NOVEL 天使の顎 season2’ OVERDOSEEXOCIA
10 *人狼/lycos*3
「――――」
押し殺したようなくしゃみに思わず噂を立てられているんじゃないかと絹夜は深読みしていた。
当然、こうなってしまうと裏界に逃げ込むしかない。
冴えない天候の空、どろどろとした景色がようやく見える。
霧の濃さは相変わらずだが、すこしこの風景にも慣れていた。
午後に授業もないので帰っても良かったのだが出口で押し問答をするよりここで時間をつぶした方がいくらかいい。
屋上、人気のない世界に一人で気分がいい。
縛りつけられた孤独ではない。
自由で孤独だ。
穏やかだ。
魔法陣から少し離れたところで横になる。
ここは影もいないし、誰も干渉することがない。
寝よう。
思いのほか疲れていたのか、簡単に眠りに引きずり込まれた。
意識があるのかないのか自分でも分からない状態で光の中にすっと入っていくようなヴィジョンを見せられる。
耳鳴りがして目の前が開かれると、そこは何度も見たエレベータの中だ。
いつもなら自分は金網の手前で過ぎ去る階層を見てばかりだ。
だが、今回は違う。
青白い檻のようなエレベータの中央、背もたれの高い椅子に座ったままだった。
体がひどく疲れて重い。
動きたくない。
目のあけていたくない。
「それじゃあ、法王庁にいたときと同じじゃないか、ええ? 絹夜」
自分の声がそう呼びかけた。
目を開いても真っ暗だった。
歌が聞こえる。
重なりあい反響する聖歌だ。
「同じじゃない」
穏やかだった。
暗闇に怯えたり、束縛に抗ったりしない。
それが心地よいなら素直に受け入れるし、安らぎを覚える。
恐れていた。自分は傷つくことばかりを恐れていた。
今はその傷も、痛みも乗り越えられる事がよくわかった。
「あの時の……10年前のあの時間が……それから、アイツが教えてくれたことに間違いがあるなんて思ってないよ」
きっと、呼びかけるこの声は10年前変われなかった自分なのだろう。
穏やかな空気、優しい言葉の全てを恐れて不快に思っていた男だ。
どこか、心の中にそんな影が残っているのだろう。
わかっている。
自分は変わった。
だが、変わり切ったわけではない。
どういうわけだか、愛に怯えている。
ふと、目の前が灯った。
赤黒く仄明るい中に、ぽっ、と自分の体温が戻るのを感じた。
頬をくすぐる懐かしい匂い。
夜明けの匂いだ。
「…………風見」
目を開くとそこには長い金糸の髪を垂らした青い目の少女が自分を覗き込んでいた。
「裏界で眠ると精神が崩れますよ」
「…………イノリ」
上半身を起こすと、彼女はしゃがみ込んで覗きこんでいたようだ。
いつからそうしていたのか、睨んで答える相手じゃなかった。
「はい。お久しぶりです。黒金様
あなたの眷属の方がゲートの向こう側で待っています。
ゲートを開いて上げてはいかがですか」
「……もうそんな時間か……」
腕時計を見たものの、それはここに来た時間から狂い始めている。
拒む理由もない、絹夜は右腕を前に突き出した。
* * *
そのわずか数分前である。
屋上に向かったものの、絹夜がいないと魔法陣も開きようがないことに気がついたジョーは
何事もなかったように6時限目を過ごし、そして地理教材室に降りた。
レオはというとまた昼休みにクロウに追いかけまわされ午後は行方不明になったのだが、偶然廊下で合流する。
もしかしたら戻っているんじゃないか、その期待は部屋にたどり着く前、銀子が地理教材室の扉の前で待ち構えている時点で打ち砕かれる。
「銀子ちゃん、まだ追っかけまわしてるの?」
「あっ鳴滝くんと二階堂さん。
そうです、黒金先生とは一度とことん話し合うべきだと思います!」
とことん話し合う。
黒金絹夜に出来そうにない要望だ。
「銀子ちゃんが追っかけてる限り全力で逃げると思うんだけどなぁ……」
「絹夜って、頭いい癖に複雑な話って嫌いみたいなんだよね」
二人に言われて言葉を詰まらせる銀子だったが、振り払うようにプルプルと首を振るとジョー、レオの片手づつをとった。
何をするつもりだとぎょっとしてみていると、彼女はその手を迷子の子供のように握りしめて断固離すつもりがない。
「あなたたち、本当は黒金先生の居場所知っているんじゃないですか!?」
「えっ!?」
口を滑らせそうなレオの前にジョーが肩をすくめてカバーした。
「居場所知ってたらここに来ないよ。俺達も探しに来たんだから」
「そうですかぁ……」
それで手を離す銀子でなかった。
沈黙の中で銀子が首をかしげる。
「二人の手……なんか、変です」
「え?」
ぎょっとしてみると、銀子が掴んでいたのは二人の右手だった。
そこには影が宿っている。
判るのか!?
ジョーがぎょっとして、手を引こうとした。
だが、それはぴくりともしない。
「……二人とも、変です!! なんですかッ! これは!」
「やべぇ! レオ、逃げろ! 銀子ちゃん、何か知ってるぞ!」
「逃げろったって!!」
「無駄ですよっ!!」
ちょっと引っ張った程度だというのにレオとジョーの勢いが消されて後ろに腰をつく。
中学生程度の体になんて怪力を秘めているんだ。
木刀を慣れない左手で構えようとしたジョーだったが、銀子の手はすぐに離れて彼女は二人の間にしゃがみ込んだ。
「わっ、ごめんね! 痛いところない?」
「……い、いや、ないけど……」
顔を見合わせるジョーとレオ。
珍しくレオがピンときたのか、起きあがると同時に鼻を動かした。
何か匂いを探っているのかと思うと、彼女は銀子を指差して叫ぶ。
「魔力臭い!」
「…………お前、魔力を匂いでわかるのか?」
野生の動物にもそう言ったものを感じ取る能力がある。
説明不能な第六感が異様に発達しているレオにとっては第六感すら確信があったのだろう。
そして、魔力臭いと言われた銀子は眉をハの字にして困り顔だった。
「銀子ちゃん……本当に教師の云々語り合うためにきぬやん探しているの?」
「…………ち、違います」
早くも白状した銀子にジョーは肩をすくめ、妹にするように頭をなでた。
「じゃあ、なんで探してんのよ」
「…………私、病気なんです。きっと変な呪いにかかってるんです。
黒金先生は外国からいらっしゃったと聞きました。それに、あの物腰……本当は先生じゃないんじゃないでしょうか」
確かに、九門高校に魔術師がいると言われたら120%、黒金絹夜だ。
本人は隠したがっているのかそうではないのか、行動が派手すぎる。
「そんで、きぬやんに話そうとしてたのね。道理が通ってるっちゃ、通ってるけど」
レオは頷き、ジョーの考えに賛同した。
困っているなら仕方ない、それでも面倒くさ男が逃げるならそれまでだが、ほおっておくわけにはいかない。
「しょうがないなぁ。一応、俺たちもきぬやんが行きそうなところ程度なら知ってるから案内するよ」
「本当ですかぁ!?」
急に花のような笑顔になった銀子。
そんな素直な態度にジョーは弱いのかもしれない。
へらへらと笑いながらジョーは屋上に案内した。
ただ、後ろからついて行くレオはまだ疑いの眼差しで銀子を見ている。
屋上のドアを開いたところでそれに気がついてジョーはレオをからかった。
「まだ野生の勘が何か言ってるわけ?」
「なんか……落ち着かないって言うか……」
「レオの勘ってのが結構鋭いからイヤなんだよなぁ……」
かといって信用しきっているわけではない。
そのまま屋上に出てみると、気持のいい午後の空が広がっていた。
もちろん、そこには誰もいない。
いたとすれば裏側だ。
「きぬやんーッ! ゲートあけてー」
「ゲート?」
銀子の問いに答えず、ジョーとレオはその中心だろう場所に立つ。
銀子がそれを追いかけると、遅まきながら答える様に魔法陣が唸りを上げた。
「わッ!?」
その文様が光を放ち、目の前を真っ白に染め上げる。
銀子の悲鳴もそれにかき消された。
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