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小咄
入道雲

燦々と降り注ぐ日光を開け放っている襖から感じた。周囲の山々から、夏の命の声が届く。風は熱と湿度を含み、いつもより重かった。


「今年は豊作になりそうだね」


そう呟くと、藤次郎は光り輝く中庭を眺め、眩しそうに隻眼を細めた。


「藤次郎様、」


開けられた襖の陰からよく知る気配を感じ、藤次郎の唇は意図せず弧を描く。優しいテノールを聴きながら、文を書くために手にした筆を硯へ戻した。


「入れ、小十郎」


迷いなく入室を許可し、陰から姿を現した相手に微笑みかけた。




《入道雲》




「冷たい御飲み物をお持ち致しました。」


普段より少し目元を緩ませた景綱は、漆黒の衣をきっちりと着こなし、主の前に現れた。
しかし、懲りずに女物の着物を着流す藤次郎を見咎めると、困ったように溜息をついた。


「藤次郎様…」

「ん?なんだい、」


景綱の言いたい事を知りながらも、藤次郎は分からないとでもいうように片眉を上げた。桜色の唇は一層角度を増し、黄金色の瞳は悪戯な光を灯す。
からかわれていることを察した景綱はゆっくりと瞳を伏せ、また一つ溜息を零した。


「お前はそんなに着込んで暑苦しくないのかい?」

「夏、ですからな」


煩わしそうに襟元を扇ぐ藤次郎に言葉を返しながら、景綱は藤次郎の近くに盆を置く。
その盆上を見て藤次郎は小首を傾げた。


「小十郎…これは?」

「少しでも涼を感じて頂きたく…」


金色で雀が描かれた黒い漆塗りの盆には、湯呑み程度の大きさに切られた青竹が乗っていた。青白い内側を透き通った水が満たしている。井戸から汲んできたばかりなのであろう、水の冷たさに青竹は少し汗をかいていた。


「ふーん、」


藤次郎は細く艶やかな指先を青竹に絡め、水を一口含んだ。咥内に入り込んだ水は清々しく爽やかで、竹の香りが鼻から抜けていく。暑さでぼんやりとしていた思考が、一瞬で醒めていった。
水面を見つめていた金色の瞳を上げ、猫のように細めると、藤次郎は景綱を見やる。その顔が綻んでいたので、景綱は心の中でほっと息をついた。


「なかなか粋じゃないか、面白い。流石、私の小十郎だ。」

「恐悦至極に御座います、」


2人で視線を交わし、静かに瞳だけで微笑み合っていると、廊下が何やら騒がしい。しかもその騒音は真っ直ぐこの部屋に向かっているようだった。


「あーつーーいぃいぃっ!!」


ドダドダと廊下を走ってきた騒音の元凶は、藤次郎の自室に着くなり断りもなく入室し、背を向けていた景綱にのし掛かった。


「あぁーーっ!いいなぁ!!梵なんか良いもの飲んでんじゃんっ!!ずりぃ!こじゅーろ、俺にも!俺にもぉっ!!梵だけずりぃぞ!つかお前暑苦しいな、なんでこんな日にがっつり着込んでんの?!あっつくないの?!?!」

「っ…成実!離れろ、殿の御前だ。それにテメェに飲ます水は無い。井戸でも行ってくれば善かろう。…汗臭い、」

「んな冷たいこと言うなよ〜こじゅーろぅ!!こんなに暑いんだから、汗臭いのなんて当たりま…え?あれ??あれれ??小十郎臭くない…寧ろいい香り…?」

「こらっ、嗅ぐな!」


景綱と成実は暫く言い争いをしていたが、ふと空気が変わった事に気付いた。過去の経験からいち早くその発信源を特定した成実は、ギリギリと音が鳴りそうな動作で首を回す。
こちらを睨み付ける黄金色に出会ったときは、思わず小さな悲鳴をあげてしまった。


「…成実、」

「あぁっ!ごめん、小十郎!じょーだんじょーだん。」


両手を挙げ、即座に景綱から離れた成実は堅い口調で口早に告げる。景綱に向けた言葉ではあったが、左右で色の違う瞳は藤次郎を見据えていた。
突然拘束から解き放たれた景綱は乱れた衣を直し、藤次郎に向き直る。藤次郎は瞳に薄暗い影を落としながらも、いつもと同じ柔らかい微笑みを浮かべていた。


「…お見苦しいところを、」

「いや、気にすることはないよ」


和やかな雰囲気がまた漂い始める中、成実は中庭側の壁に寄りかかる。
中庭から零れ落ちる光も届かぬそこは、暗い闇に支配されていた。
すっと目を細めた成実は、静かに空気を震わした。


「……猿が動き出してる、」


成実の言葉に、煙管を手繰り寄せていた藤次郎の動きが一瞬だけ止まる。しかし何事も無かったかのように、龍の細工が施された愛用の煙管を再び弄り始めた。
藤次郎の一連の動きを静かに見守っていた景綱は、立ったまま腕組みをして此方を見下ろしている成実を見上げた。成実の鉄錆色と栗色の瞳は影となっていて、その表情は窺えない。


「其の話は既に耳に入っている。」

「流石、天上の龍は天下の動きは承知済みってことか」


景綱が主の代わりに述べた答えは、成実にとっては想像し得たものだったらしい。満足げに口先を上げたのが、仄暗い中でも見て取れた。


「で…どうする?大将」


もぞりと身動ぎをしたをした成実は藤次郎をじっと見つめた。角度が変わったためその瞳に射し込んできた光は、あくまで鋭い。
射るような成実の視線と、労るような優しい景綱の視線を感じながら、藤次郎はゆったりとした動作で煙管に口付けた。恭しく瞳を伏せ、肺を膨らませる。


「…まだ早い。」


煙とともに吐き出された言葉は、ひどく簡潔であった。伏せられていた隻眼は何処か遠くを見つめている。
儚げな横顔を見つめながら景綱は、藤次郎には未来が見えているのかもしれないと感じていた。


「時が満ちるまで、爪を研ぎ牙を磨けばいい。…猿狩りはそれからだ、」

「りょーかいっ!」


一瞬だけではあったが黄金色の瞳に鋭い光が灯るのを見た成実は、それまでの雰囲気を壊すようにふざけた口調で言った。ぐぐっと背伸びをしながら、暗がりから熱を持った日光の方へ歩を進める。
中庭に行儀よく植えられた松の合間から、清々しい蒼色の空が見えた。山から伸びる真っ白な雲は、やがて雷雨を呼ぶのだろう。そう思えば、生暖かい風は徐々に雨の匂いを運んでいるような気がした。


「とりあえず俺はまだ重長には言ってねぇから。でも彼奴の耳に届くのも時間の問題だろ?彼奴なら誰かサンの為に闇に乗じて猿を狩りかねない…先走んねぇように釘さしてくれよな、」

「言われなくとも承知している。」


部屋を出る際に成実が残した言葉に、景綱はしっかりと頷いた。息子の重長は主に対する敬愛の念が強い。先の情報を成実が知ったということは、じきに重長の元にも届くであろう。彼が無謀な行動をとる前に、窘めておく必要があった。
―カンッと、心地よい音がする。いっそう碧さを増した山々を見つめていた藤次郎が、煙管の灰を捨てたところだった。藤次郎は山並みの向こうの天と地が交わった当たりを眺め、眩しそうに目を細める。


「今年は豊作になりそうだね」

「、えぇ。」


既に温くなった水の入った青竹は、漆塗りの盆に水溜まりを作っていた。ほんの僅かな水滴は、いつの間にか盆を濡らす程に大きくなっている。
景綱は更に重さを増した夏の風に目を伏せ、遠くで雷鳴が聞こえないかと耳を澄ませた。


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あきゅろす。
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