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NOVEL 天使の顎 season2’ OVERDOSEEXOCIA
27 *敗北/Loser*4
「うわああぁああああぁッ!!」

 半狂乱な声を上げてその触手に飛びかかったジョー、そしてそれをサポートする絹夜のオクルスムンディ。
 だが、一瞬早く動いた触手がジョーの足を突いた。
 じわりと赤いものが噴き出して、しかしジョーはその足でニャルラトホテプの体を駆け上がり、字利家を拘束していた触手の全てを断ち切った。
 全てを視界に収めていた絹夜はそれが、わざとやらせたものだと察しルーヴェスに視線を向けると彼は絹夜を一瞥し、ほほ笑む。

「どうして死にたがりのバケモノを助ける」

 ニャルラトホテプ、そしてルーヴェスからも距離をとったところで字利家を両手に抱えながら、動けなくなったジョー。
 ルーヴェスは単調に彼に問い、そして遠い昔と幻想を少年に重ね、絹夜もそれがどんな情景かわかった。
 『妖精王の箱庭』、いや『夢見るオベロン』で描かれていた光景だった。
 血に染まった愛する魔女を抱えた無力な魔術師。
 彼女が恐ろしい怪物であることは承知、それでも彼女の罪ごと愛してしまった。

「字利家……ッ」

 顔をくしゃくしゃにして涙を流すジョーは字利家の頬に額を寄せた。
 だが、彼女は裏切るように震える指先で、それでも魔剣を握ろうとしていた。

「もう、やめてくれ……! お前が腐敗の魔女を殺した事実はどうしようも覆らない!
 戦って、もしルーヴェスを倒して、それでなんになるんだよ!」

「私の誇りを、蔑にする気か」

「俺だって、あんたを失いたくないんだよ……。
 同じ気持ちなんだよ……」

「……勘違い、するな。逃げろ」

 真っ赤な唇で彼女はそう言って、ジョーの頬に血に濡れた指を当てた。
 その間にもオクルスムンディをかいくぐって触手が二人に伸び、ドリル状の先端が狙いを定めていた。

「そいつもそう言っている。どきなさい」

 ルーヴェスが彼らの正面に歩いてくるが、ジョーは動こうともしなかった。
 字利家を置いて歩くことは出来るだろう。
 しかし、彼はその場で声をしゃくりあげて泣き、何を考えたか字利家を地面に横たえると両手を地面に着いた。

「……何のつもりかね、君」

「お願いします! 許してください! 命だけは勘弁してください!」

 ジョーは額を地面につけてルーヴェスの言葉を待った。
 プライドなんかいらない。
 貴女が生きている世界が欲しい。

「君がそんな事をして意味があるのか?」

 ルーヴェスの言葉は淡白で、確かに穏やかだった。
 彼が直面しているのは鳴滝ジョーという青年ではなく、28年前、家族を失った魔術師だった。

「意味があるかなんて、わからないけれど!
 でも、この人の罪も罰も、全部誰にも渡したくはない……!
 お願いします、この人を許してあげてください! 俺が……俺が惚れちまった罪を許してください!
 ――愛してるんです……」

 ベレァナが恐ろしい魔女である事は知っていた。
 血の匂いのする氷結した心、優雅で残忍な秘術、魔女である絶望。
 その全てを美しいと賛美して愛した。
 あの時、この赤い悪魔と出会っていたら、自分もこうしていただろう。
 そんな中、字利家がずる、と魔剣を体に引き寄せていた。

「まだ醜態をさらすか。負けを認めろ、アザリア。私にではない、お前のプライドは愛に折れたのだ。
 いいや、我らは皆、愛に敗北しているのだ」

「……ふぁ」

 字利家は何か言おうと唇を動かしたが苦悶の表情を浮かべ、そして彼女の体から力が抜けた。
 がらん、と魔剣が彼女の手から落ちる。
 彼女の体が淡い緑色に発光し始め、ぽつり、ぽつり、と1と0の光が舞い上がり始めた。

「――ッ! 字利家! だ、ダメだ!」

 その光が彼女の魂の様なものだとわかったジョーは字利家の体に覆いかぶさって光が漏れ出さないように抱きしめる。
 吐息が止まっていた。

「うぅ……う……壊れる」

 己の心と世界が軋みだす。
 変容が起こり始めているのを絹夜は見た。
 体を震わせて、ジョーは乾いた笑い声を上げ始める。
 そしてなにかぶつぶつと唱え、彼女に唇を重ねた。
 狂っている。
 人の世界がぎしぎしと音を立てて壊れ始めている。
 ルーヴェスもこの道を通ってきたのだろう。
 愛しい想いが内部から腐らせ、心が死んでいく。
 ルーヴェスは28年前の己に語りかけた。

「十分だ」

 ルーヴェスがニャルラトホテプに合図する。
 すると、二人に向けていたドリル状の先端が掌に変わった。

「物語を紡ぎなおそう」

 ルーヴェスは胸ポケットから血の入った試験管を2本取り出し、片方は自分で飲み、もう片方は字利家の喉の奥に押し込んだ。
 すっとルーヴェスの目の色が青く輝き、そして目の淵から青い涙がおちた。
 レオから採取したアテムの血だ。
 ニャルラトホテプの黒い掌からはあらゆる数式が浮かんでは消えていく。
 字利家の体から溢れる光の一寸法数より圧倒的な速さだった。
 ぎゃあぎゃあと訴えるニャルラトホテプにルーヴェスが腕を広げて笑う。

「ああ、そうさ、酔狂さ。いいや、私は数式のストーリーテラー。
 与えよ、捧げよ、組み上げなせ! いいや、そんな力は捨ててしまえ! 地を這い続けるがいい!」

 まずい。
 ルーヴェスは字利家を再構築はするが”認識”を操る能力については戻さないつもりだ。
 しかし、この奇跡を止める事も出来ず、絹夜は天を仰いで額に手をやった。
 字利家は大天使として死ぬのだ。危機を防衛してきた機構が壊される。
 彼女にとって最悪の展開だ。
 彼にとって素晴らしい奇跡だ。
 げぼん、と音を立ててニャルラトホテプの体がへこみ、だんだんと字利家から流れ出す数字も弱くなっていく。
 項垂れていたジョーもようやく顔を上げ、ルーヴェスに問う。

「許して、くれるのか……?」

「”お前ら”の罪は消えんよ。しかし心打たれた。気が変わった。
 愛に屈服しあらゆるものを腐敗させた私が、同じくして屈服しただけだ。
 逆らえぬと、わかっただけだ。敗北していると思いだしただけだ」

 ニャルラトホテプがどんどんとへこんで、斜塔のようになったところでルーヴェスが収める。
 そして背を向け、校門に向かって歩き出そうとした。

「待ってくれ!」

 ジョーの言葉に振り返らずルーヴェスは足を止めた。

「ありがとう――ございます!」

「礼には及ばん。その女にとっては死ぬよりも、力を失い生き永らえる事が、辛いだろうからな。
 悔恨と安らぎの中で生きるといい」

 さらにルーヴェスは歩を進め、絹夜にすれ違いうとまたそこで足を止めた。
 絹夜も振り返らず大人しく彼の言葉を聞いている。

「お前は敗北してはならぬ……娘を殺せ」

「突然何を言いだすかと思えば――」

「私は恐れている。
 ゴールデンディザスターはただの反射眼ではない。全てを氾濫し略奪する黄金ナイルを模した目だ。
 見たもの全てを己の中で投影しする事が出来る欲望の邪眼だ。世に出れば誰にも止められはしない。
 ……”先見の魔女”が、近いうちにアサドアスルが娘と融合し、ゴールデンディザスターを持つ者が表の世界に現れるという確定未来を見たそうだ」

 確定未来。
 それは現在の状態から算出され、そのものの消滅さえ無い限り確定的に訪れる未来だ。
 レオは、生きている限りアサドアスルとの融合は免れられない。
 恐らく、その情報を得て法王庁は血眼になって彼女を消滅させようとし、さらには雛彦にまで圧力がかかっているに違いない。
 世界に点在する数千人の部下全てと弟一人を天秤にかけて部下を選んだのだろう。

「それとも、アサドアスルとなった彼女をお前の手で殺すかい?」

「……確定未来を覆す」

「ふふ、絶望の果てに美しい物語が生まれるといいな」

 そしてルーヴェスは再び足を進めた。
 確定未来。それが逃れられない未来と言う事は理解できている。
 ただ、彼女を失うわけにもいかない。


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