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短編集
花料夜話 2
 複雑な思いで、僕は顔を上げることが出来なかった。カップを持ち上げ、茶に口をつける。極力、緩慢な動作で時間を稼ぎながら、何と言おうか、あるいは何も言わずにいるべきか、考えた。
「何を描こうとしているのか、聞いてもいいか?」
 閑様の言葉に、どっと冷や汗が出た。一瞬の間を置き、答えに窮していては不審に思われてしまう為、慌てて考える。
「空蘭様、を……絵にしようと、思っております」
 僕の声は上ずっていたかも知れないが、そう答えた。
 この時代、誼湾様の母が身分の低い女性だったことから、血筋の問題が出た。空蘭様は由緒正しい王家の血を汲む方だ。誼湾様のお名前を出すよりも角が立たないのではと思った。
 閑様は僕の答えには驚かれたようだ。
「空蘭様を?」
「はい」
「そうか。それは……良い」
 閑様のご機嫌を損ねることはなかったようだ。
「そうか、意外だったが、素晴らしいことだ。空蘭様は穏やかな王だったと聞くな。君の描いた理の奥方の絵は聖母の如きだった。君の空蘭様を期待しているよ」
「ありがとうございます」
「うん、楽しみだ」
 この朝のやり取りによってひらめいたことがある。誼湾様を描くのに、空蘭様の御姿もお側に描こう、ということだった。 


 高い志があるわけでもない僕の人物画が評価されるのは、優しい両親と弟妹達と触れ合って育ってきたからに他ならないと思っている。人の優しさを知っているから描けるのだと思う。
 だが主人を得てからは家族に会いに行くことは出来なかった。
 里に帰るということは、今の生活に不満があるという意味に捉えられるからだ。主人の不興を買うことになる。
 仕送りはしているし、手紙は年に何度かやり取りをしているが、僕はもう7年以上、家族に会っていない。
 幼い頃、父親の肩に乗って、神殿の絵を見た。
 空蘭様と誼湾様の間にも、そのような親子の触れ合いがあったのではないか。
 王族のしきたりは知らない。子供の世話は、優秀な教師が数人がかりで見るという話は聞いている。それでも、一度もその手に抱いたことがないわけではあるまい。
 ならば、僕の誼湾様は……。

 ***

 こんにちは、と鈴の鳴るような声に呼ばれて驚き、思考が停止した。振り返ると透き通るほど白い肌が目の前にあり、その豊満な体は僕の雄の性を圧倒するかのようだった。
 驚いた顔で振り向いた僕に、彼女も驚いて目をぱちくりと見開いていた。何と、愛らしい表情だろうか。
 伶項様の愛娘、藍凉(らんりょう)様だ。
 彼女が熱を上げていたヴィオラ弾きは、何をして不興を買ったか知らないが十日ほど前に追放されたらしい。主人の寝床でアソコを噛みやがったんじゃないか、と下品なことを言っていたのは無論、悪友の説だ。
 藍凉様は貴族のお嬢様と言えど、身分の低い者にも対等に接してくれる。気さくなお方と言うわけではない。頭が少し足りないのだ。だから、相変わらず今日も、胸がこぼれ出そうなほどに胸元が開いたドレスを着て、僕のような男に話しかける。
「お嬢様からお声をかけて頂けるとは光栄です」
 やっと笑みを浮かべて、僕は大仰に頭を下げてみせた。
 話をするのは初めてだ。伶項様のサロンに初めて来た時に理様から紹介されたのだったが、藍凉様から声をかけられることはなかった。
 彼女は知らない。僕や説はまだいいほうで、サロンに来る男の中には彼女を性処理の道具としか見ていない輩もいるということを。憧れのお嬢様、というわけではない。例えば裸婦画に下衆な欲望を抱くように、彼女のさらけ出された若い肌には欲情する。恋ではない、ただの劣情だ。
 説は言った。「君は彼女の気に入りそうな容貌だから、草むらに引っ張りこんでやってしまえば喜ぶぞ」と。
 彼女の気に入りそうな顔と言えど、このサロンに出入りするようになって2年、お声がかかったのは初めてのことだ。
「確か、璃月……でしたわね?」
 甘える声音。媚びるような目が見上げてきた。
「はい。僕は閑様の画家です」
「そうでしたね」
 優雅な動作で彼女は扇を開いては閉じる。そのたびにひらめく指先さえも、男を誘っているようだ。
 花の盛りの女性がこんなにも恐ろしいとは、僕は今まで知らなかった。僕も男という生き物なのだと、思い知らされる。彼女の吐息すらも甘いと感じる。
 彼女はわかっていて、故意的に僕を誘っているのだろうか。それとも、本当にこの色香が天然のものなのだというのだろうか。
「私の家には絵描きはいませんの。先日、演奏家もいなくなってしまいましたわ」
「伶項様のヴィオラ弾きは、すばらしい技術で有名でしたね」
「ええ、本当にすばらしい方でしたよ。でも、事故で利き手の指を駄目にしてしまって」
「へえ、彼の指を失うとは、もったいないことです。事故とは?」
「ええ……」
 彼女はまぶたを閉ざした。長い睫毛が、ふっくらとした頬に触れそうだった。
「お父様が誤って、花瓶を落としてしまわれたの」
 僕の背中には寒気が走った。
 誤って花瓶など落とすものか。故意に違いない。
 そうやってあの華奢な少年は手を潰され、捨てられたのだ。
 同情はするが、それが僕の身にも降りかかりかねないことだからこそ恐ろしい。
 口ごもる僕に藍凉様は笑顔になって言う。
「今度は絵描きも素敵ですわね」
「あ、ええ……そうですね」
 もうあの少年のことなど忘れたかのような彼女に驚いて、思わず声を途切れさせてしまった。動揺を見せては機嫌を損ねると思い、慌てて付け加える。
「お嬢様のお美しさを絵に表わせる画家がいれば、ですね」
「まぁ、あなたが描いてはくださらないの?」
 小首をかしげる藍凉様。
 明らかに僕は誘われているようだった……。
「僕の腕などでは、とてもお嬢様のまばゆさなど絵に描き表わせられません」
 苦笑して言い、その場を離れようとした。遠くに見かけた充津の所へでも行こうと、
「友人がおりますので、失礼します」
 ゆっくり、腰を折って礼をする。そこを引き止めるほど、僕と話したいことがあるわけではないだろうと思っていた。
 だが突如、二の腕に柔らかいものが絡みついてくる。
 彼女には驚かされてばかりいる。僕の腕に掴まり、藍凉様は身を預けて来たのだ。
「ど、どうされました?」
「ああ……少し、貧血気味で……すみません、向こうの部屋まで、連れて行ってくださいません? 騒ぎにはしたくないの。静かに……」
「歩けますか?」
「少しだけ寄りかからせてください」
 僕の腕に押しつけられる柔らかくほっそりとした体は確かに冷えていた。彼女を気遣って遅い足取りでホールを出た。
 奥の部屋へ連れて行かれる。入った部屋のソファーに藍凉様を座らせると、
「飲み物を持ってこさせましょう」
 と告げて部屋を出ようとした。しかし僕がその場を離れるよりも早く、藍凉様に手を取られていた。
 僕の心臓がいつもより早く脈打っている。冷えた彼女の手が触れたところから、僕の体は熱くなっていった。
「私のそばにいて」
 濡れた瞳で言う。
 なんてことだ。説、僕達は勘違いしていたよ。彼女は処女なんかではない。
 軽く、手を引かれた。抵抗せずに彼女の体に覆いかぶさる。どうやって逃げようかと考えていた僕の耳元で彼女は囁いた。
「うちのヴィオラ弾きが怪我をしたのはね、彼が私の機嫌を損ねたからよ」
「……」
「ふふっ」
 笑い声と共に、ドレスの胸元がずらされた。真っ白な双丘が露になって僕の鼻先に押しつけられる。僕はそこへ唇を寄せた。
 抗うことはできないのだ。僕は筆を持てない手にはなりたくなかった。
 脳裏に充津の顔が過る。そして、まだ見ぬ僕の誼湾様の顔が。
 僕達の絵の為だ。そう言い聞かせ、彼女の誘いに従った。


 僕は毎日、充津のアトリエに通っていた。午後から訪れ、夜の帳が落ち切った頃に帰る。
 帰ってからは睡眠を削って自分の絵を描いた。
 僕は空蘭様を描く、と充津に話した。
「君が誼湾様を描こうと言うなら、僕は偉大な誼湾様のお父上、空蘭様を描く」
 そう言うと彼も喜んだ。僕達の絵は繋がっている。そのことを互いに感じた。
 充津のモデルを務めることは、過酷なことだった。難しい体勢のまま、数時間も微動だにすることも許されない時もあれば、全裸同然の格好をさせられる時もある。
 だが彼は、描いているうちにますます、僕を熱のこもった目で見るようになった。帰る前にはいつも、僕をねぎらい、手足や肩を揉みほぐしてくれる。
「体に疲れが残ったらいけないから」
 とその時には言いながら、作業中には、
「動くな! 目線を下げるな!」
 だとか、
「なんだその姿勢! しゃんとしろ!」
 だとか、厳しい言葉を投げかけてくる。しかも命令口調だ。
 画家とは自分の絵のことになると、夢中になるものだ。自分勝手になるのが当たり前だが、わかっていても、善意でモデルを務めてやっているんだぞという気持ちは拭えない。
 それも、一日が終われば手厚くいたわられ、また明日も来るかという思いになるのだが。


 充津が製作に夢中になっても、アトリエでの秘密サロンは開かれていた。通常のサロンは、僕は特に伶項様のサロンは、出ないことが多くなっていたのだが。
 あれから蘭凉様には近づかないようにしている。彼女の機嫌を損ねることももちろん怖かった。だが、伶項様が身分の低い僕が愛娘に手を出したと知ったら、許さないのではないだろうか。
 ヴィオラ弾きが追放されたのは、お嬢様に手を出したことが伶項様に知れて怒りを買ったかららしい、という噂を聞いた。
 僕もその可能性を考えなかったわけではないから、今後はもう蘭凉様に近づくまいと誓ったのだ。サロンに行かなければ大貴族の娘がわざわざ僕に近づく手段はない。
 充津の秘密サロンでは、近々、国王を決める選挙が復活するのではないかという話がもっぱら囁かれていた。誼湾様派の有権者達はここの所、立て続けに冤罪で国外追放やら処刑やらという目に遭っており、そろそろ情勢が傾いているらしいのだ。
 やはり、誼湾様の肖像画が日の目を見る日は来ないようだった。


 そして近頃、アトリエの隅に置かれた巨大なキャンバスが人目を引くようになった。布を被せられその内側を見ることは叶わなかったが、宮廷でも注目される画家の最新作には皆が興味津々だ。
 そこに描かれているのが、僕をモデルとした絵であることを知っている者も少なかった。
 充津も僕と同様に他のサロンにはなかなか顔を出さなくなっていた。彼に会いに、こちらの秘密サロンは参加者が日を追って増えてきている。
 誰にでも門戸を解放するのはやめるんだ、と僕は充津に忠告したことがあった。

「人数が増えれば秘密は守られなくなってくる。実際、君も参加者全員を把握できなくなってきてるじゃないか」
 充津は僕の意見に耳は貸さなかった。
「誘われた人間だけが参加できるんだ。最初のメンバーは信用できる人間だけだから、人数が増えても大丈夫だよ」
「制限するべきだよ」
「そう言うなら、説が連れてきた君も信用できないということだ。参加資格を設けて審査でもしろと言うのか?」
「少なくとも、君の知らない人間が来ているのはまずいと思う」
「ここは同志と出会う場でもある。知らない人間も歓迎しなければ、何の為の会合だ」
「……」
 僕達はそもそも、相性があまり良くないのかも知れない。だが充津は危機感がなさすぎると思われた。
 知らない人間が多数出入りするサロン。人数も多すぎて、見ず知らずの人物とは言葉を交わす暇もなく終わることもよくある。
 無戸派の偵察の人間が入り込むには、そろそろ楽な環境になってきたのではないだろうか。僕の警戒心が過剰なのだろうか……。


 伶項様からお誘いの手紙が来た。閑様に対し、僕をサロンに出席させてほしいという旨を丁寧に、だが実質は脅迫に近い形で、書き綴って来たのだった。
 仕方ないので説を誘って行くことにした。先日のお嬢様との件は話してはいない。
 サロンで説の側を離れないものだから、
「どうしたんだ? 僕は保護者じゃないぞ」
 とからかわれた。
 恐らく説は、僕は充津のサロンのことで無戸派の人間を過剰に警戒して他の人間との関わりを疎んでいると、考えているだろう。
 だがなぜ、伶項様は僕をお呼びになったのだろうか。身を隠すようにサロンを歩きながらお嬢様の姿を探しても、今日は見当たらなかった。そういえば今日は曇っている。
「充津は君に何も言わない?」
「え?」
 唐突な友人の言葉だった。
「何もって、どんなことを?」
 説はじっと僕の目を見つめていた。薄い青の瞳を僕もじっと見つめていると、虹彩の輪郭がやや黄色いことに気付く。青の中には、濃いものや薄いもの、様々な色合いが渦巻いていて、人間の体の神秘を感じた。
 黙っていた説がふと目を逸らす。
「充津のモデルを始めてから君の雰囲気は変わったよ。そのことをさ、充津は何も言わないのか?」
「まさか、言わないよ。もともとさほど親しいわけじゃないだろう? それに、充津と会ってから僕自身も絵を描こうという気が湧いた。久しぶりに。そのことが影響してるんじゃないか」
 説は僕を一瞥し、顔を俯ける。
「まさか……充津と特別な関係になってないだろうな」
「特別なって、どういうことだい。モデルではなくて?」
「充津と肉体関係はないのか?」
「まさか!」
 その問いには驚いた。
 想像もしていなかったことで、思わず大きな声を出してしまうほど。
「本当にないのか」
「なぜ疑うんだ」
「君が変わったからだよ」
 説の射るような目で見られ、僕は怯んだ。
 体の関係を怪しまれるような変化を遂げたのだとしたら、充津のせいではないだろう。藍凉様と絡み合った時のことが脳裏をめぐる。
 白い肌を貪った。生ぬるい腕が、足が、僕に巻き付いて……。
 青ざめた僕を、説は誤解したかも知れない。彼が何か言おうと口を開いたその時、
「失礼いたします」
 黒髪、黒い肌の少年が、僕の横から凛とした声を放った。思わずというように、僕と説は警戒して振り向く。
「璃月様、主人の伶項様がお呼びです。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
「伶項様が……」
 唖然としたが、断れない。まさかこのような形で、直接対面する場を伶項様から用意されるとは思っていなかった。
 僕はそのまま、説には目もくれずに、召使の少年に従って歩き出した。

 応接室は普段、僕などは利用したことがない。閑様の屋敷に僕を訪ねてくる人間は、離れに直接遣ってくるし、僕から誰かを訪ねて行くということもない。
 広々とした応接室は壁の一つが全て硝子張りで、日が差し込み明るい。伶項様は一人で窓際に座っていた。逆光で表情は見えなかったが、近付くと機嫌は良さそうだと知れた。
「久しぶりだな」
 伶項様と言葉を交わした経験は数えるほどしかない。毎度のサロンで挨拶を申し上げるけれども、会話と言える会話はないのだ。
「どうも、この度は直接のお招き、ありがとうございます。しかし僕は、お声掛け頂くほど伶項様のお目に止まるようなことがございましたか?」
 不躾かも知れないが、彼はどうやら酒も入っているようだし、上機嫌であるのをいいことに、さっさと自分の疑問をぶつけてみた。
 伶項様は笑むように目を細める。
「そうだな。閑は芸術には炯眼がある男だ。もともと父親が絵画好きでコレクションが多い。知っておろう?」
「は、まぁ……。ですが伶項様にはかなわないでしょう」
 閑様のお屋敷はコレクションを飾るための美術館のような内装になってしまっている。どれもこれも価値が高くて掃除をする時に傷つけやしないかと大変な思いをする、と下働きの女から聞いたこともある。
「主人を失って路頭に迷う寸前だった君を閑が即座に拾い上げた時から、君の絵を見たいと思っていたんだ」
「ありがとうございます。しかし僕の絵は理家と共に処分されてしまいました」
「だからこそ、新作に期待している」
 その言葉には驚いた。僕が絵を描き始めていることを、伶項様が知る繋がりがあっただろうかと、瞬時に推測する。
 閑様とはさほど親しい関係ではなかったはずだ。充津は伶項様にも目をかけて頂いているが、彼が僕のことを話すとは思えない。貴族の興味は自分にひきつけておかなければならないからだ。他の画家の話など振られても、鼻で笑い飛ばすくらいでなければ。説も同様に、僕のことを話したりはしないだろうと思えた。

 それならば、伶項様は何も知らず、ただ早く新作を描かないのかと言っているだけだ。
 だが伶項様は続けて言った。恐らく僕を呼び出した、本当の理由はそれだ。
「私の下で新作を描かないかね」
「……」
 目をみはって押し黙る僕と、冷静に微笑んでいる伶項様。
 その目を見返しているだけで、冷や汗が浮いてくる。
「閑には恩義があるだろう。だが、閑は誼湾様の血筋こそ王家と崇めている。それが命取りにはならないだろうか?」
「何をおっしゃっているのです……」
「閑はきわどい活動をしている。君に空蘭様の絵を描かせ、人々に本来の王家が誰のものであるのか、訴えかけようとしているのだ。これは元老院に対する反逆行為ともとらえられかねない。王位が空席となっている今、元老院に逆らうと言うことは、国賊だよ」
 僕が空蘭様の絵を描いていることを知っている……!
 なぜだ!?
「閑と共にあれば、君は滅ぶしかない。どうするのかね?」


 僕は……僕は……。
 僕達、身分のない画家は、所詮、宿り木がなければ絵を描けない。主人が誼湾様派なら誼湾様を、主人が無戸家派なら不破様を、描くしかないのだ。
 主人を失ったら絵を描けない。へたをすると主人と共に処刑か国外追放だ。
 僕は……落ちるしかなかった。
 描き続ける為に、そして生きる為に。


 伶項様は冷ややかに笑った。
「私のものになるね?」
 僕はごくりと唾を飲み込み、口を開いた。次の瞬間には恐ろしいことに、媚びる笑みさえ浮かべて。
「ありがとうございます。喜んで、伶項様の為に筆をとらせて頂きます」
 脳裏には、優しい暖かい閑様のお顔が浮かんでいた。
 僕はこうやって、上の身分の者に媚び、時には主人さえも裏切られなければ、生きていけない身なのだ。唾吐するほどくだらない人生。だが今は、空蘭様と誼湾様の絵を完成させるまででいいから、どんなに汚い人生でも生きていたい。
 伶項様は上機嫌で破顔した。
「そうかそうか。では、閑の反逆行為については、私の胸の内に秘めておこう。だが、近いうちに奴も失脚する時が来るだろう」
 彼は大貴族であり元老院とも繋がりは深く、無戸家の内情もよく知っているのかも知れない。その口振りからすると、元老院の次の謀略の標的は閑様なのかも知れなかった。
 僕が帰ろうとすると、今日は泊まって行くようにと勧められた。
 伶項様といえば稚児遊びのお好きな方だ。失ったヴィオラ弾きの少年の代わりがまさか僕だとは思いもよらなかったのだが、勧められて同席させて頂いた夕食の場で、後で部屋に来るようにと命じられた時、やはり、という思いもどこかにあった。
 サロンに僕を呼びに来た黒い肌の少年に導かれて入っていった部屋には、大きな寝台があった。そして酒を飲んでいる伶項様が。
 手招きに従って隣に寄ると、顎を押さえられてまじまじと顔を見られた。
「顔色が悪い。不摂生をしているな」
「はぁ、そうでしょうか」
「だが肌は綺麗だ」
「ありがとうございます」
「男に触れられたことはないだろう?」
「……」
「わかるんだよ」
 突如、乱暴に突き飛ばされた。ベッドの手前で転びそうになったところを、腰を捕まえられてそのまま投げ出される。
 ベッドの上に転がった。背後から伶項様が乗り上げて、僕の服を裂いていく。器用に服が裂けるので少し振り返って見ると、どうやらペーパーナイフを使っているらしかった。
 着ていた物は全て剥ぎ取られた時に、仰向けに体を引っ繰り返された。両腕を広げた状態で伶項様がベッドに押さえつけ、僕ははりつけになった。
 見下ろされると途端に恐怖感が増す。恐らく顔色は青ざめているはずだ。
「屈辱的だろう」
 楽しげな声だった。だが優しい声だった。
 荒い息と共に唇が鎖骨に触れてぬめった。首筋を舌でくすぐられると、意外に敏感な部位なんだと気付く。
 拒むつもりは元からないにせよ、手も口も震えて声も出なかった。すると不思議なくらいに優しく頭を撫でられ、
「力を抜くがいい」
 と耳元に口づけを施される。 伶項様は長い時間をかけて、堅い僕の体を愛撫した。女性との交わりの経験はあっても、男性相手は初めてだし、体のあちこちを触られる感覚も初めてで、慣れないことばかりで自分の感覚なのにどう対処したら良いかわからず、散々悶えた。
 相手にリードされて感じるということは、女性を抱くよりも自分の快感をコントロールできないので苦しい。女性を悶えさせることなら楽しいのにと、何度も思った。
 伶項様の屹立したものを押し込まれた時は痛みよりも快感が勝っていて、案外に柔軟な自分の体に驚く。しかし僕は、この人を満足させなければいけない。不満に思われたら捨てられるだろうから。それなのに初めてのその時は、無我夢中に自分を御しようと必死になりながらも、快楽に流されるだけだった。
 そうだ、淫らな言葉の一つも囁いて伶項様に気に入られなければ、この先に生き残ることはない、と気付いたのは、翌朝のベッドの中でのことだ。


 荷物を引き取りに閑様のお屋敷に帰って、唖然とする。屋敷は立入禁止区域となっており、多数の兵士に囲まれていた。
 正門から入ろうとすると兵士に槍を突き付けられて阻まれた。
「ここは立入禁止だ」
「どういうことですか?」
 おまえには関係ない、とばかりに兵士は僕を無視した。仕方がないので僕の離れの屋敷がある東門の方へ歩いていくと、塀沿いには兵士が立ち並び、またしても中に入ることは出来なかった。東門の兵士に、
「ここは僕の家でもあるのですが。僕は閑様の画家です」
 と哀れっぽく告げると、同情してくれたのか簡単な事情を説明してくれた。
 閑様は元老院の古株の一人である核真(かくしん)様に対する反逆行為を目論んでいるという冤罪により、捕らえられた後だったのだ。この家に兵士が押し入ってきたのが昨晩のことだと言うから、もはや、伶項様の策略によるものだということは明白だった。


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