涙の気配がにじんだ声が、足音と共に遠ざかって行った。
 その日、六郎は緑蘭に会えなかった。その宿で待ち続けても彼は現れず、色街へ引き返し捜したが、見つからなかったのである。







 忘れられない人は、前の街の色宿の主人だと言っていた。それならば、昨夜の宿での取り乱しようは何だったのか。……この街で恋人が出来たということだろう。そして別れたのか。
六郎は翌日も緑蘭を捜して歩いた。
 あれほど取り乱していたのだから、仕事はしばらく休むかも知れないが、そう予感しながらも、慰めの言葉を考えつつ路地裏まで捜し歩いた。客をとらない夜はどこで寝起きしているのか、六郎は全く知らなかった。
 会ったら、今度こそは家へ引っ張って行き、住み込ませよう。そう決意を固めていた。
 だが色街では見つからず、いつもの連れ込み宿へと足を向ける。そこはいつも人気が少なく陰気な場所であったが、なぜか今、人だかりが出来ていた。
 良くない感じがして六郎は急ぎ人を分けて進む。
 宿の真ん前、地面にむしろが置いてあった。ワラで編んだ敷物のことだが、それは何かの上に乗せられてかすかに盛り上がっていた。
 男が一人、傍らにしゃがみこんでいるがそれには構わず、六郎はむしろの端を掴むと制止の声を無視して半分めくりあげた。
「……りょ……」
投げ出された手も足も白く、緑蘭は人形のように美しかった。その顔には何の表情もない。伏せられたまぶたと、ほんのわずか開いた唇。
 腹部を中心に着物は大量の血を吸っていた。
 六郎に気付いたすっかり顔馴染みの宿の主人が傍へ寄ってくる。
「宿の裏で半分川の中に倒れてたんです。見つけた時には、つ、冷たくなってまして」
 緑蘭の傍にいた男は六郎を頭の先から爪先まで、ためつすがめつ鋭い目で見て言った。
「あなたは……片桐先生じゃないですか」
「そうですが」
 初めて六郎は男を見る。男は見るからに鋭い目線の、当局の人間であった。
「良かった、自殺か他殺かわかりませんのでね、先生にお願いすると思いますよ」
「自殺?」
「旦那」
 口をはさんだのは宿の主人だった。
「緑蘭には南形っていう男がいましてね、昨日、袖にされて荒れてたんですよ。そいつと外に出たっきり戻らなかったから、緑蘭があんまりしつこいんでこの裏で南形が殺したのかも知れねぇとこっちの旦那にもお話したんです」
 見ると、緑蘭は穏やかな顔をしている。この傷ならば失血死だろうから、さほど苦しみはしなかったのかも知れない。
六郎は緑蘭の髪をかきあげた。顔は美しいままだった。
 褪せた浅黄の打掛に、錆浅葱の帯。
 遠くでは色街の三味線が響いていた。
 六郎は彼に自分の想いを告げたことがないことに気付いた。








 翌々日、川の下流に同じように腹部を刺された南形の遺体が流れ着き、当局では心中と結論づけた。身寄りのない彼らのことを、そう長く綿密に捜査しないのである。
 二人は心中だったのか。
 それとも緑蘭が自分を捨てる男を刺し、その後自らを刺したのか。
 あるいは男が疎ましがって緑蘭を刺し、瀕死の彼に反撃されたのか。
 緑蘭を知る色街の者はしばしそのように憶測を立て楽しんだが、すぐにその事件も忘れられていった。
 六郎は二度と緋の灯りの街には立ち入らなかった。一度たりとも自分をひとりの男として見ることがなかった少年への恋ゆえに。
 それでも響き聞こえる絶え間ない菅掻が彼の哀しみを誘った。







 終


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