短編集 僕らの理論 1 『僕達はつまんないことに精を出していた、あの日。 いや、あの日々。 彼だけが、輝いて見えた。 彼だけが、つまんないことをしているようには見えなかった……』 ぱたん、と日記を閉じて、思う。 高校時代に僕が最も精を出していたのは、勉強より部活動だった。 でも実は、勉強も部活動もつまらないことだと思っていた。そんなつまらないことに精を出せたのは、今、プロ野球選手として騒がれている僕の恋人の為だ。 古い日記はどこへやったかな。 そうだ、押し入れの中にちゃんとあるはずだ。 過去の日記帳を引っ張り出してきたけれど、僕はそれを開かなかった。 そこに綴られた日々を、鮮明に思い出すことが出来る。 思い出すその日々は、彼だけが輝いていた。 *** 村井和道先輩が事故に遭い、野球部を引退することになった時、僕だけが本気で泣いていた。 確かに誰もが顔をしかめていたけれど、泣いたのは僕だけだ。 甲子園の常連、強豪桜川高校の名物バッターである村井先輩と、ほとんど野球も出来ない半マネージャー的な存在である僕とは、ほとんど口をきいたことがない。 何しろ野球の名門として地元では知らない人はなく、遠い土地からもわざわざ入学してくる人がいるくらいの学校だ。野球部には入部テストがあり、その中に僕が滑り込めたのは、中学の頃にやっていた陸上で短距離走で県内記録を打ち出したことがあるからだ。それももう、いつだったか別の人に抜かれたらしいけど。 でも僕は脚の速さ以外では、全く不器用で、球技なんて目もあてられない。ちょっと脚の速さが他より抜きん出ていたって、野球部の連中はほとんどが他の運動部の部員よりも速かった。 そんなふうに周囲に埋もれて特に目立つところもない僕を、村井先輩は顔しか覚えていないだろう。名前と顔は一致しないはずだ。 それでも僕は、退部してしまった村井先輩を引き留めに行った。 3年生の教室に近づくのは怖いから、放課後、昇降口で先輩を待ち伏せた。運が良いと言えるのか、先輩が退部を決めてからすぐ、中間試験一週間前に入り、部活動は活動禁止になったのだ。 先輩はずいぶん遅い時間になって、やっと姿を現わした。 教室で友達とおしゃべりをしたりしていたんだろうか。 でも、先輩は一人だった。 面倒そうに松葉杖をついて、下駄箱から靴を取り出す先輩。僕はすかさず駆け寄った。 「お手伝いしますっ」 「あ? ああ」 僕がどこから現れたのか、疑問に思っただろう。今まで、下駄箱の陰に隠れて待っていたんだから。 先輩は靴を履き替え、僕が上履きをきちんと下駄箱にしまうのを待っていた。 「お前、野球部の…」 「はい。壱川です」 「知ってるよ」 えっ……先輩が、先輩が僕のことを知っていた! 顔だけじゃなくて名前も! 僕がぱっと表情を明るくしたからか、先輩は苦笑する。 「ちゃんと全員の名前覚えてるぞ」 「あ、ありがとうございますっ!」 「なんでそこでお礼が出てくるんだ」 呆れて笑っているけれど。 先輩、僕にとっては、とてもとても嬉しいことなんです。 「先輩、途中まで一緒に帰りませんか」 「いいぞ」 僕達はゆっくりと、校門へ向かい歩き始めた。 松葉杖の先輩はどうしても遅い。でもそれは、先輩と長く話していたい僕のためにしてくれているみたいだと思った。 部活動はないから、もう人気のない中庭を二人で歩く。 あ、そうだ。 僕は先輩の鞄に手をかけた。 「鞄、持ちます」 「悪いな」 「いいえ」 なんでもっと早く気づかなかったんだろう。 僕は先輩の鞄を捧げ持つ。 「あの、先輩。僕、お願いがあるんです」 「なんだ? 野球の個人指導とかはしないぞ」 「えっ、それ、誰かに頼まれたことあるんですか?」 「俺が退部した途端、後輩が何人も何人も俺の所に来た。個人的に指導してくれって」 「そうだったんですか…」 野球なんてどうでもいい僕は、思いつきもしなかった。僕はただ、村井先輩に野球をやっていて欲しいだけだから。 「先輩、野球部に戻って来て下さい。なにも退部することはないじゃないですか」 「お前な……」 途端に渋い顔で先輩が振り返る。 一生懸命、松葉杖を使いながら。 「顧問やコーチみたいなこと言うなよ。せっかく、顧問とコーチと校長を説得して退部したのに、今度はお前かよ」 「ご、ごめんなさい……」 睨まれて、おびえたように謝るしかない。 でも、先輩は不機嫌になってしまったが、僕は勇気を振り絞った。 「でも、僕、先輩に野球をやっていて欲しいんです」 「もう無理だよ」 「諦めないで下さい。骨折じゃないですか。1ヵ月か2ヵ月くらいで完治するじゃないですか」 「無理だっつってんだろ。ただの骨折じゃないんだ……」 「え……?」 先輩の横顔は、とても、暗かった。 僕がこんな顔をさせてしまったのか…? 先輩は、ゆっくり、押し出すような掠れた声で話してくれた。 「複雑骨折で……ギプスが取れるまで2ヵ月かかる。その後、リハビリを……半年、続けなきゃ、もとのように走ることは出来ないんだ。半年だぞ。お前……」 先輩が何を言いたいか、よくわかる。 復帰できるまであと8ヵ月。でもその時には、甲子園は終わっている。 高校3年生の先輩の、最後の甲子園が。 言葉が出ない。 球場であんなに輝いていた先輩が、今年の甲子園は、 絶望的、なんだ……。 「おいっ」 先輩が怒鳴った。 はっとなって顔を上げる。 立ち止まって、先輩は僕を見下ろしていた。 「お前がなに泣いてんだよ」 「あ、ご、ごめんなさ…い」 慌てて目元を拭けば、確かに、僕は泣いていたようだ。制服の袖がぐっしょり濡れた。 「ごめんなさい…」 恥ずかしくて声が小さくなる。 先輩はため息をついた。 「なんだよ、お前、変な奴だな」 「だって、先輩……もう、もう甲子園は……」 「もういいんだよ。諦めた。だから退部して、誰の指導もしないんだ。俺、大学も普通受検で受けるつもりだし、勉強しなきゃなぁ」 「そんな」 あんなに、野球が好きな先輩が。 諦めた、って……。 「最後の甲子園……先輩の……うっ、うぅっ」 いけない。また涙が溢れてきた。 ぐすぐすと鼻をすすっても、涙は止まらない。 「おいおい、なんで泣いてんだよ」 「僕、先輩の野球してる姿が大好きで、憧れで……今年も先輩を応援、したかっ…」 「おい、まいったなー」 「す、すいませ…今、泣きやみます…から…」 うえっ、嗚咽を我慢すると吐きそうになる。 唇を噛みしめてこらえていると、そこに、先輩の手が伸びてきた。 ふにゅ、と唇に指が触れる。 「泣くなら、泣け。誰も見てないし」 「いえ、もう泣きません」 くいっと下唇をつままれた。それを親指と人指し指でふにふにと揉まれる。 「そうなのか? 泣かないのか?」 「泣きません」 「……唇、赤くなってんぞ」 先輩はふっと笑った。 目をあげてその顔を見れば、目が合って。 また、ふっと笑われる。 「目も赤いぞ」 「あ…」 慌てて制服の袖で擦ろうとして持ち上げた腕を、しっかりつかまれてしまった。 「擦るな。ほっといた方がいい」 「はい」 そっか。擦った方が赤くなるもんな。 先輩は僕の手を離して、再び歩き出した。 僕達は、もう野球の話はしなかった。 他愛ない話ばかりして、校門を出て少し歩いた道で別れた。 「俺こっちだけど、お前は?」 「僕はこっちで…」 「じゃ、な。しっかり勉強しろよ」 「はい。気をつけてくだ……あ、鞄っ!」 「お、忘れるところだった。じゃぁな」 「はい。さよならー」 先輩が松葉杖とはいえしっかりした足取りで角を曲がるまで、僕はそこにつったって見送っていた。 家に帰る途中。そして、帰ってからも、僕は上の空。 先輩は可哀相だ。でも僕なんかに同情されたらもっと可哀相かも知れない。 可哀相なんて、思ったら駄目だ。 そう思うと、今度は、先輩と近くで話が出来たことばかり、考えてしまう。 村井先輩の手は綺麗だった。男らしく大きくて、ごつごつしていて。 てのひらの皮もすごく固かった。 あの手を、綺麗と表現する人は少ないかも知れない。 でも僕にしてみれば、綺麗な手。 いくつものホームランを打ってきた、僕達、野球部員の憧れの手だ。 先輩は声も素敵だった。 喋り方も。 でももう、今年中には、先輩が野球をする姿は見られない。 僕の日記には、毎日、先輩のことが綴られている。 それももう終わりなのかな。 先輩が野球をしている姿を書き綴ることは、もうないんだろうな。 胸が苦しくなってきて、僕は必死にかきむしった。 ぎゅっとシャツを掴んだり、引きちぎる勢いで爪でかいたり。 明日も、明後日も、その次もその次もその次も…… グラウンドで先輩を、見られない。 中間テストが終わって、今日から部活動が始まる。 荷物を確認して部室に行こうとしていると、クラスの奴が近づいてきて僕に言った。 「おい、なんか廊下で呼んでる人いるんだけど」 「え、誰」 「野球部の先輩じゃなかったか? 確か、あの人は」 「あ、そう」 2年の先輩だろうか。1年に伝言があるとほとんど2年生が伝えに来る。 鞄はひとまず置いて、僕は廊下に走った。 教室を出て、きょろきょろと見回せば、隣のクラスとうちのクラスの間にある柱に寄り掛かっている松葉杖が見えた。 「えっ」 そして持ち主は、窓枠に寄り掛かって外を見ている。 「せ、先輩」 呼びかける時、手が震えた。 「壱川、元気か?」 「もちろん元気ですよ」 いきなり何を言い出すんだろう。 「お前、野球うまくなりたくないか?」 「えっ……」 特になりたいなんて思っていなかったけれど、改めて考えてみれば……。 野球がうまい方が、村井先輩は僕のことを見てくれる。 野球がうまい方が、村井先輩は僕のことを気にかけてくれる……。 「はい。なりたいです」 「じゃぁ、お前にだけ特別に特訓してやろうか。実践は見せられないけど、アドバイスとか出来るし」 「…………」 「無理にとは言わない。別に遠慮してもいいんだぞ。俺は暇なだけだから」 「いえ……驚いて声が出なかったんです」 落ち着こう。僕は大きく深呼吸をした。 吸って、吐く。 うん、大丈夫かも。 「で…あの、なんでいきなり。僕より1年のレギュラーの方が」 「いいじゃないか。俺はお前が気に入ったんだから」 「気に…いっ…?」 「ああ。後輩の中じゃ、一番可愛い。それに脚が速いのは以前から目をつけてた」 「そりゃぁ…」 一応、中学新とったこともあるし…。 「中学の頃は陸上だったんだろ。他の奴より下手でも仕方ない。だから俺が見てやるよ」 「ありがとうございます」 先輩がせっかくそう言ってくれたのに、僕に断る理由はなかった。 そう言ってくれた先輩のために、もっと真面目に野球に対して取り組もう。 そう心に決めたのだが。 「今日、練習後に部室で待ってろよ。特訓の話は誰にも内緒だぞ」 「はいっ」 部活動が終了しても、さすがに初夏だけあって辺りはぼんやりと明るい。 「今日は僕、鍵当番やります」 「頼むな」 キャプテンから鍵を預かって、着替えずに待った。 部員全員が帰って、僕は部室の電気を消す。 それが合図だ。 図書室で待っている先輩は、部室の電気が消えたのを見てやって来る。 待ち初めて30分位経った頃、部室のドアが叩かれた。 「はい」 小声で返事をして、そっとドアを開いた。 村井先輩が立っていてほっとする。 「良かった、見回りの先生じゃなくて」 「まだ見回る時間じゃないだろ」 「それで先輩、どこで練習するんですか?」 先輩は黙って部室に入ってきた。松葉杖で一歩一歩じりじり進んで、やっと部室の奥までたどり着く。 ちょうど先輩の腰の高さがある机に座ると、ふーと息をつく。 「図書室からここまで来るのに疲れたんだ。悪いな。鍵閉めてこっち来てくれ」 「あ、はいっ」 わざわざ、図書室で時間を潰していてくれたんだ。 僕は感謝の気持ちでいっぱいで、ドアの鍵を閉めて先輩の方に寄った。 「大丈夫ですか?」 「ああ、疲れただけ。別に痛んだりしてるわけじゃないから」 「そうですか」 「もうちょっと、こっち」 ひらひらと手が僕を誘った。 手招きに従って近づく。先輩がかなり近くなった。 あ、部室の電気をつけ忘れていた……暗くて、距離感がはかりづらい。 「せんぱ…」 手招きしていた先輩の手が、僕の肩に回った。 でも違った。 肩を通り越して、背中だ。 ぐいっと力強い手に引き寄せられて、バランスが崩れる。 「せっ」 何をする気なんだろう。僕を脅かそうとしているだけ? 先輩の思惑が計り切れなかったのは一瞬で、次にはもう、抱き締められていた。 ふっと顔に先輩の息がかかる。 なんで、と思う暇もなく唇に何かが触れた。 何か? 何だろう? 初めての体験だけど、すぐに理解する。先輩が僕の唇にキスしただけならともかく、口を開いて吸い上げてきたから。 キス? 「んっ…!」 抵抗しようと思っても、強い腕に邪魔される。 それに先輩は脚が悪いから、本気で抵抗して机から落ちたら大変だ、と無意識に抵抗する力が抜けているのだ。 先輩の舌が唇をなぞって、やっと離れた。 「はぁっ…はぁ」 焦って息をする。 息は乱れまくっていた。 けれどそれで終わりじゃない。 先輩の手が僕の胸を撫でて、突起を探り当てた。そこを爪でこちょこちょと弾く。 「あっ…やぁんっ」 「可愛い声」 くすっと先輩が笑った。 ゆっくりと机に押し倒されて、僕は先輩の邪な感情に気づいた。 「やめて下さい! いやだっ…!」 力いっぱい、先輩を押す。 ちょっとその体が離れた隙に急いで机を飛び降りた。 先輩は早く動けないから、壁際まで急いで走って、そこにぴったり背中をつけて先輩を振り返った。 全身に嫌な汗をかいてしまっている。 「先輩……どういうつもり」 「いいじゃないか」 闇の中、先輩らしき影が机の上でもぞりと起き上がった。 「俺のこと、好きだろ?」 聞いたこともない、こんな声。 先輩がこんなふうに、「ただの男」みたいな声で話すなんて。 でも僕が気づいていないだけで、先輩はいつも作っていただけだ。 甲子園のヒーロー・桜川高校のバッター村井選手。 ただそのイメージを壊さないように、先輩は振る舞っていただけ。 本当はちゃんと、高校3年生の男で。 それに、僕のことを襲った……。 「お前、俺が好きなんだろうが。いつも誘うような目で見てただろ? 練習の時もさ」 「違います……好きだけど」 [次へ#] [戻る] |