短編集 紫陽花夜話 1 彼は戻って来たとき、15歳だった。 小さな田舎の村だから、都心へ行った人が戻って来るということも珍しく、椎名平(シイナ タイラ)が帰って来たその理由は、深夜、椎名さんの家の電話が鳴り響いた翌日には村中に広まっていた。 僕がちょうど町の高校の教師として赴任した年だったこともあってよく覚えている。 梅雨の時期だった。 椎名平のお父さんが事故で亡くなり、お母さんとこっちへ帰ってきたのだ。離婚も珍しくない昨今でも、この田舎では両親がそろっていない子は珍しかった。 会社の関係の方々の弔問もあるから葬式は都心の方の家で済ませたものの、お骨は実家の墓にもちろん入れるし、他に身寄りもないので母子は四十九日も終えないうちに実家に帰ってきたのだった。どうして葬式もこっちであげなかったんだと、お母さんがお姑さんに叱られたらしいという噂もあった。 この村はお父さんの実家だった。お母さんはお見合い結婚で遠い県から来た人だ。それでも自分の家の方を頼らず父方の実家に帰ってきたのは、一人息子の平が小学校2年生までこちらで暮らしていたからだろう。 平は8年ぶりに帰ってきたのだった。 僕が久しぶりに平と顔を合わせたのは、お父さんのお仏壇に線香をあげさせて頂いた時だ。 村近くの町に高校教師として赴任したとは言え、僕の実家はこの村で、椎名さんのことも産まれた時から知っていた。 近所の方々が訪れるのに交じってお邪魔した僕は、帰り際に庭先で木の下にぼぅっと立っている少年を見つけた。垣根の付近には盛りの紫陽花が咲き誇っていて、見るともなしに美しい青や紫の調和を見せるその花を見つめているように僕の目には映った。 彼がこの村を去ったのは小学校2年生の時だ。一瞬では彼が平だと気づかなかったものの、この付近には彼くらいの年の子は数人しかおらず僕は全員の顔を覚えていて彼だけ見知らなかったことと、数年経っても変わらない真っすぐな瞳に残るあどけなさが、僕に彼こそが平だと伝えていた。 ただその目は泣いたように赤く、東京の学校の制服らしい白い半袖のワイシャツと黒いスラックス姿の彼を見慣れないので僕の中には他人行儀な気分が生まれてしまい、幼い頃のように気軽に声をかけることはためらわれた。しかし。 軽く会釈をして僕が立ち去ろうと足を上げるために腰に力を入れた時、彼の口が開きうつろな声が洩れる。 「あき…にい…」 あきにいの「にい」は「兄」だ。 彼とは幼馴染みとも言える仲で、昔は「あき兄」と呼ばれていた。この付近の子供達のガキ大将のような存在だった僕を皆があき兄と呼んでいたからだ。 「あき兄…」 今度はかすれた声ではなくはっきりとした発音で平が呼んだ。 「久しぶりだね」 僕はなんとか、父親を失って繊細になっている彼の心には障らないよう微笑みを浮かべて柔らかく答えた。 今でこそ教師だから生徒全員を「○○くん」などと呼んではいるが、いざ本人を前にすると彼が以前のように呼んでくれることに対し僕が「くん付け」で他人行儀では、心証を悪くするかも知れないと思い当たる。 かつてのようななれなれしさ、図々しさが出ない程度の親しみで僕は呼ぶ。 「平、大変だったね」 そう言うと、彼はしばらく黙った後、やはり口は開かず首だけを左右に振った 。 想像していたよりも幾分育った肩幅と太い首ではあったが、そのしぐさはまだ子供っぽさを感じさせる。 見た目が違っても、おどおどと僕の後をついて来ていた平の片鱗が見えたようで不謹慎ながら嬉しく思った。 平は僕にとりたてて何かを言いたくて呼び止めたわけではないだろう。懐かしくて声をかけてしまった、というところだ。 僕も今の平にかけてやれる言葉もなかったから、しばしの沈黙の後、その場を辞させてもらおうと口を開きかけた。 しかしやはり僕が何かを言う前に平が言葉を発する。 「あき兄、町の高校の先生になったって聞いた。俺、今度その高校に転入するから……」 「あ、ああ。そうなのか」 確かにここから東京の高校に通えなくもないだろうが、軽く2時間以上はかかる。平がこちらの高校に転入するのも予想できたことだったのに、僕は面食らってどもってしまった。 しかし幼馴染みが僕の教え子になるということは嬉しくもある。 僕はまだ一年目でクラスを受け持ってはいないが、一年の日本史の担当だ。15歳の平は僕の教えるクラスになるだろう。 「僕は日本史の担当だよ。よろしくな」 そう言うと平はふっと微笑んだ。 「あき兄が、僕、だって」 「笑うなよ」 そうして二人してわずかではあったが笑みを交わした。 なんとか、昔のような雰囲気を取り戻せただろうか、と僕はその時思っていた。 僕は子供の頃のある約束ごとを思い出し、最近そのことが頭から離れない。そのせいか、何もない時でもさりげなく椎名さんの家を訪ね、母子の様子に気を配るようにしていた。 平がまだ小学校にあがる前のことだろうか、その頃近所ではやんちゃで知られていた僕だった。 人の後ろにいつも隠れているようなおとなしい子供だった平はよく、小学生低学年の少年達に遊ばれていた。それは好意というものではない。からかわれていたのだ。 ある日、ちょっと冗談では済まされないことをされているところに、僕が通りかかった。 夕方だった。小学校の校庭で同級生達とさんざん遊んだ帰り道で辺りは暗くなり始め母の怒りを恐れた僕は近道として神社を通ることにした。 古い神社で神主さんも不在、雨風にさらされて黒ずんだ木造の建物はいつも恐ろしい雰囲気だったが僕は気にしていなかった。 大人には建物が老朽していて危ないから近寄るんじゃないと言われていたが境内でよく仲間達と遊んでもいた。 その日も何も感じることなく通ったのだが、建物の中から声が聞こえて立ち止まった。恐れることもなく僕はお社に近づき、観音開きの扉が閉じてがっちりと針金で固定されている向こうに、小さい子がいることに気づいた。扉を止めている針金は真新しい物で、いつもの見覚えのある古い南京鍵はどこにもなかった。 「助けて…うっ、う…」 と子供が泣いているものだから、慌てて何重にも巻かれた針金を外し始めた。すぐ近くでそうやって作業をしてやっているというのに子供の泣き声はおさまらず、うるさくて早く泣き止ませたい一心で僕もせっせと針金を外し続ける。 やっと開いた扉から、すごく小さな5歳くらいの子が飛び出して来た。 「うわぁーん!!」 助けられてほっとしたのか子供は先程よりも大きな声で泣き出した。 お社の中を見れば当時の僕よりも大きな白い狐の石像があって、その細い目つきに僕でさえぞっとしたくらいだ。そんな物の近くにずっといたこの子は、それはそれは怖かったのだろう、と目の前でしゃがんで泣いている子の頭にそっと手 を乗せて撫でてやった。 夕暮れで辺りは決して明るいとは言い難かったが、真っ暗なお社から出てきて顔を確認し、僕はその子が平だということに気づいた。 「平、閉じ込められたのか? 誰にやられたんだ?」 「うっ…あの、あのね」 泣き声もだいぶおさまり、ひっくひっくとしゃくりあげながら平が答える。 「しんたと、じゅんすけと……」 しっかり相手の名前を覚えていて、平は4人の小学生の名をあげた。いずれもよく知っている。 「あいつら……ひどいじゃないか」 自分では弱い者いじめなんてしたことがないと思っていた僕は憤慨した。いや、もちろん今でも弱い者いじめをした記憶なんてないが、もしかしたら無意識に、客観的に見れば「弱い者いじめ」と言えるような行為をしていたかも知れない。 数分から十数分して平はなんとか泣きやみ、帰りたいと言い出した。 「うん、帰ろう」 僕もはたと母の顔を思い出し、慌てて平の手を引っ張って立たせた。 こんな時間までどこで遊んでいたんだと怒られるのは必至なくらい周囲はもう暗い。 帰り道、僕は平の手をしっかり握っていた。 「平、大丈夫だよ、俺が何があっても守ってやるからな」 思い出しては泣きべそをかいている平に僕は何度も言い聞かせた。 守ってやる、なんて今思えばなんという思い上がった言葉か。父を失って傷心の少年には何もしてやれないというのに。 その後、平を送って家へ帰れば母は予想通りに僕を叱り、後日、その日に平と一緒にいたことを平の母から聞いてまた僕を折檻した。よその年下の子をそんな時間まで連れ回すなんてどういうことだ、と厳しく怒られた。 あの古い神社には近寄らないよう言われていたので、平を助けたからなどと言 い訳してみればまた、なんで行くなと言ったのに神社に近づいたんだと叱り飛ばされることは目に見えていたので黙っていた。それにいじめられて泣いていたなんて話しては、平の男の誇りに関わると思っていたのだ。 平も自分の家族にそんなふうにいじめられたことは話さなかった……。 僕は平が帰ってくるまで、ころりと忘れていたこの思い出を先日ふと思い出した。それ以降、頭から離れない。 「平、大丈夫だよ、俺が何があっても守ってやるからな」 その言葉がやけに僕を促す。平の所へ行ってやれ、と。 椎名さんの家は僕の家からすぐ近い所にある。 平のお母さんは東北から嫁いできた人で色白の美人だったと記憶していたけれども、こちらに戻って来て以来はやつれが目立って覇気がなくなってしまった。 この田舎の空気に触れていれば、すぐに元気になるよと周囲の人は言う。 ここら辺りの人は別段、都会に憧れてはいなかった。 僕も東京の方の学校を卒業したけれど実家に帰ってきたくらいだ。 忘れられないのは何故だろう……。 期末テストも近い頃、出席日数の関係もあるから平はすぐに僕の高校に転入して来た。 村の中学生がほぼ全員進学するその高校では(村には小・中学校はあるけれど、高校はない)、生徒の半数は村の出身、また半数は町の出身だったから、ほとんどの生徒が平のことを知っていることになる。 とは言え、彼が転校したのは小学校2年生で、特別目立つ子供でもなかったどころか、おとなしくて影の薄い存在だったから覚えている子も少ないだろうと僕は勝手に思っていた。 「あき先生」 僕が中学生くらいの頃から顔見知りの生徒達は、僕をあき先生と呼ぶ。それに倣うようにほとんどの生徒が僕のことをあき先生と呼んでくれるようになった。 職員室にプリントを届けに来た生徒と、それに連れ添っていた2人の生徒が用を果たしたというのに立ち去る気配もなく話しかけてくる。 早速提出された課題プリントのチェックを始めようとしていた僕は味気ない灰色の藁ばんしから顔をあげた。 「ねえ、椎名、俺のクラスに転入して来たよ」 「あき先生、椎名のこと覚えてる?」 「あいつでっかくなったよな。あんなにおとなしくて小さかったのにさ」 どうやら僕が思うほど、皆は薄情ではなかったらしい。むしろわんぱく小僧ばかりの小学校では、おとなしい子の方が目立って記憶されていたのだろうか。 「あいつん家、父さんが死んじゃったんだって」 「亡くなった、と言いなさい」 乱暴な物言いをする生徒に僕は苦笑して注意した。 「交通事故らしいよ。僕もお線香をあげに行ったんだ…」 「先生、あいつん家行ったの? 家庭訪問?」 「いや僕は担任じゃないから家庭訪問は…」 やらないよ、と言いたかったのに、 「家近いんだったら先生が行けばいいのにな」 「なー」 と勝手なことを言われてしまう。 隣で聞いていたらしい、同じ歴史の真下先生が笑った。 「お前ら、永鷺先生のことを昔から知っているのはわかるが、ちゃんと敬語を使 いなさい」 そう言いながら生徒には気づかれないように僕を睨んでくる。そういうことは妥協せず注意しないと癖になる、というのは僕もわかっているのだが、なにぶん慣れ親しんだ同じ小学校の先輩・後輩の仲なもので、敬語を使いなさいと言うのもおかしい気がして言いづらいのだ。 「はい、真下先生」 3人の生徒はこっくりとうなずいて、ばたばたと職員室から走り出して行った。僕と真下先生の間の気まずい空気に気づいてのことかも知れない。 「校舎内を走るなと言っておいて下さいね、永鷺先生」 「はい、すみません」 「先生はまだ若いですが、もう教師という立場になったんだから。わかりますね?」 「はい」 僕は神妙な顔をしてみせ、うなずいた。 学校からの帰り道、日も沈んで暗い歩道を僕は一人で歩いていた。慣れた道、どんなに暗くとも何も戸惑うことはない。 ただやはり暗いので、道端にうずくまっていう人影があることには、真横を歩きかかるまで気づかなかった。 この山中は町よりもずっと湿度が低く、日が沈んでからはいっそう涼しくなる。夜道を歩くのは快適だった。 家では夕飯の支度をして母が待っていることもわかっていたのだが足取りは早まることはなく、景色もろくに見えないような道を僕はゆったりと歩いていた。 いささかぼんやりしていたかも知れない。 道端に何やら見慣れない影があったのだが特に気にも止めずその横を歩き去り、数歩進んでからそれが人間のようにも見えることに気づいた。 まさかと思い振り返り凝視する。目をすがめて見てもよく見えないので近づいてみた。 「……どうした?」 なぜ気づかなかったのか、夜目には浮き立って見えるような白いシャツを着ている。すぐに人間だとわかった。体格的に見ても、中学生か高校生だろう……。 「どうしたんだ?」 真横にしゃがんで肩に手を触れると、彼はそぅっと首をまわしこちらを見た。 「あきに……先生」 あき兄と言いかけてぎこちなく先生と言い直す。その声の主が誰だかすぐに思い当たり僕は驚いた。 「平? どうした、帰らないのか?」 「あ…帰るよ。向こうの山に沈む太陽を見てたんだ」 「ああ……」 確かについさっきまでは、平が向いている方の山の影に太陽の明かりがわずかにのぞいていた。それも今はもう、ない。 完全に隠れてしまった。 「太陽が沈むとこが綺麗で、懐かしくて。こんなに綺麗だったんだなー、って。前はそんなこと全然思わなかったのに、なんか不思議だ」 「そうか。綺麗な景色だよな」 平はゆっくりと立ち上がった。ずっとしゃがんでいて足に力が入らないのだろう、膝に手をあててゆっくりと体を持ち上げて行く。膝がわずかに震えているのに気づいて僕は笑みをもらした。 「何笑ってるんだよ」 「いつからこんな所に座ってたんだ?」 「学校終わってから、ずっと」 軽く2時間くらい前からのようだ。 「ずっと太陽を見てたのか?」 「最初は、ただぼーっとしてただけ」 「そうか」 父を亡くして、意気消沈しているのだ。道端でぼーっと座り込んでいたい気分になることもあるだろう。僕は深く追及しなかった。 だが、立ち上がった平が腹部に掌を当ててため息をついたことだけは気になっていた。 一緒に帰る道、僕と平が別れなければいけない曲がり道で、僕は平と一緒に曲がった。 「え?」 怪訝そうに平が僕を見た。 「家まで送るよ」 「う、うん」 驚いてはいるが嫌ではなさそうで良かった。 「学校には慣れそう?」 「うん。皆、知ってる人だから」 「東京の学校とどう違う?」 「みんな勉強してない」 僕は笑い出してしまった。 「東京の学校は、みんな勉強してたか? 休み時間?」 「テスト前は。それ以外の時は休み時間は遊んでるけど。でも期末テストが近いのに、みんな全然気にしてないから気が楽」 「うん」 一生懸命に勉強をしなくても、ここら辺りの子供は農家を継ぐ子が多いので教師も何も言わない。そういう風土なのだ。平は忘れてしまったのだろうか。 話をしているうちに家に着いた。平がどこか遠慮するようにそっと引き戸を開けるのは、やはり引っ越して以来、夏休みにも帰って来なかった家にもう一度住むことになったので気まずいものがあるのだと思う。 がらがらと木戸を開ける音を聞きつけたのか、奥から誰かの走ってくる音がする。 誰だろうか、彼の祖父か祖母か母しかいないはずだが……と、待っているうちに、玄関口に女性が現れた。平の少し後ろにいた僕にもはっきり見えた。 女性が駆け寄って来ると、僕は挨拶をしようかと一歩前に出る。けれどその瞬間に彼女が手を振り上げたのを見て、僕はその場から動けなくなってしまった。 ぱぁん、という乾いた音が響いて、女性は手を下ろし、平は顔を横に向けていた。 彼女は、平の母親だった。その彼女に、なぜ殴られるのか僕は戸惑い、また、こんなふうにのこのことついて来てしまって平が見られたくはなかったであろう家庭の様子を見てしまったことにひどく後悔をしていた。 無言で平を殴った彼女はふと顔を上げ、暗闇の中、わずかに玄関からの明かりが届く位置に僕の姿を見止め、あきらかに表情を強ばらせた。 「あなたは…」 仕方なく僕は一歩進み出て完全に彼女からも顔が見える所まで来た。 「お久しぶりです、永鷺です。旦那さんのお仏壇にも、先日……」 「あ……ああ、覚えています。永鷺さんね。先生になられたんですってね」 「はい。今日は久しぶりに平くんと話をしていて、遅くなってしまって…申し訳ありません」 平のお母さんは、帰りが遅いことを心配して殴ったのだろう。普通なら、その理由しか考えつかない。 だから僕は平を庇うつもりでそう言った。 「いいんですよ」 お母さんは僕には微妙に笑みを浮かべてそう言ったのだが、平に向き直ると強くその肩を押し、 「早く帰って来なさいって言ったのに、何やってるの、あんたは! ほら、早く家ん中はいりなさい!」 あまりにもきつい語調でそう言った。 僕には八つ当たりにしか見えない。だから思わずさらに一歩踏み出して口をはさんでしまう。 「あの、あまり怒らないで下さい。平くんは…」 「あなたには関係ないでしょう!」 僕までぎっと睨まれ、そう怒鳴られてしまった。 何の騒ぎかと玄関におばあさんがやって来たのが見える。 「平、おかえり」 [次へ#] [戻る] |