NOVEL 天使の顎 season2’ OVERDOSEEXOCIA
4 *遠呂智/Orochi*4
体調も良くなり、大事をとって今日も仕事を休んだと言うひとみからのメールを受信して正直不安になった。
実際大した傷ではなったのだが三日間の入院生活中に彼女が来ることは無かった。
結局クロウは連絡したのかもわからない。
あのまま看護婦さんにちやほやされる生活でもよかったのだが、ナース服を見るたびにちくちくと心が痛んでいた。
本当に嫌われたのかもしれない。
クロウもユリカも、みんなひとみに関する話題になるとよそよそしくなり、クロウは脂汗をかいて耳をふさぐ。
ただ、一つ聞いたのは銀子がおでん屋で見かけたとき、職場の男の人と一緒だったと言っていた。
渋沢だろう。
「ジョー! ぼさっとすんな!」
「すいません!」
「お前、ここんとこおかしいぞ。怪我はいつもの事だが、悩み事は困るな。また例の女の事か?」
「あは、いやぁ……まぁ最後にします」
「最後ってお前……」
「フラれたかもしんないんで」
けらけらと笑ったジョーだが、いつもの覇気がなく顔をそむけた途端に大きなため息を落としていた。
彼女も気がついたのかもしれない。
鳴滝ジョーという男では幸せになれないと。
幸せだといって彼女が微笑んだ事は無かった。
仕事終わりにでも少し話そうと思っていた矢先だった。
夕刻の中途な時間にガラガラと店の扉が開き、反射的にジョーは声を上げた。
「へいらっしゃー……」
のれんの下から警戒するように覗き込んでいるひとみだった。
数人の客もおり、申し訳なさそうに店の中を伺っている。
「…………」
手招きすると店の中に入るはいいが席に着こうとしない。
「ひえぇ、話にゃ聞いてたが、えらいべっぴんさんだな。
……ジョー、休憩やるから外で話しな」
大将が言ってから、まさかラーメン食べに来たわけではないという考えが浮かんだ。
店の裏手から出てすぐ、がうん、がうん、と厨房の換気扇が回り、道路の喧騒がやかましい店と雑居ビルの間。
ビールのケースが並んで決して綺麗と言える様な場所ではなかった。
そして言葉も出なかった。
夕陽の西日が近くの高層ビルの壁に反射していささかまぶしい。
いつもはパリっとした服装を好む彼女だったが、今日に限ってか白いレザージャケットにふわっとしたロングスカートとフェニミンな印象だった。
今日は特別雰囲気が違っていた。
それとは打って変わって、自分はここのところ便所サンダルにラーメン屋の割烹着、髪だって伸びっぱなしだ。
いつも同じ、一心不乱に突き進もうとしていた。
綺麗にしてどうしたんだ。そんな女が渋沢の好みなのか?
内心毒づきながらも適当な言葉を探した。
「体調、大丈夫?」
安直なはずの言葉が互いの口から出て二人は目を丸くした。
「ジョー……の方が、大怪我……?」
「はぁ?」
「大怪我して……意識不明だって聞いて……でも、今日行ったら退院したって聞いたからここに……」
伊集院ユリカが高笑いする様をジョーは思い浮かべていた。
自分の身の回りには余計な事をする奴と空気が読めない奴と失礼な奴ばかりだが、あの女は特別、ぶっちぎりに迷惑クィーンだ。
「とにかく良かった……いなくなったら、私たち……」
そう言って彼女はジョーの両手を握った。
か細くて、冷たくて、少しだけ震えていた。
彼女の言っている言葉の意味がよくわからないままジョーはひとみの頬に手を伸ばす。
彼女は夕日の黄金を目に灯してじっと自分の奥にあるものを覗き込んでいた。
いつもフィルター越しに実感のない世界を見ているような視線が、急に胸を貫いた。
生気のある表情で何かを訴えかけ、彼女の両手が耳の後ろに添えられた。
彼女の目の奥に何か壮大なものがあり、そしてそれが彼女の帰りたかった場所で、ひとみはそれを完全に打ち捨てた事をジョーは悟った。
彼女は自分が何ものであるのかを認めて、こちら側に来たのだ。同じ世界に属している、ようやくそんな実感が溢れてくる。
異様な、神秘的な光景だった。
彼女の唇は動いたが、そこに言葉が無く、彼女は黄金色の光の中で泣きそうな表情をする。
そっと頭が引き寄せられて額がくっつくと透明感のある声で彼女は言った。
「子供……出来たって」
綺麗な歌声だな、とジョーは思った。
雑多な喧騒、街の汚れた空気、ざらついたコンクリート。
場違いに存在する、天使の様な彼女の存在。
黄金色の愛しい光景が胸に焼きつく痛みに痺れて声が出ないまま彼女を抱きしめていた。
喜び、感動、そういったポジティブなものだけじゃなく、確かに不安もわき上がる。
「もう……俺を一人にしないでくれ」
ただ、漠然と、永遠の営みの流れへの結合、そんな奇跡が起こった気がした。
* * *
後日の事である。
病院屋上に呼び出されたひとみは干されたシーツの奥でたたずむ渋沢を見つけて一礼した。
「そんなかしこまった態度を取らないでおくれよ」
「急に長期の休みを取って申し訳ないと思って……」
全く申し訳なさそうではない無表情でひとみは答えた。
二人で並んで屋上の手すりから庭園を見下ろす。
猫が我が物顔で横断していた。
「全く、子供だと思って油断していたよ……トンビになんとやらってやつだね」
「は……?」
「いや、こっちの話さ。ともかく、おめでとう」
「……ありがとうございます」
確かに彼女の下腹は少しふっくらしてきていた。
何手も遅かったのだな、と渋沢は思って、そして単純な興味で聞く。
「あんな年下の子供で大丈夫? 生活出来るの?」
「金銭的には全然」
「…………」
それもまた無表情であっさりと答えたひとみのタフさというか無関心さというかに渋沢は噴き出して笑ってしまう。
その渋沢に疑うような眼つきを向けているひとみ。
「すまんすまん、ただ……君を笑顔にさせられるのは僕だけだとばっかり思っていたもんでね」
「そうですか」
いつもの機械的な返事をしてひとみは――しかし裏口に視線を向けてらしくもなくぎょっとしていた。
ぱからっぱからっ。
知ってはいるのだが聞きなれない音が耳に入る。
渋沢もそれを見て唖然とした。
「ひーとーみーッ!!」
そう叫んでいる白い馬の騎手は白いラーメン屋の割烹着、足元は便所サンダルだった。
ぶんぶんと赤いガーベラの可愛らしい花束をぶん回し、とうとう屋上にいる彼女の姿を見つけたらしい。
「……こんなことは言いたくないが……バカだな、君の王子様は」
返す言葉はもちろん、ひとみはぐぅの音も出なかった。
「ひとみー! 結婚してくれーッ!!」
白馬に乗った割烹着のラーメン屋店員(時給)が花束持ってプロポーズ。
シュールな光景を病室の窓から見ている患者の姿。
そして茂みの影には迷惑お嬢様伊集院ユリカとその下僕クロウ・ハディードが様子をうかがっていた。
「大丈夫なのかな、犯罪とかにならないのかな! 馬の持ち込みって大丈夫なのかな!」
「馬は車両扱いですわよ、大丈夫に決まっているじゃありませんの!」
「もう、なんでジョーくんも乗っちゃうかなぁ……」
「あの鉄面皮女は追い詰めないと、はいもいいえもいいませんわよ!」
ひとみの妊娠を聞いて鼻からラーメンを噴出した二人はその場ですぐさま目の色を変えて、責任取れと珍しく口をそろえた。
「大丈夫大丈夫、ちゃんと籍入れますから問題ナッシング」と笑っていたジョーにやっぱり二人は、簡単だなお前は! と口をそろえてた。
ということで休憩時間中に無理やりプロポーズという妙なシチュエーションになったのだが、場の空気はしんと静まり返っていた。
ジョーがひと通り暴れた後、屋上のひとみが完全に呆れかえっている。
ここでいつもの鉄鎚「バカか、お前は」が出たらこの作戦は失敗に終わり、しばらく対対に顔を出すのが気まずくなるだろう。
安いラーメンにありつけるとあってクロウとしてはひとみに穏やかな返事をしてもらわないとならない。
機能が完全停止したひとみにジョーは花束を掲げながら言った。
「幸せにする! 頑張るから!」
手すりを掴んだひとみは身を乗り出し、首を振って応えた。
突風の中、通りのいい声で叫ぶ。
「もう十分幸せ!」
風が髪を、シーツのヴェールを巻き上げる中、少し茜に染まった頬をした彼女は少女の様に屈託のない頬笑みを浮かべていた。
その笑顔を正面から見る事が出来ず渋沢は残念に想い、そして鳴滝ジョーという男の底力を見た。
そうか。彼は微笑ませる事が出来る男なのか。
踵を返して彼の元に向かおうとする、ひとみの足取りは背中に羽でもあるような軽やかさだった。
「……天使、ねぇ」
天使の頬笑みと生きる事を許された鳴滝ジョーに少し嫉妬しながらも、渋沢は庭園で抱きしめ会う二人を見て、微笑まずにはいられなかった。
それはまるで、少年と天使の絵画の様な光景だった。
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