短編集 遠くに在りて思うもの 2 煙草に火をつけてから、 「俺は決まってない」 と彼は言った。 「彼女と旅行とか、行かねぇの?」 「特に予定してないな。千里は行きたがってたけど、忙しくてそんな予定を考えている場合じゃない」 「かーわいそー、中川」 宮崎は言いながら笑った。 俺はそこに便乗して、ささいな嫌味を言ってやる。 「そんなんじゃ、また中川を泣かせるよー」 久幸は静かに俺を見た。宮崎は目を輝かせ、 「なに? 平野、泣かせたことがあるのか?」 と俺に詰め寄ってくる。 黙して煙草を口に運びながら、まだ立ったままの久幸と目を合わせる。 「そういえば、千里がランチをおごってもらったと言ってたが」 久幸の声は落ち着いている。なんだ、中川、自分から喋ったのか。 「中川ちゃんに誘われちゃったもので」 「なんだよお前! 中川ちゃんと二人で飯行ったのかよー!」 宮崎、うるさい。 久幸がどういう反応をするか気になったが、冷静でつまらない。俺はもう話を切り上げることにした。 「人の女に手は出さないから安心しろよ。平野のことで相談されただけだから」 そう言って目を逸らす。 つまんないな。事前に中川から聞いてたんだろうな。 「へー、お前らってそんなに仲良かった?」 横から宮崎が突っ込んでくるので、 「いや、中川ちゃんは俺達が仲良いって勘違いしてただけ。ろくに相談に乗れなかったな」 「だよなぁ。お前らって、なんか他人行儀だもんなぁ」 「中川ちゃんも何を勘違いしたんだかなー」 二人で笑い話に変えてしまう。 だが、ちらりと久幸の顔をうかがうと、笑ってもいなければ怒ってもいない。何かを思案するような顔。 お前の家に忘れたネクタイから、中川は俺達の仲を勘違いしたんだ。そのことに久幸は気付いているだろうか。 「さて、そろそろ戻るかぁー」 吸い殻を灰皿に押しつけ、俺は立ち上がる。 「お先ー」 今は休憩所に同期しかいないので、軽く手を振ってそこを出た。他の人がいたらこんな態度とらない。 しかし、もうあと一週間で盆休みに入るというのに、久幸は中川と何の予定も立てていないのだ。冷たい奴、とさすがに俺も思った。 翌日、なぜか朝から頭痛がして体がだるかったので、痛み止めの薬だけ飲んで出勤した。 その翌日には、会社の中にいると寒くて仕方なく、上着を着たまま過ごしていた。 「えっ、お前、暑くねぇの?」 社員食堂ですれ違った竹中に真顔で言われるが、むしろ寒気がして震えが止まらない俺は両腕を抱えて言う。 「いや、寒い」 「熱あるんじゃねぇ?」 「ねぇよ」 「冷房の設定温度が高いこの社内で、なんで上着着たままで寒いとか言えるんだよ。そういえば顔色悪いぞ」 「ねぇ、って」 伸びてきた竹中の手を避けようと仰け反るが、腕を掴まれて引き戻された。額に冷えた手が触れる。 「うーん……わかんね。こうやって人の体温計ったことないからな」 「はは、ばーか」 「バカって、おま……あ、おい」 竹中が不意にあさっての方向を見る。俺の腕を捕まえたまま。 「こいつ、熱あるっぽいんだけど、平野見てくれないか」 「熱?」 竹中に答えながら近寄ってくる影が目の端に映る。俺はなんとなくそっちを見ないようにした。 「竹中、俺は平気だから……」 逃げようとするが、腕をしっかり掴まれている。 目の前に久幸が立った。 「顔色が悪い」 目が合った途端、だ。 そう言うなり、俺の額に手のひらを当てる。 「熱いなぁ。風見、早退しろよ」 「いや、俺、そんなに具合悪くないし」 「顔色ご悪いけど?」 「大したことねぇよ。暑くて、寝不足なだけだ」 竹中の手を振り切って食券を買いに行く。ついて来た竹中はしつこく、早退しろと言ってくるが、なんとなく、病気に負けた気がするので帰りたくはなかった。 だが翌日、目覚まし時計の音で起きると、体がやけに重く、関節は痛かった。これはさすがに、覚えのあるだるさだ。 頭も痛いが、なんとか、ベッドを降りてクローゼットを開く。奥に薬箱を入れていたはずだ。しゃがみこんで中をのぞくと、久しく見ていない白い缶が見つかる。菓子箱だった物を、薬箱に使え、と母が内容を一式入れて渡してくれた物だ。 開けると体温計がすぐに目につく。久しぶりに使うことになったな。 計りながら、解熱剤を探した。鎮痛・解熱剤という物と、熱・鼻・のどなどの症状にと書いてある風邪薬があったが、どちらが良いのだろうか。 ピピッ、と体温計が鳴り、見ると38.9と表示されている。 鎮痛・解熱剤を選んで、水を取りに行こうと立ち上がった。その瞬間に、世界が揺れ、足から力が抜ける。 倒れる、という感覚を初めて知った。 世界が一転し、気が付いた時には床の横になっているのだ。倒れた瞬間のことは記憶にない。一瞬だけ気絶したかのようだ。 はっきりと、今日は無理だ、と知った。 めまいを恐れて、次は床を這うようにしてキッチンへ向かう。なんとか水だけを汲んで、薬を飲み干した。 ベッドまで、また這って戻り、枕元の充電中の携帯を取った。会社に欠勤の連絡を入れるために。 暑くて、死にそうだ。倒れそうだ。いや、もう倒れている。 枕元にミネラルウォーターのペットボトルを準備したはいいものの、自分で取って飲むために起き上がる元気はなく、ほとんど手をつけなかった。 暑くて暑くてクーラーを入れていたのだが、夜になると寒くて寒くて、クーラーを止めて窓を全開にし、真夏の空気を部屋に呼びこんでも寒かった。布団を2枚重ねで肩までかけて眠った。 二日間、俺は眠りこけていた。欠勤の連絡を入れるのも億劫な二日目は、携帯を置いた途端、意識を失うように眠ってしまった。 そして、二日の欠勤の後は土日が続き、そのまま盆休みに入る。丸々一週間、会社に行かないことが決定してしまった。俺の欠勤連絡の電話を取ったのは一年先輩の人だったが、笑いながら、「早めに夏休みで体休めろよ」と言ってくれた。なんて優しい人だ、と思いながらも、掠れた声で「はい」としか答えられない。余計な言葉を発する元気もないし、喉もどうやらやられているらしかった。 熱を出して寝込んでから三日目、とうとう、体力の限界が来たので助けを求めることにした。 家に電話をすると、 「はい、風見です」 とかわいらしい声が俺を迎えてくれる。妹の麻矢だ。 だが、「麻矢、お兄ちゃんだよ」という言葉を発する前に、俺は……まず咳きこんでしまった。 「げほっ……げほげほっ、ま、ま……」 「…………おかーさーん! なんか変な電話―!」 受話器を遠ざけて喋っているらしい、麻矢の声が遠い。 「マテ、ま、まやっ……」 「切っちゃいなさい!」 母の声が小さく耳に入った。次の瞬間には、通話は切断されていた。 携帯を片手に、溜め息をつくしか出来ない、俺。 うー、ごめん、麻矢。怖がらせて……。 咳がおさまったところで、 「あー、あー」 と声を発してみた。掠れているが、ちゃんと喋れる。よし。 再度、実家に電話をかける。 「……はい」 警戒しているのだろう、麻矢の声が小さく聞こえた。今度は名前も名乗らない。 「麻矢、お兄ちゃんだよ」 俺は努めて明るい声を出して名乗ってみた。だが、しゃがれた声はだいぶ怪しいだろう。 「えっ、兄ちゃん?」 今年、中学生になったばかりの麻矢は、まだ反抗期前だ。兄ちゃんからの電話だと知り、喜んでくれたはずだ。 「うん、兄ちゃんだよ。あのね、母さんいる?」 「いるよ。ねぇねぇ、さっきね、変な電話来たんだよ! 麻矢が出たら、なんかごほごほって言ってて、あと、何言ってるかわかんないから、切っちゃったよー!」 「そ、そうか。いたずら電話かな……麻矢、可愛いから」 それは俺だ、と言い出すことはためらわれた。弱くて格好悪い兄ちゃんを見せたくなかった。 「じゃ、お母さんに代わるね! おかーさーん! 兄ちゃんだよ」 「今、手が離せないからー!」 遠くで母さんの声がした。土曜日のこんな時間(11時)に何を手が離せないと言うんだ。……あ、洗濯とかかな。 「いつ帰って来るのか聞いておいて!」 また母さんの声がした。はーい、と答えた麻矢が、また受話器を近くに寄せて喋り出す。 「兄ちゃん、お母さん、今手が離せないって」 「うん、聞こえた」 「いつ帰って来るの? もう土曜日だよ。もうすぐ夏休みでしょ?」 「う、うん。実はもう夏休みなんだけど、帰れそうにないんだ……」 「えー! 兄ちゃん、なんで!? 彼女とかできたの?」 なぜ「彼女」という推測が一番に出てくるんだろう。 男も女も恋人がいない、独り身の俺はなんだか悲しくなってしまった。 「いや、彼女はいないよ……。麻矢より可愛い人なんていないし」 「そうなんだー。兄ちゃん、可哀想。あのねぇ、麻矢の学年に、一夜くんっていう子がいるんだけど、運動神経抜群で、ちょーかっこいいんだよ!」 「麻矢、兄ちゃんよりかっこいいのか!」 「うーん……一夜くんは顔がすごい美形だからなー。でも、兄ちゃんの方が頼れるしかっこいい!」 悩んだ末に俺か! 嬉しいけど、その悩んだ間がなければもっと嬉しかったよ。 「ありがとう」 「兄ちゃんはお土産とか買ってくれるしー。一夜くんはモテるから、あたしなんか駄目だよー」 「麻矢、その一夜くんが好きなのか? 本気か?」 「うん。だって、かっこいいもん」 「兄ちゃんの方がかっこいいって言ったじゃないか!」 「えっ……だって兄ちゃんとは結婚できないし。って言うかなに、兄ちゃん、マジになってるの? で、何で帰って来れないの? お土産は?」 やはり、俺よりもお土産が目的なんだな。 気持ちはよくわかる。俺も、子供の頃はじいちゃんばあちゃんが家に来てくれるのが楽しみなのは、お土産が半分以上楽しみだった。でも、実際に俺のお土産だけを楽しみにされていると悲しいな。 「あのな、俺、ちょっと体調崩してな……で、母さんに代わって欲しいんだけど」 「うん、待って。おかーさーん! お兄ちゃん、どうしても代わってって!」 「はいはい!」 ぱたぱたとスリッパの足音が近づいて来る。がさがさっと受話器の向こうで音がしたかと思うと、 「どうしたの?」 と久しく聞いていない母の声がした。 「ああ、あのな、俺……」 母親の前だと、麻矢が相手の時よりもずっとトーンが低くなってしまう。まあ、母親を相手に猫なで声出しても気持ち悪いしな。 「風邪ひいたみたいで、熱が下がらなくてひどいんだよ。だから今年の盆は帰れなくて……」 「ああ、そうなの! 風邪ひくなんて久しぶりねぇ。やっぱり、社会人一年目で一気に疲れが出たんじゃない? 大変ねぇ」 同情だけじゃなくて、母さん、俺が遠まわしに言いたいことを読み取ってくれないかな。 「うん、熱でもう歩けなくてさ、ご飯とか作れないくらいなんだよね。って言うかここ三日ほど、ベッドから出てないし」 「そうなの! 彼女とか、家に来てくれないの?」 「う、うん、俺、彼女いないよ? ここんとこ、水しか飲んでなくてさ」 「ご飯はちゃんと食べなさい。レトルトのお粥とかでいいから。薬もちゃんと飲みなさいね」 だから、熱で歩けなくてご飯作れないって言ってるのに。 どうしても、母親に自分から家に来てくれなんて言えない。言いづらい。 「えっと、そんで」 「お盆は来なくていいから。年末年始だけ顔出しなさいね。麻矢もあんたに会えるの楽しみにしてるから。じゃ、ちょっと母さん忙しいから、切るわね」 「う、うん。母さんも元気で」 「あんたもね!」 ガチャ! ……母親って、意外と冷たいもんだな。麻矢に遊びに来てくれって頼む方が良かったかな。でも、鍵は母親に預けてあるしな。 電話が切れてすぐ、携帯が鳴った。見るとメールが来ている。送り主は麻矢で、 「お兄ちゃん、がんばってね!!!!」 という内容だった。 可愛い妹だ。 しかし、助けも来ないとなると、本格的に死ぬかも知れない。 ……と思ったのだが、日曜には少し熱が下がっていた。なんとか起き上がって、空腹のために頭がふらつくがキッチンまで行くことができる。あれだけ熱があって動けなかったのに、何とかなるもんだな、と思ったのだが、汗をかいたパジャマを着替えようとして脱いだら、見事に肋骨が浮き上がって腹がえぐれていた。体重計に乗らなくてもわかる。すっかり体重が落ちてしまったらしい。 溜め息が出る。 パジャマを洗濯かごに入れ、新しい物に着替えて、冷蔵庫をあさった。 しかし、何もない。食べる物が……。 さすがに外に買いに出る元気はない。デリバリーしかないか。 資源回収に出すのが面倒で溜まっている新聞をあさると、広告も多数まぎれている。その中からデリバリーの広告を引っ張り出し、あれこれ眺めてみたが……食欲はわかなかった。恐らく、油っこいものは食べられないだろうから、一番広告が多いピザは無理だろう。 そばか、うどんがいいな。 そば屋の広告は一枚しかなかった。しかし、隅の方に「1000円以上から宅配のご注文を承っています」と書いてある。そば単品では600円だ。1000円にはいかない。 仕方なく、稲荷寿司とうどんセットを頼むことにしよう。電話をすると、愛想の良いおじさんが応対してくれた。名前と住所と電話番号と注文を告げると、 「30分ほどでお届けできます!」 「はい、お願いします」 体力がすっかり失われている俺は愛想のない声で答えると電話を切った。 それから、25分で届いたうどんを食べる。稲荷寿司は口に入れた途端、油っぽさで吐き気がこみ上げたから、ラップで包んで冷蔵庫に入れた。賞味期限、どのくらいなんだろうか。一週間はもたないか? 腹が減ったら、明日食べればいいか……。 そして、風邪薬を飲んで、またベッドに横になった。 明日から皆は盆休みだ。土曜から泊まりにどこかへ行っている連中も多いだろう。 枕に顔をうずめて、目を閉じると、ふと久幸の顔が浮かんできた。中川と、どこかに行くんだろうか。それとも実家に帰るんだろうか。中川とは、旅行ではなく一日だけ海とか行って……。 あいつの顔を思い出すと、途端に気分が悪くなってきた。吐き気がするが、起き上がってトイレまで行くのはだるいからその場で我慢する。 久幸の整った顔。整った体。細いけれど筋肉がついているのは、大学まで陸上をやっていたから。長距離選手だったらしい。 どうりで、セックスの時にはあんまり息が切れないはずだ、あいつ……。思い出して、ふっと口元に笑みが浮かんだ。 そして、眠りに落ちてしまった。 ピンポーン、というチャイムの音で目が覚めた。 まさか、俺の家だとは思わず、再び眠りに落ちようとすると、ピンポーンと音が鳴る。 やっぱり、俺の家か? 起き上がり、玄関の方に意識を集中して待つ。すると、三度目のチャイムが鳴った。やっぱり俺の家だ。 ベッドから降りて、玄関へ向かう。昨日よりも体が軽い。うどんを食べたおかけだろうか。 「はい?」 答えながら、玄関の扉を開けた。チェーンを外していなかったので、10センチ程度しか開かなかったのだが、そこに、黒いシャツのラフな格好を見て、俺は目を見開く。本当に、目玉が落ちるかと思うほど驚いた。 昨夜、眠りに落ちる前に夢うつつに見た、久幸の顔があった。黒いシャツにジーパンというラフな格好を見るのは、久しぶりだ。 「具合、どうだ?」 久幸は手にビニール袋を提げていた。そこには近所のスーパーの名前が書かれている。 「具合……まぁまぁ、だけど。どうしたんだ、いきなり」 「いや……」 「入るか?」 「ああ」 扉を閉めようと、力を抜くと、思ったより勢いよくガチャンと音を立てて閉まってしまった。これでは、久幸の訪問を拒否しているみたいだ。慌てて、チェーンを外して扉を開く。 「わり……」 言ってしまってから、何に対して謝っているのか、恥ずかしくなった。 拒否するかのように扉を閉めてしまったから、ごめん。 そんなこと、謝るような仲じゃないのにな。 しかし、久しぶりに他人と会った。部屋に入ってきた久幸は、まっすぐキッチンへ向かい、途中のテーブルにビニール袋を置いた。ごとん、という聞き慣れた音は、缶ビールだ。 キッチンの前に立ち、所在なさげに視線をうろつかせる久幸と、少し離れた所に立ち俺は聞いてみた。 「どうしたんだよ」 「お前と久しぶりに会うな」 俺と同じことを久幸も思ったらしい。 「うん、だって俺、ずっと寝込んでたから」 「そうだよな。……熱があるからって欠勤した後、連続して来なくてそのまま夏休みに入ったからさ、しばらく顔合わせてないだろ。諒、どうしてるかと思って」 「心配してくれたのか?」 「まぁな。相当、具合悪そうだったし。それにお前、独り暮らしだから。風邪の時、困るかと思って」 「ま、面倒見てくれる彼女もいないしな」 冗談めかして言ってみたのだが、久幸は答えなかった。なんだ、嫌味に聞こえたのかな? 俺は本気で、冗談だったんだが。 久幸の態度がおかしいと、俺もどうしたらいいかわからない。自分の家なのに落ち着かない。二人してキッチンダイニングに立ち尽くしたまま、お互いの空気を読もうとしている。 俯いてしまった久幸が、ふと思い出したかのように言う。 「何か食ったか」 「いや。昨日、三日ぶりにうどんだけ食ったけど」 「ああ、なんかやつれたな」 「やっぱり? 自分でもびっくりしたぜ」 シャツをめくって見せてやろうとしたが、それはやめておいた。 テーブルの上に目線を落とすと、エアコンのリモコンが目に入る。そうだ、俺にとっては今の気温はちょうど良いのだが、恐らく久幸は暑いだろう。慌ててリモコンを手に取った。 「わり、今、冷房つけるな。起きたばっかでさ……」 「ああ、そうか。起こしたか。悪かったな」 「いいって」 「具合はどうなんだ? 冷房つけても平気なのか? 会社では寒い寒いって言ってただろう」 「今は平気だ。大分熱下がったみたい……だし、な」 エアコンのスイッチを入れ、寝室に戻る。枕元に体温計があったはずだ。体温計を手に取ると、ペットボトルも持ってキッチンに戻った。 「座れよ」 「いや……」 なぜか久幸は拒否する。おかしな奴だ。 俺は椅子に座ると水を飲み干した。今日はかなり体が軽いようだ。 黙っていた久幸は、不意に動き出した。テーブルの上のビニール袋から缶ビールを取り出し、俺に渡して来る。えーと、俺は病み上がりなんだが飲めというのだろうか。……まぁ、いいか。 よく考えたら、見舞いに来た久幸は俺の好みが全くわからず、何を持ってきたらいいかわからなかったのだ。そして、好きなものと言えば酒しかわからないから、酒を持ってきた、ということだ。 そのことに、俺はすぐには思い至らなかった。 なんで、こいつは突然、酒を持ってきたんだろう……と思っただけだ。 そしてビニール袋からは缶ビール以外にもいろいろな物が出てきた。主にレトルトの、お粥が3種類、うどん2パック、野菜スープ3箱、味噌汁2箱……。 「食べるか」 次々と取り出す様子を、唖然として眺めていた俺は、尋ねられて、久幸の顔をそのまま見上げた。驚いた顔のままで。 目が合って、久幸がわずかに目を細める。照れているのだ。 「おう、食べる。ありがとう」 「どれがいい」 「お粥」 それほど好きなわけではないが、懐かしかった。お粥というものが。 つい先日、母親にお粥を作りに来てほしいなんて夢を見て電話をしたがあっさりと見放された俺は、レトルトでもいいから食べたかった。 久幸は無言で俺に背を向け、キッチンに向かう。鍋を取り出すと水を入れ、火をつけようとしてガスの元栓が閉まっていることに気づき、開けてからガス台の火をつけた。他人の家のキッチンで、勝手が違って戸惑っているのだろう、そのぎこちない後ろ姿を俺はずっと眺めていた。 飽きない。久幸が可愛い。 どうしたらいいんだ。俺の為に、レトルトを買ってきて作ってくれようという久幸が、無性に可愛いと思えてしまう。 中川の顔が脳裏に浮かんできた。 中川……可愛い顔をした、久幸の彼女は、せっかくの盆休みもこうして久幸に放っておかれている。久幸は今、俺の家にいるから。 中川を放って、俺の家にいるから。 気持ちがどんどんと膨らんできて、怖かった。 待てよ、俺。落ちつけ。きっと、熱があるからあらぬ期待を抱いてしまっているだけだ。 現実的に考えたら、久幸がただ親切で来てくれただけだってことはすぐにわかる。そうとしか考えられない。だって俺は、中川の代わりに捨てられた男。 それでも、わざわざ休みの日にこうして心配して来てくれただけで、嬉しいと思う。 缶ビールをあおると、くそっ、アルコールの回りが早くて、俺はテーブルに突っ伏した。 いくらなんでも熱があるのにビールなんて飲めないらしい。 頭がぐるぐると回る。テーブルに突っ伏しているのに、体は揺れているような気がする。 「おいっ、大丈夫か?」 気付いた久幸が近付いてきたが、頭を起こすことは出来なかった。 「ダメ……だ」 「ベッド行くか?」 「いや、と、トイレ」 久幸に肩を借りてトイレへ行く。情けないこと、この上ないが、便器の前にしゃがみこんで、飲んだばかりのビールを吐き出してしまった。しかも、ビール以外には腹に入っていないから、胃が痛くなってしまう。きりきりと、痛む。 [*前へ][次へ#] [戻る] |