NOVEL 天使の顎 season2’ OVERDOSEEXOCIA
5 *病/Sick*2
光と影が連続した。
いいや、青白い影の方が圧倒的に多い。
むき出しの鉄骨の中、檻が持ち上がっていた。
いいや、エレベータだ。
出口のないエレベータがひたすら上がっていく。
時折、光の通路が上から下に流れていくがエレベータは止まらず同じ速度で登り続けた。
「本当に逃れる事が出来たと思うか?」
エレベータの箱の隅から声が聞こえてきた。
よく知っている声だ。
「本当に自由になれたと思うか?」
よく知っている自分の声だ。
影の中から絹夜は光を見つめる絹夜の背中に呼びかける。
影の絹夜の声はぼやけていて、だからこそよく耳に入った。
「お前は変わってなんかないさ。
そうやって、明るい場所を渇望しながら時間だけを積み上げちまう。
お前はどこにも行けないんだよ。お前は十年前から、どこにも行けないんだよ」
「ほざけ」
「真っ暗闇だったじゃないか。何度目覚めても。
罪が晴れても、お前の全てを保証しているのはお前の体を支配している魔女の血に変わりない。
お前がどんなに過去を忘れようとしても、証拠はしっかりと残ってしまっている」
「……俺はそんなにお喋りか?」
「無意識に分かっていたんだ。魔女の力を使いながら魔女の定めから逃げる事は出来ない。
ああ、都合よく忘れればそれまでさ。だが、お前の誇りはそれを許さない。
お前はもう、知っているんだ。”腐敗の魔女”の本能からは逃げられない。
だから、理性で抑えつけようとしているんだろう」
檻は繊細な模様を描いている。
飛び立つ二羽の鶴と月、香立つ、桜の匂い。
「俺は”腐敗”を受け入れる、一人で生きて、一人で死ぬ」
「不可能だ」
「今更明るい場所なんて欲しがらない」
「いいや、光を渇望しているのさ。乾いている、欲しがっている。
温かい愛情に飢えている。彼女の愛に興味を抱いている」
「俺は――」
気がつけば檻のようなエレベータ柵に手をかけて通り過ぎる光の通路を見ている自分の背中に呼びかけていた。
「本当に逃れる事が出来たと思うか?」
* * *
青白い薄暗闇の中、射るような光が部屋を二分していた。
「ッ!!」
夢の中の青さと同じ色だ。
気分が悪くなり、口元に手をやるが起き上がる事も出来ない。
吐き気を丹念にやり過ごし絹夜は上半身を起こした。
五月の後半、雨の日の早朝だった。
「…………」
洗面台の鏡に向かうと、生気のない自分の顔が映る。
絹夜は己の双眼を睨みつけた。
青い。
そして、だらりと青白いものが目から垂れ流れた。
高純度の魔力結晶が排水溝に流れていく。
絹夜は舌打ちを一つ残してリビングに戻った。
金曜の朝だ。朝、4時だ。
「…………」
教師として乗り込んだ事をこれほど恨んだことはない。
* * *
保健室に着くや否や、ユーキが目を丸くして駆け寄ってくる。
「どうしたんですか!?」
「別に、どうもしねぇ……」
「どうもしねぇ人がそんな青い顔でフラフラ保健室に来るわけねぇでしょう。
座ってください。コーヒーでも飲みますか? それとも紅茶にしておきます?」
「…………水」
ふらっとソファに腰かけ、絹夜は口元に手を持っていった。
パタパタとスリッパを鳴らし、言われたとおりに水をもってきたユーキ。
目の前に一杯に水が置かれ、だが、言った本人絹夜は水すら手をつけなかった。
「ずいぶんとお疲れのようですね。少し裏界に中てられたんじゃないですか」
そう言いながらユーキは向かいの席に座った。
世界でも指折りの術師、”真実の魔女”神緋庵慈の弟子にあたる彼の事だから相当な使い手ではあるのだろう。
しかし、彼はすぐに魔力を見せようとはしなかった。
当然だ。自分の力を見せるという事は自分の弱みを教えるという事だ。
疑わないと生きていけない。
中てられたのは裏界じゃない。
だが原因を説明する気になれなくて絹夜は適当に取り繕った。
「ここの裏界に触れてから、魔力の制御が利かなくなってる……。
物質化してあふれだす程だ、調子が狂ってるのは確かだな」
「貴方ほどの名のある魔女が力の制御がきかないとなると、大事ですよ。
制御装置か何かをつけていたりしますか? 壊れている可能性がありますよ」
「つけてない」
「……症状はいつから?」
「……今朝顕著になった」
話しているうちに気分が良くなったのか、絹夜は水を口に含んだ。
強い雨が窓を叩く。
今日は一日中冷たい空気に包まれているだろう。
「兆候としてはずいぶん前ですから……もしかして、ただ単純に体調不良と重なっているのかもしれませんね。
それで顕著になった可能性もあります。
とにかく、雨が強くなる前に早退する事をお勧めしますよ。今日は夜にかけて雨脚が強くなるようですよ」
「んなダゼェマネするかよ」
「…………言って聞かないなら押してやれって師匠に言われまして。
やっとその意味がわかりました」
苦笑しながらユーキは立ち上がり、棚から怪しげな紫色の液体の入った注射針を出した。
何も言わずに絹夜の腕をまくりあげ、隣に座る。
絹夜の顔も見ないで打つ気満々だ。
「おい、なんだこれ」
「注射器です」
「だからそういうこと聞いてんじゃねぇよ」
消毒液を含んだ綿を載せ、黙るユーキ。
「おめぇら、そう言うところ似てるよ」
彼の師匠、神緋庵慈の場合、隙あらば後ろから首筋ぶすっとやっただろう。
怪しげな紫色の液体を注射すると、ユーキはご愁傷様、と意味深な一言で微笑む。
”真実”の眷属は本当にタチが悪すぎる。
「これで午前中は立っていられると思いますよ。
午後には地獄を見ますけど」
穏やかな笑顔に地獄の単語。
ああ、そう、といつもの簡潔な返事をして絹夜は立ち上がった。
彼の言うとおり、早速少し気分が楽になったと思う。
頭はさらにぼんやりしてきたが、体は調子がいいようだ。
「黒金先生は今日のところ、4時限目まででしたから、すぐ帰れば間に合います。
他の先生方には僕のほうから言っておきますから」
他の先生、とはきっと菅原銀子のことなのだろう。
「ああ、わかった」
確かに会いつが絡んできたら厄介だと思いつつ、絹夜は肩をすくめた。
その注射が良かったのか絹夜は三時限目までまるでいつものように乗り越えた。
しかし、四時限目になるとすぐに調子が元に戻る。
そのときになって絹夜は自分が訓練を受けた特異体質であることを思い出した。
致死量きっかりの毒をもられても運がよければ助かる程度、それがかつて所属していた法王庁の最低基準だ。
いったいどうやって判定をしていたのかは今となっては定かでないが自分はその基準を越えていることになる。
「あの野郎、何打ちやがったんだ……!」
口の中で毒づきながら絹夜は四時限目の授業に足をむけた。
体力の限界を少しずつ魔力で補正する。
多少はそれで持つはずだ。
人前でぶっ倒れるなんてみっともない真似だけはしたくない。
プライドなのかガキっぽい達成感なのかわからないが絹夜は顔色にもださぬよう、授業を勤めた。
第一、この男の場合ある程度の奇行好き勝手は認知されている。
多少様子がおかしかろうと体調不良に気付く者はなかった。
授業終了後、世界地図を抱えて職員室に戻りそそくさと身支度を整える。
様子がおかしい事に気がついて銀子と山崎がお節介にも絡んできたが素直に具合が悪いから帰ると告げると
またしてもわーわーと騒ぐ銀子を山崎が諌めてすっかり解放してくれた。
やっと帰路だ。
いつもならバイクで20分の道のりなのだが、歩いてどこくらいか見当もつかなかった。
その上、傘もない。
「…………」
バイクで帰るのは危険と思いつつ、絹夜はそれを使う事にした。
学校敷地内にある、コンクリート造りの駐車場は、天井と床が柱で支えられているだけのお粗末なものだった。
生徒たちが自転車やらバイクやらを駐車し、教職員は別の駐車場があるにも拘わらず絹夜はここを使っていた。
単純に一口から近いからだ。
そこに止めてある黒光りのバイクにキーを刺そうとズボンに手を突っ込むが、よくよく考えてみれば地理教材室のデスクの中だ。
「面倒くせぇ……!」
気力がそげ落ちたところで、しゃがみ込んだ後ろから慣れた気配が近づいてくる。
レオ。
振り向かずともそれに気がつき、絹夜は立ち上がらずに相手からのリアクションを待った。
「黒金、なにこそこそしてんの?」
言い掛かりもいいところだ、と思いつつ口にしようと思うとまた気分が悪くなる。
彼女はどうせまたさぼりかなんかでふらふらしていたのだろう。
「大丈夫……?」
顔を覗き込んできたレオをにらみつけ、しかし彼女はすぐにしょげたような表情になった。
「あんたも、具合悪くなるんだ」
「うるさい。失せろ」
お前が原因なんだ。
体調不良が原因か、例の怯えか、震えてきた。
その上体が痛み始めてとうとう無理やり動かしていたものが言う事を聞かなくなりはじめる。
「……ダセェ」
しゃがみ込んで動かなくなった絹夜を見下してレオは腰に手を当てて溜息まじりにそう言った。
普通なら心配するし、そんなことを言われたら傷つくだろう。
だが、絹夜はかくかくと頷いた。
ダゼェ。
ホント、ダセェ。
悔しさがなけなしの力を与える。
立ち上がりまた雨の中校内に戻ろうとする絹夜をレオが引きとめた。
「そんな状態でバイク乗って事故らないワケないじゃん。
私が送ってってあげるよ」
「いらん」
「マジだせぇ、黒金。ぐだぐだぬかしてねぇで自分の限界知ったらどうなんだよ」
「…………」
まるで自分自身に言われているように感じた。
早く家路に就きたいところだがバイクに乗るのも危ないとわかっていた。
絹夜は急に大人しくなり、口を閉ざし始めた。
「いいエンジンつんでるんだからさ、大丈夫。
ところで、黒金ってどこ住んでるの?」
絹夜はぼそぼそと少し離れた所にある高級マンションの名前を口にした。
この学校からは近所という範疇にあるらしく、レオは名前だけで、ああ、とわかったようだ。
「任せな、はいこれ」
それだけ言うと、立てかけてあったビニール傘を絹夜に持たせた。
そして彼女はインチの大きいママチャリにまたがる。
「エンジンって……」
「私。何か文句ある? 文句ないなら後ろ座って。ちゃんと傘もってなよ」
「…………」
文句はあるのだが、絹夜は黙ってその後ろについた。
とりあえず、使えるものは使おう。
全部物質だ。全部化学反応だ。理性が全てを支配して、体の痛みや吐き気も全部分解すればいい。
発進してからというもの、ガタガタとする道路を遠慮なしに進んでいくレオ。
午後一番という事で人通りは少ないようだ。
水の音だけが街の中を行き来している。
歩道の狭い入り組んだ道、左右に曲がるものだからバランスを取るのがつらい。
揺れると気持ちが悪い。
「ちょ……てめぇ……」
必死に二人分の体重を運んでいるレオの胴に左腕を回し、背中に額を預ける絹夜。
見た目なんてどうでもいい、彼女が誰だかなんて関係ない。
早く楽になりたい。
ぱっとみはいちゃついてるカップルにも見えるが、よくみれば後ろは重症だとわかるぐったり加減で
軽蔑と同情という一番嫌いな視線がぽつぽつと突き刺さっている。
「ん? 黒金……頭熱いぞ! すごい熱あんじゃないの!?」
「……あと、どれくらい……?」
「まだ半分もきてねぇよ! 救急車呼ぶ?」
「……いい」
「あー、もう面倒くさいヤツだな、お前!! いいか、よく見とけよ!!」
見ているわけがないし、意識がはっきりしていても分からないだろうが、
レオの前に広がっているのは100メートルあろうかという上り坂だった。
立ちこぎ封印状態でペダルを踏んでいく。
「こおおおぉのおおおおぉぉお! のおおおおおお! にょおぉおおお!」
あと20メートルのところでレオは大人しく負けを認めて足をつき、よたよたと前進した。
あとは下り坂だ。
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