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短編集
僕らの理論 2
好きだけど、そんなつもりじゃなくて。
涙がぽろりと溢れて、嗚咽を堪えるために唇を噛んだら、うまく喋れない。
「せんぱ……僕、あ…」
「聞こえねぇんだよ」
先輩が吐き捨てるように投げつけた一言で、僕は再び強く強く唇を噛んだ。
「ったく…」
先輩がゆっくりと立ち上がる。ごつ、と松葉杖が床を突く音。
先輩はゆっくり歩く。
僕は恐くて、常に先輩から一番遠い位置になるように壁沿いにじりじりと移動した。
恐れるようなことはなく、先輩はドアにたどり着いた。
そのまま鍵を開け、ドアも開ける。
「誰かに告げ口しても、無駄だからな」
そう言い捨てて、彼は、出て行った。

「先輩…」
呟きと共に僕はその場に座り込む。
誰よりも輝いていた彼が、僕の中で、地に堕ちた。
ただの男になった。



夜、日記帳を前にして、僕の手はペンを持つことができなかった。
だって。
昨日までの日記には、先輩のことばかり。
かっこいい、素敵な村井先輩のことばかり、書かれているんだから。
ここに今日、僕は何を書けばいいの?

『村井先輩が

大好きです。』

自分に嘘をつくような気分で、それだけを書いた。


翌日から、何故か野球部の練習に行くと、村井先輩が後輩達の指導に来ていた。
当然重点的に見てあげているのはレギュラーメンバーなんだけど、僕達の方にもたまに来る。
皆、以前の僕のように先輩がこっちへ近づいて来るとわあわあと騒いで興奮していたけれど、その中で一番喜んでいるはずの僕が珍妙な顔つきで黙っているから、メンバーに何度も聞かれた。
「どうしたの? お前、村井先輩の大ファンじゃん」
「今日おかしいぞ? 具合悪いのか?」
そんなんじゃない。
誰にも言えない。
誰かに指導をしながら、先輩が僕の方をちらちらと見ていることに気づいてはいた。
何が言いたいんだろう。
僕が誰かに言わないか、見張っているつもりなんだろうか。
でも同じクラスにだって野球部員はいるんだし、いつも見張っているわけにもいかないのに。
先輩の視線を感じながら練習するのに耐えられなくて、僕は先生に具合が悪いと言って早退した。
それが出来るのは初日だけで、あんまり何度も早退するとやる気がないのかって厭味を言われてしまうから、それ以降は部活が終わるまで耐えているしかなかった。
先輩の視線に。


中間テストが終わってすぐに梅雨が来た。
そしてすぐに期末テストなんだけれど。
今日も雨。
僕は憂鬱で仕方がない。
雨だと、広いグラウンドじゃなくて校舎内で練習をするから、村井先輩との距離がより近くなってしまうのだ。
今日もまた、階段駆け上がる特訓で、村井先輩は号令をする係を買って出た。
皆が順番に、5人ずつ1階の階段下に並び、先輩が鳴らすホイッスルで順番に駆けあがっていく。4階の廊下を走って、校舎の反対側の階段を駆け下りて、またここへ戻ってくるのだ。
僕はわざわざ村井先輩から一番離れた場所に並んだ。
それなのに。
僕の前の順番だった5人のうちの、一人が。
なんと駆け出す時に、階段にけつまづいて転んだ。
皆爆笑していたけれど、彼が鼻血を出してしまったので慌てて、
「おい、大丈夫かよ?」
「ちょっと保健室行って来い」
と大騒ぎ。
そして、彼と一緒に走るはずだった4人は出鼻をくじかれてその場に立ち尽くしていたものだから、
「壱川、この列に入れ」
村井先輩が僕を手招きした。
その場にとどまっていた4人を恨めしく思いながら、その列の空いている場所、つまり転んだ彼がいた場所へ入った。
村井先輩の目の前だ。
先輩はなかなかホイッスルを吹かない。
「まぁ…みんな、怪我には注意しろよ」
「うっす!」
「じゃ、練習再開ー」
やっとそう言って、ホイッスルを口にくわえた。
でもまだ吹かない。
どうして?
至近距離で先輩が僕を見ている。
僕にはすごくすごく長い時間だった。

お願い、早く……吹いて。

ピッ!

5人、一斉に走り出す。
僕はもう、早く先輩から離れたい一心で真っ先に飛び出した。
それなのに、爪先が何かに引っかかる。
それは階段なんかじゃない。そんな冷たくて固いものじゃなくて、ふにゃっとして温かいもの……。

先輩の爪先だった。

「っ!」
息を詰めて、身体をひねる。
なんとか、さっきの彼のように頭をぶつけることはなかったけれど、肩と膝を思いきりぶつけてその場に転がった。
「あっ、おい!」
真っ先に肩に触れた手は、僕が転ぶことを知っていた先輩だった。
なぜ、という思いで先輩を見上げるけれど、痛みで声が出ない。
「まったく、連続で転ぶなんて縁起でもないな」
僕の腕を取って立ち上がらせながら村井先輩はその言葉を用意していたかのように言う。
「休憩にしようぜ。こいつは保健室に連れて行くから。ほら、歩けるか?」
僕が足を痛めたかどうかも確認していないのに、さも足を悪くしてしまったかのように肩を支えて先輩は歩き出した。
休憩と聞いて、ざわざわと私語を始めた部員達はもう僕なんか見ていない。
先輩に連れ去られた僕は、誰にも助けを求める間もなかった。


保健室に行く途中、鼻にティッシュを詰めた部員と会った。階段で転んだ奴だ。
「なんともなかったよ。お、壱川も転んだ? 大変だな」
けろりと笑って去ってしまう。
そして。
 保健室に着いてみれば、先生がちょうど出ていくところだった。
「これから職員会議なの。膝は痛い? うん、そんなには痛まないのね。じゃあ大丈夫でしょう。バンソウコウとか湿布は勝手に使っていいから。私が戻って来なかったら戸締まりして鍵を職員室に返しておいてね。じゃあ」
先生はあっさりとそう言って行ってしまった。
村井先輩が一緒だったから、せいぜい捻挫をしていてもその手当くらいは出来ると思っているんだろう。
村井先輩は当然だけどテーピングも上手だし、ちょっとした怪我の手当も上手い。
保健室に二人きりになりたくなくて僕は先輩の手を振り払って皆の所へ戻ろうとしたけど、その前に腕を強く捕まえられて保健室に引っ張り込まれた。
先輩は片方松葉杖をついているのに。なんて強い力……。
「座れ」
先輩は、後ろ手にドアに鍵をかけてしまった。
怖くて、大人しく従って座る。
先輩は僕の前に椅子を持ってくるとそこに足を乗せさせてジャージをまくり上げた。
手が素足に触れる。思いのほか僕の胸はドキドキしていた。
何をされるかわからない恐さ。
それに反して、先輩の手の優しい温かさ。
先輩の手は足首から膝を強く押したりして、僕の反応を見ていた。
「なんともなさそうだな」
そう言うと、やっと僕のジャージのズボンの裾を下ろしてくれた。
身体から力が抜けて、自分がずっと強ばっていたことを知った。
そっと息を吐き出した僕に、先輩は気づいていたみたい。
立ったままずっとこっちを見ていた。
いつまでここにいるつもりなんだろう。
先輩が近くに立っていて、僕は身動きできない。
動いたら肉食動物に捕まえられて食べられてしまう、そんな恐怖。
ちらりと上目遣いに見ると、ばっちり目が合った。
「…っ!」
すぐに目を逸らす。
先輩、いつまでそこにいるの?
いつまで僕のこと見ているの?
もう、僕なんかいいじゃないか。
早くどこか行ってよ。
早く。早く早く早く……どこかに行ってしまって。
胸が押し潰されそうだ。
すごく不思議な気分。
空気が淀んでいる……。


「好きだ」

不意に、声が聞こえた。
僕がどんな思いでここでじっとしているかなんて知らない先輩の声。
思っていたことと全く違うことを言われて、驚いて僕は顔を上げた。

先輩は、僕が脅えていたような先輩じゃなくて。

もっと優しい顔をしていた。

「好きだって言ったら、お前はどうするんだ? この前みたいに逃げるのか?」
先輩の声は真摯だった。
きっと僕が思うより、先輩はずっと普通の男子高生で。僕より2つ年上だから大人だけれど、それでもごく普通の人間なんだ。
好きだって言ったらどうする?なんて言っているけど、その言葉が本気なのは、その顔を見ればわかってしまう。
僕は不意に気づいた。
僕の言動に、彼がおびえているのを。
僕がさっきまで先輩におびえていたのとは違う意味で。
先輩は僕に拒まれるのを、怖がっている 。
その瞳の中が震えていた。
何か言わなくちゃ、と思うのに、言葉が出ない。
先輩はまっすぐ僕を見つめている。
僕もその目を見返す。なのに口が開かない。
「…ぼ…」
やっと喋ろうとしたのに、出てきた声はひどくかすれていたから、ごほんと急いで咳払い。
「僕は…ずっと先輩のプレイに憧れていました。先輩を好きなのは、キスしたいとか誘うとか、そういう意味じゃなくて…憧れて……」
喋るうちに先輩の表情がどんどん沈んでいって、僕の声もどんどん萎んでいく。
そんな哀しい顔をしてほしくない。
でも、先輩にそんな顔をさせているのは僕の言葉なんだ。
「でも、今は先輩が好きです」
ぽろりとこぼれた声に、先輩は驚いたような顔をした。
でも僕も驚いた。
そんな二人が目を合わせて、お互いのびっくりした顔に、思わず笑みが浮かんだ。
「ぷっ…」
「笑うなよ!」
先輩の手が伸びて僕の肩を小突いた。
椅子の上でよろけながら僕は笑う。

先輩が笑っているのが嬉しい。
こういうことだったんだ。
僕はただ、先輩が好きだ。
それがどういう形でも。
ただの憧れなんだとしても、先輩が笑ってくれるなら。

「先輩が好きです」
もう一度言ってみた。
先輩はますます笑顔になる。
それから、ふと、ものすごく切なげな顔になった。
僕の前に置いた椅子に座ると、松葉杖を床に置く。
そして手をこちらに差し伸べた。
でもまだ、僕には触れない。
「抱き締めてもいいか?」
「……」
言われるまでもなくて、僕は自分から先輩にしがみついた。
抱きつく、じゃなくて、それは本当に、溺れる人のようなしがみつき方。
先輩は温かくて、全然コワイ感じもしなくて。
先輩の手が、痛いくらいに強く僕の背中に回った。
しばらくそうやって、お互いの温もりを確かめ合っていると、先輩が口を開く。
「この前は悪かったな」
「え…」
当然、部室で襲われた日のことだ。
「それにさっきも」
さっきはわざと先輩に足を引っかけられた。
「……」
許していいのか、僕は悩んで黙ったまま。
痛かった、すごく。転ばせるなんてひどすぎると思う。
でも、仕方がない。
「いいですよ、もう」
許そう。先輩の悲痛な声を聞いていたくないから。
「良かった」
耳元で囁かれた声は、やっぱりすごく優しくて、許して良かったと思った。

「お前のことずっと見てたんだ。で、お前も俺のこと好きなのかと思って……嬉しくて、つい襲ったんだが」
「つい?」
「可愛い顔して俺のこと見てるから。でも、お前が俺のこと好きなように見えたのは、ただ俺に憧れてるだけなんだってすぐ気づいた。だから謝らなくちゃとずっと思ってて」
「はい。でもいいんです。さっき、先輩のこと好きになりました」

僕が先輩を好きな気持ちは、いつの間にか憧れなんかではなくなっていたみたい。
こうして抱き合っているともっと触れたいと望んでしまう。そういうことなんだ。

僕は強く、先輩の肩に額を押し付けた。
不意に溢れてきた涙に、気づかれたくなかったから。


昨日まで、何も書けずに真っ白になっていた日記に、今日はいろいろなことを書ける。
書けずにいた日々の分、またたくさん彼への想いを書ける。
そう思った。






**終**



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