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NOVEL 天使の顎 season2’ OVERDOSEEXOCIA
4 *遠呂智/Orochi*1
 春のぽかぽか陽気の中に揺らめく紫煙を追い、ひとみはじっくりとニコチンに酔っていた。
 先日買った箱の最後の一本だった。
 小さな街の小さな病院、裏庭でのベンチで薄桃色のナース服を着た清楚な看護婦姿のひとみを見つけて渋沢は苦笑した。
 看護婦と言ったら可憐で優しくて、天使の様な存在をイメージする人間、とくに男性は多いだろう。
 特に彼女はとびきりの美貌と儚げな雰囲気を持つ神秘的な女性だが、休憩中にはぶつぶつ独り言を言いながらプカプカとタバコを吸っている。
 最近さらに彼女の態度は荒れ、遅刻と不注意が目立ち、その上彼女を慕う男まで現れ始めた。
 看護婦長からしたら面白くないだろうが、もう少し耐えてもらわなくてはならない。
 なんせ、彼女が無理をして出勤しているのは事実で、さらに結婚適齢期の女性の周りに男がちやほやするのはおかしい事ではない。
 タバコを根元まで吸って口を半開きにしたまましばらく呆けると彼女はようやく膝に乗っていた可愛らしい弁当箱を開いた。
 すると不思議な事にどこからともなく野良猫が何匹か集まってきておかずの魚をせびっていた。
 おだやかな緑の中、人の視線から逃げるように裏庭で食事をする字利家ひとみはいつもより少し無防備な表情をしていた。
 とうとう野良猫に鮭の切り身を横取りされたが彼女はその猫の頭を撫でて満足そうにほほ笑んでいた。

「ねこねこ」

 本当に綺麗な光景だった。
 猫を撫でてはねこねこ、犬を見てはいぬいぬ、鳥を指さしてはとりとり。
 人間に対しては絶対に使わないような声色と表情で動植物と戯れる。
 そんな彼女との初の会話はひどいものだった。
 赴任してきたばかりの渋沢は、ひとみに動物が好きなのかと聞いた。
 するとひとみは、余計な詮索をしないから、と棘のある返事をしてその上鼻で笑って去っていった。
 48時間勤務をしても平然としていた彼女にロボット説なんかも浮上したが、ここ最近は人間として正しい挙動になり、
 病院としては新たな夜勤の看護婦を雇わなければならないと焦っている。しかし渋沢栄一郎はこそばゆい気持ちになっていた。
 猫を撫でているうちにまた別の猫にシュウマイを奪われて
 あっという間にひとみの小さな弁当はウィンナーが消滅した野菜炒めと白メシだけの寂しいものになっていた。
 野良猫にいいように食べ物を奪われながらもひとみは黙って白メシだけの弁当を口に運んでさっさと蓋を閉めると、
 ぶち模様の一匹を膝の上に置いてその両手を握り子供をあやすように上下に振っていた。

「ねっこねっこ」

 ぐりぐりと額を眉間に押しつけられて猫は酷く迷惑そうな顔をしたが明日のご馳走が欲しいか大人しいものだった。
 普段は触れれば切れる剃刀のような態度で患者も震えあがらせる美人看護婦でどうとっついたらいいのかわからなかったが、
 あれが何かに恐れをなしている結果だと知ると急におかしくなって渋沢は彼女に好意を抱くようになった。

「肉球肉球」

 猫の耳が平らになり、表情がどんどんと不機嫌になっていくのに対し、ひとみは上機嫌になっていく。
 猫には悪いが彼女の機嫌があからさまに上り調子になったタイミングで渋沢は彼女の座っていたベンチの隣につく。
 面白い事に不機嫌極まりなかった猫と上機嫌で鼻歌でも飛びだしそうだったひとみは、はっと同じ顔つきで警戒の視線を向けた。

「君たち、そっくりだねぇ」

 冗談を言うと猫は退散し、ひとみは弁当箱を袋に詰め直して立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待ってよ! そんなに冷たくする必要ないじゃないか」

 彼女の腕をとり静止させると、ひとみはぽかぽか陽気の逆光の中で強烈な敵意の視線を返してきた。
 以前は「はぁ」、「そうですか」、「わかりました」程度の返事はしたはずなのだがここ数日、体調と共に機嫌が悪いらしい。

「私が必要のない事をするとでもお思いですか、栄一郎先生」

 超怖い。
 そう言えば一か月前に中学生の入院患者がそう言って騒ぎ、その親が担当を代えてくれと訴えてきた事があった。
 その時はなんて大げさなんだろうと思ったが、いやしかしこれは怖い。
 カルシウム足りてる?
 そんな二の句も飲みこんで渋沢は真面目な顔をして言った。
 これは彼女に対して絶大な効果を発揮する殺し文句だ。

「飲みに行こうか」

             *                      *                     *

 渋沢は三年前に自分の父が院長を務めるこの病院に赴任してきた時の歓迎会の事を覚えている。
 院長の奢りだときいてはしゃいだ職員たちだったが、会計の時にぶっ飛んだ金額をはじきだした原因は字利家ひとみだった。

「私はぁ、このまま消えてなくなる……!」

 負傷兵士の遺言のようにぜぇぜぇとネガティヴな事を言ったひとみに渋沢は笑った。
 近所でも評判なおでん屋で仕事帰りのサラリーマン達で賑わう中、カウンター席で渋沢とひとみも並んでおでんをつついていた。
 だが、ひとみの皿の上からはいつまでたってもがんもどきが消えず、また一升瓶も増えていった。
 顔も頬が真っ赤になり、なんども頭をかきむしったせいで頭もぼさぼさ、どこからどう見ても酔っ払いだ。

「本当によく飲むねぇ」

「飲んで、飲んで、脳を押しだすんだ」

「…………?」

「帰りたい……帰りたいぃ」

 そう言いながらテーブルに伏して痙攣した手でグラスを傾けていた。
 彼女の腕が滑り空になった一升瓶がガチャガチャと危なげな音を立てて他の客の視線を集める。

「ひとみさん、なにか悩みごとでも?」

 そう切り出した渋沢にひとみは死んだ魚のような目を向け、そしてだんだんと表情を崩した。
 泣きながら弱味を言えば落ちたも同然。
 優しい言葉を選びながら極力いつもの態度を崩さないでいると思いがけない言葉が思いがけないところから飛んできた。

「あーッ! ひとみしゃんですぅー!!」

 こちらも偉く酔っ払ったろれつの回らない女性の声である。
 そしてビール瓶を片手にした子供かと見違う程小柄な女性が渋沢とひとみの間に入ってきた。

「おっほ、ほれれ? ひとみしゃん、浮気中れすかぁ?」

 そう言いながら小柄な女性はどくどくとひとみのグラスにビールを注いだ。
 どうやら知り合いらしく、ひとみの口が何かを言おうとしたまま停止した。

「あーもう! あーもう! ちょっと! 菅原先生! 布巾、布巾持ってきてくださいよ!!」

「ほわたぁ! ただ今ぁ!」

 と言いながらカンフーのファイティングポーズをとり、そして今にも酔拳を披露しそうな小柄な女性から青年がビール瓶をひったくった。
 中華風のシャツに長い髪を垂らした眉目秀麗な青年は小柄な女性の襟首をつかまえながらひとみの顔を覗き込む。

「ホントだ。こんばんわ、字利家さん」

「どうも」

 小さく挨拶した彼女の反応からして知り合いといえば知り合いなのだろう。
 彼らがいたであろう席では浅黒い大男が店員と一緒にテーブルにぶちまけられたビールを拭いており、
 小柄な女性がやらかした結果なのだろう。
 テーブルが片付くと、浅黒い肌の大男もやってきて話に入ろうと無遠慮に聞いた。

「お知り合いで?」

「あじゃりや、ひとみしゃんでぇーす」

 青年の手を振り払いひとみの背中に抱きついて菅原銀子はケタケタ笑った。

「っは、ほほ、ひとみしゃん、いいにほい」

 やりたい放題の銀子が全く相手にならない事を察して巨漢の山崎が赤羽有紀に助け船を求めた。

「ほらぁ、前にちらっと話したじゃないですか。鳴滝君の」

 これ、といってユーキは小指を立てた。
 目を丸くした山崎は無言の悲鳴を上げて頭を抱える。その姿はまさしく発狂したゴリラだった。

「何で彼女にする前に俺に紹介してくれなかったんだ、あいつ」

 若干言っている意味がわからずユーキはとぼけて天然ボケをスルーし、今度は渋沢に顔を向けた。

「すいません、ウチの子がお邪魔して」

「こどもじゃないれすよぉ!!」

「あーっと、職場の方ですか」

 幾許かまともな受け答えをしそうなユーキに頷き返すがそこにひとみが意味不明の否定を被せてきた。

「違うッ!!」

 店内を凍りつかせるほどの怒号だったのだが、渋沢は半笑いになりながら極めて冷静につっこんだ。

「……いや、違わないでしょう」

 自分で言っていて虚しくなった。
 渋沢の一言で場の空気は戻るのだが、ひとみは全く別の事をぶつぶつと唱え始めた。

「タバコも酒も、今日でやめる……」

「おお! 禁煙禁酒ですかぁ!? ひとみしゃん、偉い! これを機に真人間になってくだしゃい」

 極めて失礼な事を言った銀子だが、ユーキもその意見には賛成らしく腕を組みながらしみじみうなずいて、そうですねぇと感嘆の声を漏らしていた。
 真人間になったとしたら面白くないのだが。
 内心渋沢な想いつつも出来るだけ早く彼らに退散して欲しくて口を挟まない事にした。

「教え子に先を越されるのだけはなぁ……」

 山崎の言葉からして、彼らは鳴滝ジョーの教師なのだろう。
 なんだ、本当に子供じゃないか。
 彼もタバコや酒と一緒なのかもしれない。
 彼女にとって嗜好品の一つなのだろう。
 そんな推測が立つと渋沢は自然に機嫌が良くなった。
 結局彼らが絡んでいるうちにひとみが潰れ、詮索好きな教師たちも自分の席に戻っていった。
 車で彼女の自宅へ送り、歩けなくなった彼女に肩を貸して廊下を歩く。

「ひとみさん、鍵、鍵」

「んん……」

 そう言って鍵を開けさせリビングに入る。
 そこは暗くて例の少年もおらず、安心した。

「気持ち悪い……」

「飲み過ぎ」

 ほぼ何を言っているのかわからないひとみはジャケットを脱ぐなりベッドルームに入ってそこで横になった。
 デジャヴを感じる光景に渋沢は笑う。
 ここでインターホンが鳴ればきっと彼が来るのだろう。
 やかんを火にかけお湯を沸かし、ベッドルームの彼女の様子をうかがう。

「ううぅ……ぐるぐるする……帰りたい……」

 首とこめかみに指をあてて軽く指圧すると、ひとみの呻き声は少し治まって楽になったようで、安心したような甘い溜息が混ざった。
 額に乗せた腕をどかしてそっと前髪をかきわけると、彼女のまつ毛は濡れて落ちたマスカラが頬についていた。
 何でそんなに窮屈で苦しがっている。
 脳を押しだすってどういう意味だ。帰りたいってどこに帰りたいんだ。
 彼女はいつも異国の路頭に暮れているようだった。
 誰の言葉も外国語の様にあしらって、知っている単語で受け流していた。
 自分の生きている世界をこれほどまでに蔑にする失礼な女は見た事が無い。

「シャワーを浴びて汗をかけば酔いは醒めるよ」

「……ばか」

 それでも君は美しい。
 この世のものではないからこそ。
 か細い手を握って身を乗り出し、渋沢はひとみの唇にそれを重ねた。
 彼女は重なる唇の間で呻くように言った。
 ジョー。

「…………」

 ひゅううううううぅぅ。
 沸騰するやかんの音にはっとなり顔を上げると彼女はぐっと腕を伸ばして震える声で謝った。

「すまない、ジョー……今の私は……」

 ずるりと落ちる彼女の手。
 呻き声の代わりに泣き声が混ざり、渋沢は彼女が思いの外追い詰められているのを知った。
 キッチンに戻りやかんの火を止める。
 適当な湯呑を探していると、おおよそ彼女の趣味とはかけ離れた和風陶器のコップが一つだけあった。
 彼女は彼を拒んでいた。その彼のものだろう。
 興味とサディスティックな期待でそれに並々お茶を注いで彼女の枕もとに置いておく。
 もしかしたら心が壊れてしまうかもしれない。
 いいや、彼を含む彼女など、一度壊れてしまえばいい。

「今日は何をしているのかな、鳴滝くん」

 玄関先でつい嫌味が出て、彼を拒絶したひとみの言葉がはしゃぎまわる子供の様に何度も脳裏をよぎり思わず渋沢は笑った。
 タバコも酒も男も手放してリセットされる彼女に期待していた。

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