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短編集
花料夜話 1
 戦争中だというのに貴族は優雅なことを行いたがるし見栄を張りたがる。週に1度、お抱えの芸術家を披露目する為のサロンがある。どこの家も財政は厳しいはずなのだが。
 特に愛されるのは歌を歌える者や楽器を奏でられる者。画家は作品が出来上がった時以外には日の目を見ない。
 伶項(れいこう)様のお気に入りのヴィオラ弾き、ほっそりとした色白の稚児の演奏が流れる昼間のサロン。僕は酒を片手に窓際のソファーでぼんやりと人の波を眺めていた。
 サロンは絶好の不倫の出会いの場所でもある。あの奥方とあそこの主人は今日も二人で消えるのだろうか、などと下衆な想像をしていると、僕に近寄ってくる者があった。ソファーの肘掛に座りながら僕の肩を叩いたのは、画家の仲間の説(せつ)だ。
「やあ、今日は良き日だ。サロンに君がいた」
 その言葉は皮肉だ。聞いて僕はくすっと笑いをもらした。
「サロンにはいつもいる。何しろ暇だから」
「ははっ。まだ構想が浮かばない?」
「何かを描きたいとは思うのに、こう、胸が震えるようなことがないんだ」
「そういう時は、美しいお嬢様でも描けばいい」
 ほら、と目配せする先には、伶項様の一人娘。大きく胸を開いたドレスを着て、酒を振る舞われる場所に出てくるなんて馬鹿な人だ。雪のように白く、柔らかそうなふくよかな胸元に、視線を奪われない男はないだろう。
 彼女の熱い視線の先を見て、僕と説は皮肉げに口元を歪めて笑うしかない。
「ヴィオラ弾きはご主人様のお気に入りだ」
「自分の父親が気に入っているのは彼の才能だけではないということを知らないのかな」
「まさか。気付いていないはずはない」
「彼女は処女だ。気付いていないだろう……」
 説が声を潜めた。
「あんなに無防備なのは、男が獣になるところを知らないからさ。ね?」
 僕は苦い笑みしか返さない。確かにその通りだ。
 自分のグラスが空になっているので、酒でも取りに行こうかと立ち上がりながら、ついでに伶項様にお願いをしようかと思いつく。そう、あのお嬢様の肖像画を是非描かせて頂けませんか、と。
 処女をからかうつもりはない。だが、デッサンのついでに、サロンで色気を振りまいてはいけないと忠告することはできる。
 純朴そうな顔をして頬を赤らめてヴィオラ弾きを見つめていたら、いい笑い者になるだけだ。伶項様のお気に入りはお嬢様の手には入るまい、それよりもサロンでどんな紳士に目をつけられ攫われるかわからない。
 伶項様は侯爵とは言え、機嫌を損ねたらまずい大貴族の要望があれば、娘くらいならばおとなしく差し出さなければならなくなる。妻を密通させるのは罪だが、未婚の娘ならば問題ない。
 お嬢様を横目に、伶項様のもとへ向かおうとした僕の袖を、不意に説が掴んだ。
「おっと、待て。あの娘を食うつもりじゃないだろうな」
「まさか、そんな恐れ多い」
「君ならうまくすれば可能だろうけどね。何しろ彼女の好きそうな顔だ。だがそれよりも、暇ならば今度違う密会に参加しないか?」
「なんだ?」
「秘密サロンさ」
 説が強く袖を引き、僕は無理矢理ソファーに腰を落とされる。
「秘密サロン?」
 聞き返して、返ってきた説の答えに、僕は彼がよりいっそう声をひそめた理由を知る。
「誼湾派の芸術家だけの集まり」
「…………まさか、本当に?」
「本当だよ。君は決して無戸家の支持者ではないと信じて誘う」
「もちろんだ。だが、いつ、どこで?」
「一週間後、創理(そうり)様のお屋敷で」
「充津(みつ)の主人じゃないか」
「そう」
 説は誇らしげに言ってうなずいた。
「創理様は画家の勉強の場として彼のアトリエを使って集会をしてもいいとおっしゃって下さっている。もちろん誼湾派だけの集まりとはご存知ないが……一週間後、創理様は地方視察で留守にされるんだよ」
 僕は充津を……最近名が売れ始めて貴族の間では才能を絶賛されている若い画家の姿を、目だけで探した。
 ……向こうの壁際で、伶項様に媚でも売っているのか、身振り手振りを交えて談笑していたが、彼は当然、こちらの視線には気付かない。
「充津は?」
「彼は熱狂的な誼湾様の支持者なんだ」
「そうだったのか……」
 風景画を得意とする充津だが、特に、王家の別宅である城やその庭園の絵を好んで描いていた気がする。それは単に、一流の建築家による溜め息の出るような美麗な城や、手入れされた広大な庭園の美しさが、彼の心を射止めたからかも知れないが、別の意図を孕んでいた可能性もある。
 つまり充津は、誼湾様ゆかりの王家の栄光を、城や庭園をより煌びやかに描くことで主張していたのかも知れない……。
「一週間後、僕は創理様の屋敷に向かう途中に君を迎えに寄るよ。いい?」
「わかったよ、僕も参加しよう」
 そう言った声が聞こえたかのように、そのとき充津の目が僕を向き、ホールの遥か遠い所からにっこりと笑いかけてきた。


 国内は内乱戦争で荒れていた為に、富裕層では外国への亡命者が後を絶たなかった。役人に取り入って思うように商売をしてきた人達も、例えば右派につくか左派につくかで生きるか死ぬかが決まってしまうのだが、まだどちらも安定した政権を獲得した者はなかったからである。
 内乱の中心部で立ち回っている諸侯の間でも、収賄、間諜、暗殺、と暗い策略が横行し、妻や子供を亡命させた者も少なくない。また、冤罪をかけて死刑判決にするといった、家名も地に落とすような謀略も多かった。
 この内乱は三代前の王、空蘭(くうらん)様の直系、誼湾(ぎわん)様の血筋を指示する者、十五代前の王の妹君、公礼名(くれな)様と現元老院の総統、無戸(なと)家の当時の主であった不破(ふわ)様の血筋を指示する者の両派による。無戸家は王家の血筋を取り入れたことで、さらに代々、有力な貴族と婚姻を結び一族を広げていった。誼湾様の母が民衆の出であったことも発端となり、王権を主張したというわけだ。
 誼湾様を支持する民衆や諸侯、無戸家を支持する元老院(発言権の大きい有力貴族により結成されているので、支持する貴族も多い)は、空蘭様以後、王権を取得したり奪回されたり、と繰り返して、現在は王座は空位となって3年経つ。内乱が起こってから国王を選挙で決めよという法律が制定されたが(起案は元老院による。勝利の確信があったからだろう)、次の選挙の時期も決められないほどに情勢は荒れていた。
 元老院はかつて国王を指名していたという過去があり、数百年も昔のことであろうと彼らが有権者達に及ぼす影響は大きい。
 民衆は身分の低い母を持つ誼湾様に心酔していた。その為、争いは王家に縁もない民草にまで広がった。民衆が立ち上がれば軍も動く。まだ死人が3桁にのぼるような大きな暴動はないが、城下では小競り合いも日常茶飯事だ。

 僕は画家で、以前の主人は王宮で幅をきかせていた理家という名門貴族の当主だったのだが、当時、王位は無戸家にあったが王家の一族の亡命に力を貸したとして処刑された。冤罪だった。
 現在は空蘭様を支持する閑家に召抱えられている。
 この荒れ狂う王宮にいながら、閑様はよく逃げないなと思うが、そのおかげで僕は日々を生き長らえているので主人を非難するつもりはない。


 僕は民衆の出身。家は画商だった。
 僕が生まれた時には、すでに空蘭様も誼湾様もご逝去されてはいたのだが、育った環境ゆえか、無戸の血筋を王家とは思わない。
 それでももしも閑様が無戸家に与する方だったなら、誰の肖像であっても描いただろう。主人の機嫌をとらなければ僕の命などあっさりと切り捨てられてしまうほどのものだからだ。
 日々そのことに怯えているわけでもなければ、鬱屈しているわけでもないが、人としてこのようにしか生きられないというのは間違っているのではないかと考えることはある。
 だが祖国を捨てて外国へ行く気はない。城下に家族がいるということも理由の一つだが、僕はまだこの国を描き続けていたかったからだ。

 僕達が住む街は広大な宮廷の一画であり、そこを城下の人々は貴富の街と言う。宮廷ではラクリアン街と言われる、王宮に出仕する貴族の屋敷が連なる街だ。地方に領地を持つ者が多く、ほとんどはラクリアン街の屋敷は別邸としている。
 帰れば森とも山ともつかない広大な庭を所有している城があるのだが、王宮に上がれる栄誉には代えがたいものだ。ラクリアン街の屋敷は城とは呼べないものの、王家の近くに住まう最も高価な家なのだ。
 かつては豪奢な馬車が所狭しと行き来したこの街も、人とすれ違うことも滅多になくなった。空き家が多くなり、人影を見かけない。
 そんな通りを、僕は説の馬車で通り過ぎ、北一番通りというラクリアン街の外れに位置する創理様のお屋敷にやって来た。出迎えたドア係は心得たように僕達を離れへと案内する。そこは充津のアトリエで、僕達が来た時にはおよそ20人ばかりの男が既に集まっていた。
 驚いたことに、巨匠と言われる老年の画家から、まだ学生の(城下の大学の制服を着たまま来ているのだ)青年まで、驚くような人脈が広がっているのだ。
 王位を廻る政治事情がここまで画壇を騒がせているとは思いもよらなかった。もちろん画家ばかりではない、彫刻家や建築家、音楽家も目につくが、中心人物たる充津の職業からか画家が多い。
 僕達が入っていくと、充津はすぐに腰を上げ足早に近づいて来ると、僕の手を取って握り締めた。
「やぁ、よく来てくれた!」
 その顔は笑っているようだが、瞳は鋭い。
 説の手も取り、充津は言う。
「よく連れて来てくれたよ」
「ああ、彼は君の理想にぴったりだからな!」
 説のその言葉の真意がわからず、僕は首を傾げる。
 充津の理想にぴったり、とは?
「説、まだそれを言わないでくれよ」
 充津は初めて、表情らしい表情を見せた。わずかに頬を赤らめて照れ臭そうに笑ったのだ。
 その顔は少年のように可愛らしく、僕は内心驚きながら見ていた。そんな僕に充津は向き直り、
「すまない、僕からきちんと話そう。璃月(りげつ)、君にモデルを頼みたいんだ」
 そう、真摯な面持ちで言った。声こそ大きくなかったものの、僕の耳にその言葉は突き刺さるように響いた。
 モデル、だって?
 風景画家である、充津が?
 驚き、僕の耳から脳へとそのセリフが回ってくるのが遅れたようだ。そして唇に回ってくるまでは、またさらに時間を要した。
「モデルを? 僕が?」
 間抜けな言葉の反芻にも、充津はしっかりと頷いて答えた。
「君は理想だ。僕が思い描く、誼湾様の。……レットバルの戦役、を知っているだろう」
「ああ。王宮、華結びの間にある、誼湾様の肖像……」
「そう、誼湾様の御姿に最も似ていると言われる肖像だ。君にどこか面影が似ている。そして以前から、僕は啓示を夢に見るんだよ。誼湾様の夢だ。誼湾様は、君の顔をしているんだ……もう三年も見続けている」
 僕達がお互いの顔を知ったのは、充津がデビューした二年前の王宮のサロンでのことだ。僕の中に少なからず戦慄が走ったことは言うまでもない。
「お願いだ、璃月、僕のモデルになってほしい。君と会った時から、想い焦がれていた」
 夢の誼湾様と同じ顔をした僕。
 彼にとって、出会った時の衝撃はどれほどだったろう。
「君を描きたい。君を描く為に僕は生まれ、画家になり、王宮にやってきたんだ」
 それはまるで恋の熱病に浮かされた男。その目も、その言葉も。「お願いだ。君を描くことは僕にとって、運命なんだよ」
 その言葉が女神のような美女から発されるものだったなら、僕はすぐに落ちただろう。だが充津は麗しい顔立ちとは言え男で、女性ならば目が合っただけで腰が崩れそうな雄の匂い漂わせる青年だ。僕が一も二もなく落ちるような要素は到底なく……だが、絵を描く者としてその情熱には感じ入るものがある。
 しかし、充津は今や上流階級では注目される画家なのだ。彼のモデルを務めるということは、同時に僕も注目されるが、僕達には日頃接点がない。
 繋がりを疑われれば、この秘密サロンのことも明るみに出るかも知れない。
 誼湾派か、無戸派か、その二大勢力の争いにより命を落とした人を幾度となく見てきた為に、慎重にならざるを得なかった。
「急な話なもので、少し、考えさせてほしい」
 充津は哀しげな顔を見せたものの、力強く頷いた。
「ああ。いいとも。頼むよ」
 もう一度握手を求められ、手を握り返したものの、僕は笑みを浮かべられなかった。充津は相変わらず恋のまなざしで僕を見ていたが……。


 充津は王都の裕福な商家の出身だという。神教大学校の出身で、学生の頃から絵に優れ、上流の奥様方が惚れ惚れとするような紳士的な顔立ちで貴族の覚えもめでたく、サロンに出入りすることが多かった。
 僕はと言うと、以前の主人である理様は慎重な方で、自分やお抱えの部下や芸術家を滅多に公の場に出すことがなく、長い間、僕は本当に主人の目を潤わせる為だけに絵を描いていた。とは言ってもほんの五年余りのことだ。
 理様の処刑後、閑様に拾われ、少しずつサロンにも出入りをするようになった頃が、二年前だ。
 充津の傑作、「嵐の灯台」は王宮の背後からおよそ300キロ先の港の白亜の灯台を描いたものだった。王宮でその絵は評価され、サロンで引っ張りだことなった充津に初めて出会った。
 僕達には交流はなかった。挨拶を交わす程度で、彼が積極的に僕に関わることはなかったし、僕は猛禽類めいた鋭い雰囲気を持つ彼を苦手としていたのだ。


 充津の目はまるで、人の本質を捕えようとするかのように鋭い。
 あの日から、サロンで会うたびに彼は熱情を押さえきれないまなざしで僕を見る。あの告白の日までは、顔を合わせる度、挨拶を交わす度、そんな激しい熱を押し殺して僕を見ていたのか。
 サロンで会う毎、充津から積極的に声をかけられ、僕達の距離が急激に縮まったことは周知の事実となった。
 薄曇りの灰色の空、雨が降り出しそうな空気の午後。
 今日の伶項様のサロンには、色っぽい娘の姿はない。説が言うには、曇りの日は肌色が明るく見えないから人前に出て来ないのだそうだ。じゃあ、彼女は男の前で服を脱ぐ時、暗い所では脱がないんだろうな、と説が言ったのには、僕は冷ややかな目線を返しただけだった。
 僕と説がいつもと全く変わらず、手持ち無沙汰に酒を飲んで時間を潰していると、栖雁(すがん)が近づいて来て声をかけてきた。彼は銀細工の職人で、サロンで彼を知らない女性はいない。
「やあ、璃月、ここの所、珍しい方と話している所をよく見かけるな」
「珍しい方って?」
 馴れ馴れしく僕の方に手を回してきた栖雁は半分を髭に覆われた顔を近づけて来る。
「理(り)のご主人が大事に大事に抱えていた画家、璃月の作品は、まだ世に広く知られていない。だが閑様は理様が大事にしていらした奥方の肖像画をご覧になったことがある。それで君を引き取ったんだ。ところが最近、人物を描かないことで有名な充津と一緒にいるな」
 ああ、そのことか、と内心でため息をつく。
 何か詮索されやしないかと、臆病になっている自分に苛立ちもする。
「人物を描かないとは言っても、充津の観察眼や技術は素晴らしいでしょ」
 説が横から言ったが、栖雁は無視して僕の顔をのぞきこんでいる。
 顔色を見ているのだろうか。それとも汗を?
 いや、動揺を見せては駄目だ。
「彼とは話が合ってね」
「ほう、どのような?」
「ぎ……誼湾様のレットバルの戦役だ」
「あの絵について君達が何を語り合うというんだ?」
「たくさんあるよ。あの絵は当時の宮廷画家、磨(ま)が描いた。だが彼の弟子で後の神殿お抱えの画家になった吏世(りよ)が描いたという説もある。神殿の奥深く隠された彼の数々の作品のうち、年に一度の祭典で一般公開される『花舞いの午後』を一目見ればわかる。描かれた精霊王の面差しはレットバルの戦役の誼湾様によく似ていて、つまり、吏世は誼湾様をひそかに神聖視して王宮と神殿、どちらもに誼湾様を讃える絵を置くよう仕向けたのではないかと。師である磨も一役買っていたはずだ」
「なるほど、王宮の人間は民衆に公開される『花舞いの午後』を見に行くことはない。王宮の『レットバルの戦役』を民衆が見ることは出来ない。だが、崇めている顔は同じ、か」
 僕のなけなしの知識をしぼって捻出した話題に、思いがけず栖雁が興味を示した。
「だが吏世も、まさか誼湾様の血筋が否定される世が来るとは思わなかっただろうな」
 横からそう口をはさんだのは説だ。栖雁はすかさず否定する。
「いや、どうだろうね。吏世が生きていた頃からすでに無戸は勢力を大きくしていたから、いずれはこんな反乱が起きることを、なんとなく予想していたかも知れない」
「それもそうだな」
「レットバルの戦役が飾られている部屋は華結びの間。意味深と言えば意味深か……」
 説が口をはさんでくれたおかげもあり、栖雁は吏世の話に夢中になった。その後、貴族の奥方に呼ばれるまで僕達は吏世の絵について議論していた。
 栖雁は充津と僕との関係についてすっかり納得したというわけでもないだろうが、とりあえず今日は追及を免れることが出来たということだ。

 また画家の話を聞かせてくれ、と言い残して去っていった栖雁を見送りながら説は言う。
「君には驚かされる。よく、そんな逸話を知っていたな。レットバルの戦役の名が出た時は肝を冷やしたぞ」
「まさか僕だって、自分の首が危なくなるようなことを簡単に人には漏らさないよ。吏世の絵のことはとっさに思い出したんだ……」
「そうか。君は神殿近くの城下の出身だったね? だから知っていたのか」
「まあね。子供の頃、祭典で公開される神殿の宝物殿を見に行くことがとても楽しみだったよ」
「僕も今度、見に行こうかな」
「祭典の間は僕達は外出できないだろう」
「そうか。画家になってご主人様が付いたはいいが、自由は失われたということか」
「大袈裟だな。ご主人がいなければ絵は描けないんだから、僕は文句はないよ」
 ふざけた口調で嘆いてみせた説の言葉に僕は笑った。
 神殿には父親が連れて行ってくれた。
 その時に、人々の頭の間から見た、「花舞いの午後」。
 あの絵をもう一度見たいと望み、毎年、神殿へ行きたがった。だが父親は三年目には面倒になったらしく、連れて行ってくれなくなった。
 その時、だったかも知れない。
 見たい絵を見られないなら、自分で描いてずっと側に置いておけばいいんだと思ったのは。
 そうだ、僕が絵を描き始めた原点は、まさに花舞いの午後だった。


 表情と角度が違い、二つの絵が似ていると感じるのは人それぞれかも知れない。僕の顔は誼湾様に似ているとしても、花舞いの午後の精霊王には似ていないと思う。
 だが、柔らかな雰囲気だけはとても似通っていた。僕とて、密かにレットバルの戦役という絵には憧れている。充津が感じたような衝撃的なものではなく、どこか懐かしいという思いだ。それは幼い頃に憧れていた神殿の絵に似ていたからだろう。


 僕にももう一度、筆を取る時が来たのかも知れない。
 そう、憧れている絵を僕なりに書くならば、吏世のように今度は誼湾様の姿を花舞いの午後に似せて描く。どうだ、この二番煎じ。だが僕の心の奥底に、幼い頃から憧れの存在として鎮座し続けている神殿のあの絵の為なら、画家人生の全てを捧げても構わないだろう。
 ただし、本当に命までを失う気はないから、その絵は生涯隠していくつもりだった。
 閑様とて空蘭様の支持派だ。誼湾様を描くことに反対されるとは思えない。


 新たな絵の構想は、それからしばらく浮かばなかった。一世一代の絵にとりかかろうというのだから仕方ない。
 誼湾様の穏やかな顔を描く?
 それとも勇ましい顔を描く?
 何枚もの素描を描きながら構想を練っていても、これだと思うものはない。だがそうしていると、時間が過ぎるのは早いものだ。
 空蘭様の支持派による秘密サロンの日が来た。
 その日、説は主人の事情により参加することは出来なかったのだが、迎えの馬車だけはやって来た。
 僕一人で来るということもあらかじめ充津は聞いていたのか、いつもと変わらず僕をアトリエに迎え入れ、説のことなど尋ねもしなかった。

 僕がモデルを引き受けるとを伝えた時の、彼の表情を、僕はいつか絵にしてみたいと思った。押し隠しても出てきてしまう人間の歓喜の表情というものを見る機会は、そう無いのだから。


 だが、僕も誼湾様を描くことには充津は反対だった。
「君が同じ人物を描こうとすれば、モデルの時にも君の中にある誼湾様の表情や立ち居振る舞いというものが出てしまうだろう。僕の言う通りのモデルになってくれなければ駄目だ」
 というのが充津の主張だった。
 それについては、もう、サロンの他の参加者達など目に入らぬ勢いで僕達は言い合った。
 充津の気持ちはよくわかる。だけど僕とて、誼湾様を描くことを決意したからこそ、充津のモデルも努めようという気になったのだ。それを否定されたら、話は元に戻ってしまう。
 しかし充津の意見は曲げられなかった。
 僕と充津は互いに、憧憬し、目指しているものは同じなのだ。
 「レットバルの戦役」と、「花舞いの午後」。
 しかし違う。同じでありながら相容れない。
 僕達がそれぞれに自分なりの解釈を加えれば、全く違う絵になることは間違いない。そうなると、僕の絵が充津の絵に影響する。モデルをするのだから当たり前のことなのかも知れなかった。
 僕達は外が暗くなり、十六夜の月が中天に来るまでの長い時間、話し合ったのだが、結局互いに納得のいく答えは得られないまま、僕は屋敷を辞することになった。他の参加者などとうにおらず、二人きりでランプの明かりだけが灯るアトリエで渇きも空腹も気にせず語り合う、そんな情熱は久し振りのことだった。
 得心がいかずとも、僕達はなぜか充実した顔をして別れた。その時、お互いに胸の内には、あったのかも知れない。「彼ならば僕の意志をわかってくれるはずだ」という、自分に都合のいいばかりの思いが。


 それから三日ばかり、アトリエに篭もっていると、久しくお顔を合わせることのなかった閑様がお訪ねになられた。
 理様と親しくされていたので、僕は閑様とはもう7年の付き合いになる。まだ25歳の僕にとっては長いお付き合いとなる方だ。
 僕が住んでいるのは離れで、掃除、洗濯程度の面倒を見てくれる年をとった女性が1人だけいる。食事は気が向いた時に母屋へ赴いて、勝手口の女性に頼んで作って運んでもらう。
「最近、篭もりきりだと聞いたのでね」
 閑様はテラスで僕が入れたお茶に口をつけながらゆっくりと話す。
 放任されているようだが、掃除係の婦人はきちんと僕の生活を主人に報告しているらしいことを、その言葉で察した。
「新しい絵を描き始めたのか?」
 主人としては当然気になる問いだ。
 僕は閑様の目からさりげなく、色の薄い茉莉花の茶の表面に視線を落とし、黄金の蜂蜜を垂らした。とろみが茶に沈んでいく様子を熱心に見つめる振りで、
「はい」
 と重く答える。
「まだ、その……とりかかったばかりで、何も……」
「そうか。うん、良いんだよ。理から君を引き取って、もう何年になるかな。君の絵を、早く世間に認めさせたいと思っていたんだ」
 閑様は喜んで下さっている様子だった。しかし僕が今回描こうとしているのは、空蘭様の血筋と公礼名様の血筋の争いが終結するまで……恐らくは僕の生涯、表に出すことのできない絵だ。


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