NOVEL 天使の顎 season2’ OVERDOSEEXOCIA
18 *獅子/Lion*5
砂がエウァンジェルレオンの死体を飲み込み始め、絹夜は黒い泥の中に塊を見た。
息が上がって、体中ドロドロと重油のような泥だらけだというのに絹夜は走った。
砂漠の沈黙を締め付ける、緊迫と不安。
うずくまったそれを抱き上げ顔にこびりつく黒い水を払うと、浅黒い肌と長いこげ茶の前髪が見えた。
重い粘液音を立てながら自然に落ちていくエウァンジェルレオンの泥は意志を持つように砂漠に吸い込まれていく。
レガシィは――レオは一糸まとわぬ姿で、ようやく開いた目も焦点が合っていなかった。
傷だらけだった。
果実のような彼女の身体には自分と同じような戦う者の傷痕がついていた。
ジャケットを彼女の肩にかけた絹夜は座り込むレオの前に膝をつき、顔を覗き込む。
彼女は生きていた。
最果てのようなこの場所に戻って、愛する人をぶん取り返した。
恐ろしいエネルギーで目の前に立ちふさがったありとあらゆるものを粉砕した。
尽き果ててしまうのではないかと思える程に盛大に。
そんな彼女の目覚めに誰もが安堵のため息と笑顔をこぼしたその時だった。
「……うそだろ、レオ……」
絹夜の絶望的な言葉が落ち、彼の呼吸が乱れてもう一度叫んだ。
「嘘だ……!」
心も身体も限界のライン上の絹夜の前でレオは座ったまま瞬きすらしなかった。
彼女の虹彩は濁り、叫んでも喚いても反応一つ返さない。
「見えてないのか……? 聞こえないのか……?
レオ、応えてくれ、頼むから……!」
彼女はよろよろと立ち上がる。
しばらくまぶしい天空を貫くように見上げ、結局うなだれながらジャケットをぐっと握って、見てわかるほど震える足で歩き出す。
さく、さく、と砂漠の上をふらふら行く様が痛々しかった。
「レオ……」
彼女の目には何も映っていなかった。
彼女の耳には何も届いていなかった。
常闇に一人取り残されたままだった。
戦い続けていた。
彷徨い続けていた。
歯を食いしばり、泣くのを堪えながら、裸足で灼熱の砂の上を数歩歩くととうとう彼女の頬に涙がこぼれた。
暗闇、孤独、身体を焦がす灼熱の太陽、愛しい想いすら重い足枷。
次第に嗚咽が響き、それでも彼女の足は重たく儚く絹夜から離れていく。
壮絶な様だった。
愛し尽くせず蘇る身体は暗黒の檻。
迷子のように泣きながら灼熱の暗闇を彷徨い歩く。
それが永遠でも構わないと言わんばかりにどんどんと出口の魔法陣のある校舎から離れていった。
止めなくては。
彼女の孤独な戦いは終わったと、勝者など生まれないのだと。
「レオ、もういい!」
走って追った絹夜が彼女の背中から抱きとめた。
叫び暴れて腕を振り回すレオの両肩を取ってぐっと押さえつける。
「もういい、もう戦わなくていい! 俺はここにいる!」
小さな子供のように鳴き叫び、彼女は甲高く細い声で認識出来ない絹夜を呼んでいた。
目の前に広がるのは青と赤の極彩色の砂漠だというのに彼女は光も音も届かない闇の中。
絹夜はその情景をよく知っていた。
知っていたが怖くて意味を考える事を拒絶していた。
しかし彼女が教えてくれた。
恐ろしいのは暗闇ではなく、孤独だと。
自分が幻なのではないかと思えてしまう程の孤独だと。
ずっと誰かにそれを伝えたくて胸につかえていた。
自分は変わった、愛が何なのかはわからないが愛する事は出来るはずだ。
彼女が教えてくれた証明に、今こそ応えるべきだとわかった。
「お前は幻なんかじゃない……!」
両手を取って力づくに引き寄せる。
そっと唇を重ねて硬直するレオの身体を抱きしめた。
彼女がしてくれたように、優しく髪を撫でる。
もう聞こえないかもしれないが、絹夜はレオの耳元で唱えた。
「太陽を呼ぶことも、夜明けを導く事も、俺には到底出来ないけど、
暗くて怖い夜からも、悪夢からも、ちゃんと守ってやるから。
俺はここにいるから……」
彼女がそう言ってくれた時の安心感。
甘くとろけてしまいそうな気持ちが、今頃恋だと思い出す。
何度も繰り返して、何度も煌めいていた。
何度も何度も、何度も。
まるで自分が気持に気付いて素直に受け入れるその日を待っているかのように。
「わかったよ、レオ……俺、わかったんだ。
馬鹿だから時間かかっちまったけど、わかって……それで、お前に……聞いて、もらいたくて……」
それでも彼女の耳には届かない。
そのことを彼女は覚えていない。
それ以上言えずに絹夜の声も嗚咽に変わっていた。
彼女が興味なさそうにしていた遺跡を見せたかった。
一晩中とりとめのない話をして笑っていたかった。
ずっとそうして、明るい太陽の中を一緒に生きていけると思っていた。
――いいや。
「見せてやるし、聞かせてやる。
これから……」
レオの左手をとって涙にぬれた頬に触れさせる。
無理やりに微笑むと、彼女は焦点の合わない目を丸くしてかすれた声で囁いた。
「き、ぬや……」
不安定な足取りで一歩前に出て、両手を彼の肩に乗せると、こつんと額を合わせる。
「……っレオ!」
レオは左手でぺたぺたと絹夜の顔に触れ、それを絹夜は心地よさそうに目を閉じ震える指先の上から手を被せて頷いた。
子供のように鳴きながら、うーうー唸って胸に飛び込み頭をすりよせてくる彼女の甘えは柔らかく胸にのしかかる。
彼女は大事なものを失ったし、欲張って両方丸ごと手に入れられたわけではない。
それでも彼女が戦った事、そして甘えてくれる事に絹夜は初めての感情を覚えた。
焦がれてしまいそうな胸の火照り、彼女がくれた強くて優しいライオンの気持ちだった。
* * *
黒い可能性の死体の上、邪悪のレガシィは呟いた。
「”私”の中から私の可能性が消えたとしても、世界にしっかり邪悪の響きがこだまする。
その響きはいずれ”私”と私を巡り合わせる波紋になる。
やっぱり、連中の作ったプログラムには、理解が出来なかった。だから消去し損ねた。残ってしまった。
可愛い程に思い通りね」
そう、いましがた誕生した彼女こそが全ての黒幕。
何千年もの昔から自分が生まれるこの瞬間、そして未来永劫確率を渡り歩く邪悪のレガシィ。
そうして彼女もこの舞台を去る事にした。
「いこっか」
ちぃ。
一歩踏み出した邪悪のレガシィだったが、ふと彼の声を聞いた気がして振り返り見た。
遠い遠い過去、はたまた遠い遠い未来に聞いた呼び声だ。
「懐かしい……心が躍る。まるでまさしくあの時の恋心、私の愛した漆黒の人。
過去は鋼の番人。未来は虚ろな夕霧のヴェールの中。されどお前は獅子の様に歩み続ける」
そして彼女も獅子のように一歩を踏み出し、確率の彼方へと歩き始めた。
「またいつか会おう、私のレガシィ――私の”恋心”」
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