NOVEL 天使の顎 season2’ OVERDOSEEXOCIA
9 *蛟/Kelpie*4
何も、いらないと思った。
両親があっけなく死んでしまってから、たくさんの大人たちが来て好き勝手に処理していった。
知らない人たちが並んでいる葬儀、その中に入れなかった。
遠くから見ているだけで、献花するはずだった白いバラも手元に残ってしまった。
一人残った弟、大事な大事な家族。
一緒に布団に入ってたくさんの未来を語ったのに、それは簡単に嘘になった。
父の財産を狙った伯父が相続権を持つ弟の親権だけを強引にかっさらっていった。
要らない子供として一族全員から見放された。
暗い部屋。
二人だと少し狭いんじゃないかと思っていたアパートの部屋。
一人だと広い上に落ち着かない。
電気を付けずに何日も過ごした。
何にも、欲しくない。
暗い部屋の中、電話のコールが響いた。
レオは出る気にならなかった。
そのままコールが続くと、留守番電話に切り替わった。
『はい、二階堂です。ただ今留守にしています。発信音の後に御伝言をお願いします』
母の声が聞こえた。
少し割れていて変に聞こえたが、聞き慣れていたその声に涙が出てしまった。
留守番電話だとわかると電話はすぐに切れ、後に自分の泣くのをこらえる情けない呻きが残る。
「うぅう……」
悲しんじゃいけない。
きっと弟は、カイはもっとつらい思いをしているだろう。
生きねば。
悲しい事も、辛い事も一切合財まとめて背負って、一緒に生きねば。
体がひんやりとしていた。
目を開いても前が定まらない。
青白い瞳だけがじっと見ていた。
意識が遠のく。
抱きとめられている胴と唇の感触だけが熱かった。
* * *
水面、まるで馬の群れに対峙するようにばりばりと唸る稲妻を含んだ赤い焔が浮かび上がっていた。
束になったワニの影の真下、今だに浮き上がらない絹夜とレオ。
荒れ狂う蹄の下にも入れない絶望的な中に浮きあがった光を見るしかない。
「……なんですか、この強烈な」
ユーキの言葉に応えるように、その光は激しくスパークする。
そして、次第に形が浮き上がった。
手足、見たところ若干実寸よりも大きくはあるが女性のそれだった。
焼けた黒い肌に黄金色のラインが走っている。
黒い布きれと黒い髪だけが胸と腰を隠しているだけの派手な姿だ。
目元を覆う蝶の仮面の中でとがり気味な顎だけが覗く。
否、顎ではない。獣のように口が突き出しているのだ。
獣の頭を持つと女性の姿のそれは両手を握りしめた。
「……レオ!」
腕を伸ばし過ぎで隙だらけ、結局型は使わないでトリッキーな攻撃ばかりしてくるレオのそれと同じだ。
だが、それはさらに指先に力を込めると指と同じ太さの鍵爪を剥き出しにした。
「影……! 鳴滝君! これは、二階堂さんの影です!」
「ええッ!? おかしいじゃんよ! こんな、凶悪そうなネェちゃん今まで見た事もねいよ!?」
「命の危機に瀕して何かのタガが外れたのかもしれません!」
それにしてもとんでもない女王様を具現化したものである。
まるで日曜の朝早くやってる戦隊ものの悪役じゃないか。
ジョーが目を丸くしているうちに影は腕を引き、そして一気にワニの首に掴みかかる。
ワニの頭を一つかみにして格闘し始めた。
この異様な裏の世界の魔力を求めているのだろう、しかしレオの影はそれをまるで許さない。
抑え込み、プールサイドの端までおしやるとさらに食らいつくような攻撃を続けた。
強い、圧倒的だ!
ぼうっとしていたジョーの耳をユーキの声が貫いた。
「鳴滝君! 今のうちに!」
「あ! はい!」
ようやく絹夜とレオのことを思い出した。
浮き上がってくる様子のない二人をとりあえず水面に頭が出るように引っ張り上げると、朦朧としているようではあるが絹夜はレオを抱えて歩く。
そしてその絹夜の首にしがみついているレオの方は意識があるのかもわからない。
ただ、その向こう側では影がワニの頭を掴み振り回しひきちぎり、もう何匹固まっていたのかもわからない暴虐の限りだ。
「きぬやん、レオ預かるよ!?」
ジョーがレオの腕を取ろうとすると、絹夜がそれを払いのけた。
瞳孔が開いているかのような焦点が定まらない目で顔だけを向ける絹夜。
ぞっとしてジョーが大人しく手をひっこめていると、ぐらりとその体は前のめってそのまま倒れた。
「ッ!?」
沈むところを体で支えて、今度は二人一片に背負いプールサイドに引き上げる。
今のはなんだったのだろう、とにかく壮絶だった。
ジョーは黒金絹夜という男の底を見たような気がした。
ようやく引き上げられ、絹夜はすぐにプールサイドで水を吐いていたが、レオは顔に髪を絡ませたままだ。
「…………ど、どういうことなんですか、これは」
普段冷静なユーキもレオの様子に戸惑った。
息をしていない。
だというのに、顔色は変わらず、まぶたの下では眼球も動いているのだ。
生きている、だが、活動は停止している。
逆なら最悪あり得たケースだが、この場合は何が起こっているのかユーキにも判断がつけられなかった。
「きぬやん、大丈夫か」
「…………まぁな」
口元をぬぐい、外れかけていたメガネを直すと、すぐにケルピーの群れに目を向ける。
影の姿を見て、彼は驚愕でもなくふと微笑んだ。
わずか一瞬のその表情の意味が分からずジョーは言葉を失う。
「……とんでもないものを宿してやがったな、レオ」
「あれ、何……?」
「レオの心の底で形作られていた影だ。
人の精神が裏界では影となり、強ければ強いほど具体的な形となる。
さらに魔力が宿れば、ああもなる。エジプト神話のセクメトってところか」
絹夜はそのまま傍観しているつもりのようだ。
いいや、むしろ手を出さない方がいいかもしれない。
蹴散らし、引きちぎると次第にワニたちが小さく消えていく。
あれがレオの精神。
暴虐と守護の女神。
「少し乱暴な方法で覚醒をさせたからな……。
魔力を浴びせ続けた人間がいずれ身につけ、精神世界で発現する。
魔力中毒の末に生み出される具現体。故に、魔術師たちはこう言ってるんだ」
絹夜の横顔は不適だった。
顔色は青ざめて、さっきまで死の淵にいたことを物語っている。
だが、目だけは爛々と、青く激しくぎらついていた。
今まで見た中で一番深い青、海底から太陽の光を見上げたような透き通った青だった。
「――”オーバーダズ”と」
丁度、英語の授業で習った単語だった。
”中毒”、”致死量までの服用”、”過剰摂取”という意味だ。
レオがそれに陥ったというのだろうか、不安を顔に出したジョーの肩を小突いて絹夜はバカにするような嘲笑を浮かべた。
びびってんのか?
そんな余裕の表情だった。
どうして彼にそこまでの気力があるのだろう。
レオを抱えて歩いていた時、意識があったとは思えない。
だというのに。まるで命がいらないみたいだ。
黒金絹夜とは、己の痛みを厭わないほど優しすぎて、ちょっと頭がおかしい男なんじゃないか。
ジョーはそんな考えに至った。
そうして、冥界女神セクメトが暴れ狂う中で、とうとうワニの影の残骸も無くなった。
「二階堂さん!」
同時に、セクメトが肩越しに振り向き消えていく。
意識を取り戻したのか、レオの体も少しずつ動き始めた。
「うぅぁ……あー……あのぉ、その前にぃ……」
「?」
意味不明な言葉がうわ言だと気がついてユーキは容赦なくビンタを入れる。
パーン、と打ち抜かれたような音の後、レオはバネ人形のようにすぐにユーキに掴みかかった。
「いったーい! 何倍になって返されるかわかってんだろうな、オイ!!」
「へー。恩を仇でですか」
「レオ、大丈夫か?」
ふんっと視線を反らしたレオ。
彼女の視線が射抜いたのは体を引きずる静かなプールの水面だった。
「…………あれ? なんでいなくなっちゃったの?」
すっとぼけた事を言っているレオに疑いの眼差しを向けるジョーだったが、睨まれるとやれやれ、と肩をすくめ答えなかった。
今度は視線をユーキに向けたレオだが、やはり彼もいつもの困った顔つきになるだけだ。
「…………」
答えない二人にむっとしながらレオはおずおずと絹夜を見上げる。
すると、彼も溜息をついて答えてはくれない。
そのかわりに腕を差し出してきた。
「ほら、立てよ。タバコ吸いてぇんだ」
自分勝手な男だ。
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