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短編集
閑良精歌
 次の街に行く前に、どうしても。
 やらなきゃいけないことがある。
 彼を殺しておかなきゃいけない……。

 ***

 その街の名はコルン。リーが立ち寄った大きな街である。治安が良く、美しい外観の建造物が多いので観光地としても栄えている。道を歩いていてもゴミも見当たらない美しい町並み。
 ただ、一歩裏通りへ行けばやはり多少は下水の臭いが鼻を突いたり、生ゴミをあさる野良犬・猫達が目に入るのは仕方がない。
 不清潔な裏通りを、リーは一人黙々と歩いていた。フード付きのマンとを身に付け、そのフードは深く顔を覆っている。 
 リー・クウェインはすっきりと整った顔立ちの、良く言えば美少年、悪く言えば誰も気に止めない容姿、だった。派手な顔立ちではないため、彼の美貌に目を留める者は、他人の美醜を気にする者だけだ。つまり、女性はほとんど気が付く。
 それよりも、彼の落ち着いた理知的な容貌は、それを美しいと思わない者にも決して嫌な感情は抱かせない。得な顔と言える。
 彼自身、それをきっちり自覚していて、容姿を武器にしている部分も大きい。
それで仕事に成功しても、同僚や先輩に、
「その綺麗な顔を利用して汚くのしあがったんじゃないのか」
 などという厭味を言われることもない。
 そして、彼について誰もが認める最大の特徴は容姿ではない。
 容貌を引き立たせる、美しい声だった。男にしては高めかも知れない。しかし童顔なので不自然ではない。
 会話の内容などそっちのけで、唄声のように鼓膜を心地よく響かせる美声に聞き惚れる者が多い。その特徴ある声で、過去にリーは何度も困らせられた。得をしたことは少ない。
 リーは、身体的特徴以外では他人に自分を印象づけられないことにコンプレックスを抱きながらも、当たり障りのない自分を演ずることしかできなかった。
 そういう少年だ。

 華奢な容姿は男性用のマントですっぽりと隠され、女性が道を行くように見えなくもない。
 彼が目指しているのは、この街でも一際美しく、品良く豪奢で、大きな屋敷。
 領主の館であった。
 領主の名はビル・ミザリア。長くこの地方を統治し、平和を保った良君主である。
 それでもリーは彼の命を狙う。

 巨大な屋敷に忍び込むことはたやすかった。
 あるいは、あの男がわざと招き入れるかのように隙を作ったのかも知れない。
 そんな疑問も抱きながら、リーは懐中の刃を握り締めて笑む。
 馬鹿な…。僕を近くに呼び寄せたら命が無いのにな……。
 その瞳は真剣だった。暗い廊下を気配を消して駆け抜けながら、瞳には刃のような鋭い光が宿っている。見つめる先は領主の寝室に他ならない。
 屋敷の敷地内にある高い木に登り、葉陰に隠れて昼間からずっと見張っていたのだ。
 彼が酒を飲んで床に就いた様子を、窓の外から見つめていた。彼は遠くを見渡せる視覚を持つ。
 細い手に意外な力がこもり、柄がぎちりと音をたてた。
 領主にもそれなりの雑務がある。しかしビルがこのような深夜に眠るのは、そんな真っ当な理由など無い。
 彼は屋敷に度々美しい少年・少女を呼び寄せ遊びに耽っているのだ。淫乱な遊びに。
 リーの心臓がかつてないほど早く打っていた。
 
 あの男を、殺す! 必ずこの手で!

 寝室の扉の鍵をこっそりと開ける時すら、ひとつも物音をたてない。
 リーが忍び足で寝室へ入ると、寝台が二人分に膨らんでいるのが見て取れた。
 おや?と首を傾げる。見張っていた間中、確かに一人の少年と戯れてはいたが、寝る時は傍に置かなかったはずだ。
ビルはあの少年を追い出して床に入ったはずだ……。
あるいは、リーが目を離しここまで駆けて来る間に、やはり共に寝たいと少年が戻って来たのかも知れない。
だとすれば、少年が愚かだっただけだ。暗殺者は傍にいた者を生かして置かない。
殺されるのは、少年の運が無かったのと、愚かさが悪い。
割り切り、リーは刃を振り上げた。
二人をほぼ同時に瞬殺するつもりで。
「…ッ!」
 気負いのあまり呼気がわずかに漏れた。
 その瞬間、何かに腕の動きを止められる。そして手首に激痛が走った。
「あぁっ!」
 悲鳴は最小限に抑えたが、腕を捩られまたうめく。
「くぅ…」
 何、が? 起きた?
 首をよじって振り向けば、腕に絡まるのは薔薇の蔦のように棘の生えた紐だ。
いや、鞭かも知れない。
 それが手首を締めつけ、ぐいぐいと上へ引っ張っている。
 鞭が滑車の要領で引っかかっているのは天井の豪華なシャンデリア。そして、一度上へ向けた視線を、鞭を辿って持ち主のもとまで…
「…ビル…」
 ため息のような声が漏れた。
 領主は明らかに楽しんでいる笑みを浮かべて、リーを見下ろしていた。彼はリーよりは余程背が高い。
 そして背後から近づいた者が、今度は普通の縄でリーの片手を縛り、棘の刺さったもう一方の手も掴んで捻り上げた。思わず落とした刃がカチンと乾いた音をたて、リーは両手を揃えてぎっちり拘束されてしまった。
 その間、彼の目はビルから離れない。
「よう、こんな夜遅く、俺の寝室に何の用だ? そんなに俺に可愛がって欲しかったか?」
 悪趣味な鞭を手元に手繰り寄せ、軽い仕草で怪我ひとつ負わずに纏め、近くにあった台の上に放り投げてしまう。
 口角をぐいっと上げた笑みは、イヤミで下品極まりない。
 リーを縛った男は、どうやら寝台に隠れていたらしい。リーはその男に華奢な体を担ぎ上げられ、彼の温もりが残る寝台へと降ろされた。その扱いが存外に優しいのは、乱暴にする意味がないからというだけのこと。
 リーはこれから我が身に何が起こるのか、正確な未来を思い描くことは出来なかった。
 殺されるのだ……自分の失態に呆然としながらそう思った時、ビルの使用人によってマントを取り外された。そのまま服も脱がされそうになってしまう。腕を拘束されているので、上半身はリーが落としたナイフにより服を切り裂かれた。
下半身は全て取り去られる。
 ビルが目をすがめてその様を見た。
「可愛いぜ、リー」
 寝台に膝を乗せ、延ばされた腕がリーの顎をくっと上向かせる。
「俺に可愛がられたくて来たんだな。バレバレだったぜ、お前の殺気がさぁ」
 リーは目を見張った。知られていたはずはない。気配は常に殺していたはずだ。
 ビルはリーの驚愕の心中を察してか、さらに笑みを深めた。
「嫉妬してたのか? 俺とあの子の遊びをずっと見てたろ? お前に見られて興奮したぜ…」
 うっとりと呟くビルの声が低く艶っぽくなり、その舌がぺろりと上唇を舐めたから、リーは彼のスイッチが入ってしまったことを知った。
 不意に熱い唇で食いつかれるように己のそれを覆われ、リーはびくりと震えて身じろいだ。その時にはビルの両腕が肩を押さえつけていて、大した動きは取れなかったが。
「ん…っ、んぅ」
 切なげな喘ぎを上げる頃には、リーの唇はぐっしょりと互いの唾液で濡れてしまっている。
「…ビル…」
「そんな声で呼ぶなよ。即ヤっちまうぜ?」
 微笑んだ表情は意外に優しい。
 ビルの唇は続いて、骨ばった首筋から、鎖骨を辿っていく。
 声が漏れないようにと努力することにも疲れてしまった。リーは素直に声を上げる。
 誰もが美声と言うその声が、一層艶かしくうつくしい。
 ビルは満足したように優しい愛撫を続けながら、自身の衣服も脱ぎ去る。
 下半身は熱く勃起していた。触れられているうちにやはり同じように熱くなっているリー自身に押し付けた。
 その重みと熱さに押し潰されながら、リーはこの男と出会った日のことをぼんやりと思い浮かべていた。

 ***

 コルンへ来たのは仕事のため。しばらくは滞在するつもりだった。 なぜならばこの仕事が終わると同時に休暇を申請していたから。
 世界有数の美しい町並みを誇るこのコルンを充分に堪能したかった。
 リーの住まう宿は古いアパートメント。それでも充分、趣き深く美しいと思えた。その古さが何とも言えない。
 大家は老人で、かなりボケていた。リーのことを以前からアパートにいる住人と勘違いしているかのような言動もしばしば。そんな些細なことを気にするリーではなかったけれど。
 仕事について段取りを取るために、彼は街をゆっくり歩き回ることにした。
 遠い国から来た観光客を装って。もちろん、仕事が終わればそうなるのだから、全くの偽りではない。
 さすがに裏通りは寂れているようだったが、その風情すらリーの目には美しく見えた。戦争の絶えない国で育ったリーには。
 街の人達も明るい。ニ、三日歩き回っているだけで、人々はリーを覚え、声をかけてくれるようになった。どうやら少年のように若い観光客は珍しかったようだ。しかも一人で滞在しているとなれば。
「学生なの?」
「神学生だろ?」
 商店街の陽気な人達にはそのように声を掛けられた。
 適当な返事をしておいて、リーはそういった質問を煙に巻いていた。彼が言葉を発するたびに、その「音」に聞き惚れてしまい話の内容をはっきり聞き止めている者などいないから、こういう時には便利だ。やがて「彼は神学生だ」「いや、貴族の坊ちゃんのお忍び旅行だ」と適当な噂が回るわけだが、そんなことはどうでも良かった。
 コルンへ来て七日が過ぎ、リーは初めてビルに出会った。

 いつものように散歩へ行く。歩いているだけに見えても、リーはしっかりと情報は収集していた。ただ、仕事中だと感じさせない優雅な足取りではあったが。
 住宅街の寂れた裏通り、さらに細い下水へと続く誰も通らない道。
 リーはそこを足早に歩いていた。不意に、横の扉が開いて細い道を塞ぐ。
 行く手に立ちはだかったのは、ずいぶんと大きな男だった。
「ああ、悪いな。邪魔して。何してんだお前?」
「道に、迷いまして…」
 こんな所を好んで歩いていたらさすがに不自然だろうと思い、リーはありきたりな返事をする。
 男は人好きのする笑みを浮かべると、問答無用でリーの腕を掴んだ。
「えっ?」
「大通りまで連れて行ってやるよ。おいで」
 どうやら子供のように思われているらしい。おいで、と言われてリーは苦笑してその男に引き込まれるように小さな建物に入った。
「表の出口から出れば、すぐ右手のシャンティ通りがあるからさ。通りに出られれば誰かしらに聞けるだろ?」
「ええ、ありがとうございま…」
「ただし、すぐには出してやらないけどな」
 がちり、と鍵を下ろす音が聞こえた。
 見れば、裏戸はもうがっちりと鍵がかかってしまっている。そして、表の方の戸もよく見れば最初から鍵がかかっているようだった。
 ふぅ、と心中で溜め息。
 正直、こんな男はうまくあしらえる自信があったのだ。だから余裕を持って穏やかな声で尋ねる。
「僕をどうする気ですか?」
「ほう、良い声だな。好い声で鳴いてくれそうだ…」
 男はわずかに目を見開くと嬉しそうに言った。
 何が好い声だ。
 下卑た目で見られ、リーの機嫌はたちまち悪くなる。
「失礼させて頂きます」
 四角四面に言い残し、表側の戸へと向かう。
 その肩を男に掴まれた。振り払おうとした瞬間だ。目の前に独特の匂いのある物が吹き付けられる。
 香水の容器でリーの鼻元に吹きかけられたのは、どうやら危険な類の薬らしかった。
 一瞬で膝から崩れ落ちる。
 力を失った体を、大柄な男が軽く受け止めた。抱き上げられ、どこへ運ばれるのかと思えば、隣の部屋には寝台があった。
 放り出されても受身も取れない。
「く…そっ」
 小さく毒づく。
 男はあっという間にリーの下半身だけを脱がせてしまった。
「俺も急いでるからな、せわしなくて悪いが、丁寧にはするからよ」
 言うなり、男はリーの下半身へ顔を寄せると、ぱくんとその突起を口にくわえてしまった。
「え…あぁっ」
 温い口の中で弄ばれるのが心地よい。
 体に力が入らないはずなのに、腰をよじって震えてよがる。
 男の舌は股間を隅々まで這い回った。太腿にまでキスを送られる。
「便利な薬だろ? 筋肉弛緩剤だが、媚薬効果もあるんだ」
 ぴん、と指先ですでに勃っているものを弾かれる。
「あぅんっ」
「ばっちりだな、お嬢ちゃん」
 お嬢ちゃん呼ばわりには、物凄く腹が立った。しかし、それどころではないと思わせる疼きが体中にうずまいている。
 脚を大きく広げられ、持ち上げられても、抵抗も出来ない。
 男の熱っぽい視線にすら感じそうになる。
 どうやら媚薬の他にも薬を隠し持っていたらしく、男はぬるりとした液体をリーの下半身にたっぷりと塗りつけた。指が後ろに入ってきそうになって、リーは焦る。何をされるのか想像がつく。しかしそれをされた時どのような感じがするのかは、全く未知の世界だったから。
 ゆっくりと、男の指が中に入って、リーは吐精した。
 ただそれだけで。
「ぅ、うっ、ん」
「イイだろ? ここを擦られるのが。な?」
 やがて、ぐちゅぐちゅと音を立てて指が出入りするようになる。
「もっと太くて長〜い物で奥を擦ってほしくないか?」
 意地悪な声が尋ねる。リーは正直、気持ち良さのあまり首を縦にも横にも振れない。
 優しい手つきで男がリーの唇から溢れる唾液を拭った。
 脚をより一層高く上げられ、男のいきり立った物が押し当てられる。
 熱さに驚く間もなく、それはリーの内へ入ってくる。侵食される。そして溶け合う。
「あっ、あッ…あぅっ」
 緩く出し入れされるだけでも声が漏れる。
 やがて男は激しく腰を突き動かし始めた。
 リーの咽喉から悲鳴のような声が溢れる。
「あーッ! あっ、はぁ、んっ……ん、やぁっ」
 嗚咽まじりの声ははっきりと感じていて、男は口元を歪めて笑った。
「気持ちイイだろ? 俺もいいぜ…お前の体、すげぇイイ」
 何度もリーは精を放ってしまった。
 男は何度もリーを汚した。


「俺は行くぜ。ここは空家なんで、気が済むまで寝てていいけどな、俺の手下が見に来るかも知れないから、明日には去れよ」
 勝手な言葉を残して、男はリーを置いて去った。
 ぐったりしているリーに口づけをして。
「俺の名前を教えてやる。ビルだよ、お嬢ちゃん」

 ***

 ビルはどういう訳か、度々リーの前に現れた。
 偶然を装って、しかし確実な計画のもとリーの前に姿を現すのだ。
 こんなにも他人に翻弄されたのは初めてだった。
「お前を街で見かけたことがある」
 行為の最中でビルは語る。二人は、会った日は身体を結ばなかったことがない。
「それからお前のことを調べさせた。そしたら、あんな下水近くを歩いてるから驚いたぜ。言っておくが初めて会った日は偶然だった。ほんとだぜ」
 耳元で熱っぽく囁かれ、一体何人の男女がこの声に誑かされたのかと心中で嘲笑う。
「なあ、俺の屋敷に来ないか? 一緒に暮らそうぜ」
「馬鹿な…」
「お前はこんな愛の告白は、たくさんされてるんだろうな」
 ふん、と嘲り笑うのは、リーのことなのか、リーに今まで告白してきた者達なのか、それともビル自身のことなのか。
 リーにはわからない。
「愛だなんて…」
 笑みが零れた。リーはビルから目を離さず続ける。
「お前にあるのは肉欲だけだ」
 言い切った瞬間、強く抱きしめられ、また墓穴を掘ったのかと吐息した。
 本当に二人の関係は、肉欲以外のなにものでもないのに……。

 ***

 使用人に手伝わせ、ビルはリーを隅々までいたぶった。
 散々噛まれた脚が熱くなっている。指先までも噛まれて舌で愛撫された。
 リーはもう、足腰が立たない。意識が途切れようかという時、やっと行為が中断された。ビルが珍しくリーの身体を気遣ったのだ。
「もう夜が明けるな。お前は下がっていいぞ」
 使用人にそう告げ、ビルは寝台に入り、羽毛布団をふわりと二人の上に掛ける。
 訝しげな顔をしていたリーは、そのまま布団の中で抱きしめられ焦った。
 こんな風に、情事の後の恋人達のように抱き合って眠りについたことはない。いつだって、その場限りの空気があった。
「やめろっ」
 掠れた声で抵抗する。
「どうした?」
「お前なんかと、同じベッドで眠る気はないっ!」
「残念だ。俺はお前を抱きしめて、こう、眠りたいんだが」
「嫌だ!」
「嫌だと言ってもする。それに、同じ寝台にいれば寝首を掻き易いんじゃないのか?」
 ビルの声に、抵抗がぴたりと止んだ。
 リーは渋々と体から力を抜く。
「もっとも、今日のお前に俺を殺して逃げるだけの元気があるとは思えないがな」
 くすりと笑われて、リーは俯いた。
 確かにそうだ。体が動かない。
 なぜ、こんな男のためにここまでの苦労を強いられるのか……。
 やがてうっすらと東の空に日差しを感じる頃、やっと二人は穏やかな寝息を立て始めた。

 ビルが領主だと知ったのは偶然だ。ビルは、自分の身分をなるべく明かしたくなかったようで、長い間、リーは騙されてきた。
 一月も経った頃、初めて聖堂の祭典で領主を見たのだ。
 神官と並び上座で平民を見下ろす神々しい男。
 あんな男が自分を汚した。あんなすました顔をして民心を騙している男に。
 真実は、あんな歪んだ笑い方しか出来ないような下卑た男に。
 街を去る前に過去の傷は消さなければならない。あの男を殺そう。殺さなければ。
 そう誓った。

 領主であるはずのビルは度々街を歩いている。実に溶け込んだ服装と雰囲気で、彼が領主と気付く者はほとんどいない。ほとんどの者は祭典の際などに遠くから姿を拝することしか出来ないからだ。彼と間近で話すことができる権力者だけが気付く。しかし、気付いた者は声高に領主のお忍びの姿を周囲にバラすことはない。
 ビルは領主としての任務は果たしている。
 夜明けに眠ったビルは起きると、リーがまだそこに居ることを確かめ、自分の首が繋がっていることを確かめた。
 自分の命よりも先にリーのことを気にしていたことに気付き、苦笑する。
「…ったくよ」
 滑らかな白皙の頬を撫でた。リーは自分を何か勘違いしている。ビルはこんなに美しい人間を見た事がない。
 ビルの好みの問題だ。誰が何と言おうと、ビルにとってはリーは理想の美貌なのだ。
 その声の美しさにも惹かれる。
 そして何よりも、彼の性格だ。可愛くて仕方がない。
 嫌がってもすぐに快楽に流される。終われば、お前が悪いんだと言わんばかりに強くビルを睨みつける。
 リーは気付いていない。自分がどんなに可愛い性格をしているか。
 猫かぶりでひねくれた自分自身をリーは疎ましく思っているようだ。
 それでも、ビルには、可愛い。

 リーは重い体を動かした。
 動くことを確認し、目を開く。寝台の中に、自分は一人ではなかった。
「よぉ、おはよう。お前の寝起きの顔を見たのは初めてだ」
 ビルが言った。すでに周囲が暗くて焦る。しかしよく見れば、窓の鎧戸が閉まっているだけだった。
「俺を殺すんだろ」
 まだ頭がぼんやりしているようだ。
 ぽん、と不意に掌に愛用のナイフを置かれたのに、リーは何も反応できなかった。
 ビルの顔を、穴が開くほど見つめる。
「……そうだ。お前を、殺しに来たんだから」
「だろ?」
 にやりといつもの調子で笑われ、リーはやっと眉根を寄せた。
「何故?」
「お前が殺したいってんなら、やってみろ。……出来るのか?」
 真剣な眼差しがリーを射抜く。
 背筋が粟立った。それを悟られないように、リーは刃をきちんと握り、ビルに向ける。
「お前を殺しに来たんだから、僕は」
「出来るのか」
「やらなきゃいけない」
 しかし一向に、手は動かない。
 寝ている間に布団の上から刃を突き立てるのは簡単だ。しかし、ビルと目を合わせたまま殺すなど……。
 互いに目線を外さない。
 リーの呼吸がだんだんと上がってきた。鼓動がいつの間にか、寝起きとは思えない早さで胸を打っている。
「俺の思いは昨夜遂げた。最後までお前は愛してると言ってくれなかったけどな。その代わり俺は一生分言ったからな」
 かぁっと顔が熱くなる。
 リーは顔を赤くして視線を揺らがせた。
 昨夜は、体を弄びながら、何度もビルは耳元で囁いてきた。
『愛してる…ぜ』
 少し掠れた、熱っぽい声音で。
 そんな声・言葉には騙されないと、リーは何度も自分に言い聞かせた。特にこの男の情事の時の言葉など、何よりも信用できない。
 動揺したリーを嘲笑うように、ビルはふんと鼻を鳴らす。
「どうした? 早くやらないのか?」
「……」
「殺さなきゃいけないんだろ?」
「…殺さなきゃいけない…」
 不意にビルが動いた。抱きしめるかのように距離を詰められ、驚いて刃を引く。
 わずか鼻先数センチの位置まで顔を寄せたビルが笑った。
「殺すんだろ?」
「う…」
 リーの手が動いた。
 ゆっくりと、指から力が抜ける。ぽとりと寝台に落ちた刃は、もう鋭い光を失っていた。
「もう…」
 リーの声は暗く沈んでいた。
「死んでよ…ビル、俺のために死んでよ。自分で!」
 沈黙の後の、溜め息。
 ビルがゆっくりと寝台から降りる様子をリーはじっと見つめている。
 がたん、と開けられた鎧戸。窓は軽く飛び越せる高さで、ビルが体をくぐらせるには大きい。
「お前のためにって言われたらなぁ、俺はやるぜ? お前、ちゃんと分かって言ってんのか?」
 軽くビルは窓枠に体を乗り上げた。
「じゃぁな」
 軽い言葉。いつもと何ら変わらぬ調子で、ビルは窓から身を投げ出そうとする。
 目の前の男が行ってしまうことに、何故かリーは耐えられなかった。
 何故、じゃない。
 わかっていたのに目を閉じて見ない振りをしていただけだ。

「…何してんだよ、お前」
 ビルは呆れて自分の腰にしがみつく白い体を見やった。
 ゆっくりと窓から降りるなり、リーの肩を強く掴む。震える体が逃げることを許さない。
「言ってみろ! なんでお前は、俺を殺さなきゃならないんだ!?」
「……って」
 顔を上げたリーの瞳が濡れていて焦った。
「殺さなきゃ…いけない」
 リーは苦しい言葉を吐き出した。

「僕のことを犯した相手を生かしておけない。僕の心が乱れるから。仕事の邪魔になるから。禍根は残せない」
 涙が零れた。
「忘れられない……この街を出ても、お前を忘れられない…そんなの…」
「どうして…?」
 思いがけない優しい声音がリーを襲う。一層涙が流れた。
「好きだから。お前を好きだから。僕がお前みたいな最低なヤツ好きになるなんて……そんなの許せない」
 好きになってしまったから。殺さなきゃいけない。
「リー…お前、無駄なプライドなんか捨てちまえよ!」
 口づけようとしたビルを、顎を仰け反らせて避ける。
「なんだよ、お前。俺は今すげぇ嬉しいんだぞ?」
「違う……違う」
「何が?」
「殺さなきゃいけない」
 一瞬の動きで、ビルはリーを逃した。
 寝台の上に転がるナイフ。手に掴んだリーは、再び刃をビルに向ける。
「お前……フルチ○だぞ?」
「う、うるさいなっ」
 ビルの諌めにも惑わされるわけにはいかない。
 殺さなければ。この男をこの手で。
「僕はもともと領主を殺しに来た暗殺者だ」
 リーの静かな告白に、初めて、ビルの顔が強張った。
「暗殺者が入国した情報は伝わっていないか? 領主にまで情報が伝わってしまうことはよくあるんだけどな。僕だと疑わなかったか?」
「情報は聞いていた。お前を疑った事は無い」
 真剣な眼差しを見て、リーもまた、初めてビルに穏やかな笑顔を見せた。
「領主らしい顔を初めて見た」
「そりゃぁ……。いや、お前、ほんとに俺を殺すんだな」
「そうしなきゃいけない。失敗すれば、他の誰かにやられるよ…」
「誰が俺を殺そうなんて考えた? お前は頼まれただけなんだろう?」
「知らない……そういう、組織だから。ただ殺すのが僕の仕事だから」
「なぁ、お前はちょっと頭が悪いんじゃねぇか?」
 にやりといつもの笑みを浮かべるビルを、リーは呆然と見やった。
 好きだと認めてしまえば、こんなにもこの無礼な男の一挙手一投足に心が乱される。
「駆け落ちしようぜ」
 ビルは言った。

 ***

 領主を死んだことにする。そして、密かに国を離れ、二人で暮らす。
 そんな夢を描いたビルに、リーは逆らわなかった。
 何故ならば、もう離れられなかったから。

「よぅ、仕事終わったのかよ?」
「終わったよ」
 いつも通り、にこやかな笑みを浮かべるリー。彼は今、祖国へ戻っていた。
「コルンの街では大々的な追悼式が開かれてる。その混雑の中、僕は帰って来たんだからな」
「相変わらず、穏やかな顔して自分の仕事をこなすよな、お前は」
 同僚はそう言って苦笑した。
 リーは掌の辞職届をそっと見やる。同僚に見つかって問い詰められるのはまずい。煙に巻くのが面倒臭い。
「急いでるから。じゃあな」
 暗殺を請け負う仕事を生業にしているこの国とも別れる。この国で生まれ育ったけれど、郷愁の思いなどは無い。
 こんな国、人を殺すことしか出来ない人間の集まりだ。
 この国から逃げられた者が存在しない歴史の教科書など、覆してみせる。
 リーはそう誓った。
 ビルには話していない。簡単に辞職が許されるような、そんな甘い法律は存在しないこの国のことを。
 国を出ても何日生き延びられるか? そもそも、国を出るまで生きていられるか? 
 服の下で熱く疼く鎖骨をそっと撫でる。別れる前、ビルが思い切り噛んだ所だ。
 彼は薄々、リーの悲痛な心中を察していたのだろう。
 先に遠いリアン国へ向かったビルが、リーが生きて我が手に戻るようにとの願いを込めて。
 そして、待っている者があることをリーに忘れさせないために。
「待っていて…」

 ***

 僕達の安息は遠い世界。
 辿り着く道は、暗くて見えないけれど、それでも構わない。
 僕が明るく照らしていくんだから。
僕が、ビルと生きていくために。






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