NOVEL 天使の顎 season2’ OVERDOSEEXOCIA
1 *再再来/ReReturn*2
その男とは、というと彼女が乗っていたカニ漁船の数キロ先、都市の真ん中にあるホテルで行われているパーティに参加していた。
ニツワ上海はともかくとしてロゼッタ社や上海の大手企業の重役が顔をそろえている。
この分だとニツワ上海は吸収、そして消滅という道を辿るのだろうが、どこにでもある玩具の子会社としては名目上だけでも吸収合併は華々しい最後である。
これは、ロゼッタ社に対するおべっか、そして牽制の意味合いで開かれているパーティなのだ。
バーカウンターを含むそのフロアを全て貸し切りにした盛大なパーティだったがその主役であるはずの若社長は窓ガラスから夜景を見ていた。
元々群れる事を嫌う若社長だが、その代わりにうまく取り入るのがその部下たちである。
窓ガラスに金色のドレスを纏った女が映った。
少し小じわが浮いているがモデルだと言われても疑わない美貌だったのだが、眉を吊り上げて大声を上げている。
「頼んだものと違うじゃない! あなた、仕事する気あるの!?」
ヒステリックは女の魅力を半減させる。
そのいい一例だな、と若社長――エリオス・シャンポリオンは思った。
ドレスの女の前ではメイドなんだかウェイトレスなんだか微妙なところの格好をさせられた女性従業員がペコペコと頭を下げている。
顔の三分の一も隠れる品のないメガネをかけた冴えない娘だが、スカートから伸びる足はすらりと長く、また胸も大きかった。
四十手前の仕事女がガミガミ怒るのにはもってこいだ。
「すぐに新しく――」
「いいわよ!」
そう言いながらドレスの女は女性従業員の持っていたプレートから細長のグラスをひったくる。
恐らくはシャンパンでも頼んだのだろう。
だが、女性従業員が持ってきたのはパイナップルカットの入ったジュースみたいな飲み物だった。
「エリオス社長」
呼びかけられてようやく振り返ると、女は何事もなかったようににこやかな笑みを浮かべている。
差し出されたパインの飲み物を受け取りエリオスは軽くため息をついた。
「また追いかけてきたのかい」
「私社長の大ファンですもの」
彼女はアーメイデル。フランスのそこそこ大きなファッション雑誌社の編集長だ。
公式のパーティには大体現れ、そのたびに衣装を変えるものだからエリオスの記憶には薄かった。
ここ最近顔と名前、そして性格が一致するようになった。
パインの飲み物を一口。子供っぽい媚びた味が逆に新鮮で、飲み飽きた高いだけのシャンパンよりずっとおいしい。
だが、アーメイデルもそれを口にして目元のシワをさらに深く刻んだ。
そしてキッと奥でプレートを盾に構えている女性従業員を睨みつける。
女性従業員の方はその視線をプレートでガードしているようだった。
「全く……若ければいいってものじゃないのよ……」
若いと若くないだったら若いほうがいいのだが。
エリオスも返す言葉を口の中に留めた。
視線を宙に投げていると彼女は嫌味が聞こえなかったと思ったのだろう。
急に笑顔と猫なで声を作り、エリオスの隣を陣取った。
「今日は素敵なネクタイをしていますのね。スーツも最新もので。流石は、よくお似合いです」
「プロにそう言ってもらえると安心するよ」
「社長がハンサムだから、洋服も映えて。取材しがいがありますわ」
「またまた、社交辞令を」
実際、エリオスは彼女の雑誌に取り上げられる事がしばしばあった。
セキュリティ開発を自ら行う頭脳、モデルに引けを取らない容貌、そして弱冠24で手に入れた社長という肩書。
神が二物も三物も与えたとしてセンセーショナルな扱いをされた事もある。
鉄壁王、ともてはやされる事も多くなった。
エリオスもまんざらではないので彼女の取材を受ける事もあったがここ最近はどうも彼女の私情が優先らしい。
メモ帳も出さずにグラスを片手にうっとりとした眼つきでエリオスの茶色の髪を見つめていた。
美しいブルネットの青年だった。
「そんな眼鏡じゃなくて、コンタクトならもっといいのに」
アーメイデルはそう言ってエリオスの眼鏡に手を伸ばしたが、エリオスはそれを優しく払う。
とにかく眼鏡に触られるのは嫌いだった。
正確には視力が悪いわけではなく乱視なので見えないわけではないが、変身ベルトを取られたヒーローのような気分になってしまうからだ。
その様子にもアーメイデルは薔薇の様な唇で微笑み、グラスをそこにもっていく。
だが、それが彼女の口には甘すぎるものなのを忘れていたのか、またしても嫌な顔をする。
キッと女性従業員を睨むと、彼女はガタガタと不安をあおる動きでアーメイデルの前に出てプレートを差し出した。
当然の様にアーメイデルはそこにグラスを置き、女性従業員は申し訳なさそうにエリオスにもプレートを向ける。
「ああ、僕はこれでいいよ」
親切で言ったつもりだった。
「……え?」
刹那、女性従業員はその申し訳なさそうな雰囲気をがらりと変えて酷く落ち着いた呼吸を吐き出した。
ほんの一秒にも満たない瞬間だがエリオスにはその仕草が妙に引っ掛かり――だが、次の瞬間には彼女が持っていたプレートが平面から垂直になっていた。
ガシャン!
「きゃ!!」
ビクリと体が過剰に反応してエリオスは平静を保つ事に集中した。
気がつくとアーメイデルの顔色が青から赤に変わるところだった。
「何やってるのよ、あなた!!」
自分が怒られたんじゃないかと誰もが視線を彼女に向ける中、太ももに冷たい感触がして首を折ると女性従業員が抱きつくようにしている。
大きく開いた胸元、谷間が覗いた。
「申し訳ありません! すぐにクリーニングの手配をします!」
エリオスの着ていた白いスーツにはパイナップル色のしみがジャケットの裾からズボンにまで走っている。
それをプレートの上にのっていた布巾で女性従業員が懸命に拭っていたのだがアーメイデルがそれを突き飛ばした。
「あんたね! そんな床に落ちた布で拭いていい服だと思ってるの!?
ちょっと! 誰かこの子どうにかしなさいよ!」
部下もきっとこうやって怒られているんだろうな。
あまりのヒステリック加減にエリオスは口を挟む間もなく奥から支配人らしき人物が出てきて真っ青な顔をしている。
ターゲットを女性従業員から支配人にかえたアーメイデルのガミガミがどんどん大きくなっていった。
女性従業員はと言うとぐずぐずと鼻を鳴らしながらプレートをグラスを持って奥に引っ込んだようだ。
「あの、アーメイデルさん……あまり、騒ぎ立てない方が。
スーツは問題ないです。替えのものもありますし、どうせ一度しか着ませんので」
「……あら……でも、私は社長の為に……」
「あの子にもあまり気を落とさないように言ってあげてください」
とりあえずいい人ぶっておこう。
スーツに大して興味が無いのも、替えがあるのも事実だった。
あまり熱心になっても印象が悪くなるだけだ。
それに、悪い例を目の前でやられて自分もそうなるつもりはない。
すると、支配人はほっとしたような顔になり、しかしすぐに首をかしげた。
「……”あの子”、と言いますと……?」
「ほら、女の子。眼鏡の」
ただの「?」の疑問符がだんだんとぎょっとするような顔つきになった。
そして支配人は近くの従業員をつかまえてこそこそと何やら話して戻ってきた。
「生憎、今夜は他のフロアでの催し物の関係で、こちらのフロアでは女性従業員に配膳係をやらせておりません」
「……え?」
「散々迷惑をかけておいて、従業員じゃないって言うの!?」
アーメイデルの口に火がついた。
そこでエリオスはおかしな感触に気がつく。
いつの間にか、持っていたグラスが無い。
しまった。
腹の底からそう思ったが言葉が出なかった。
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