NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
13 *兄弟/brother*4
非常灯の緑が不気味に照らす廊下で、裂は足音を響かせていた。
この誰もいない静寂、自分だけが反響する空間が好きだった。
日中は低俗な連中が騒ぐだけの場所もこのときだけは神聖な場所と化す。
だが、それを害して、別の足音が前方から響いていた。
闇に目を凝らして、それが顔見知りだとわかると、裂はメガネのブリッジを持ち上げて足を止める。
「一体、何の用でしょうか?」
非常灯に照らされた痛々しい包帯と眼帯。
長身のわりに細く鋭い躯体は壮絶な殺気を放っていた。
「牧原。お前は少々やりすぎです」
「おやおや、いきなりご挨拶ですね。何か、と、聞いているんです」
鼻で笑うように、しかし、全く笑みを浮かべず殺は指を鳴らす。
その背後からは赤い目の狼たちがぞろぞろと姿を現した。
「な、何のマネですか!?」
「知らないとは言わせない!」
そうして殺の横に白銀の、他より大きなウルフマンが闇からそびえた。
絶えず犬のように吐息を慣らす黒い狼と違い、白銀は精悍な顔立ちをし、ただ黙って裂を見ている。
「黒金に手を貸して白銀を狩ろうとしたらしいではないか。今、私がウルフマンの歩兵を集めている時期というのに、お前は頭である白銀を狙った。
これは重大な反逆行為だ。お前は何のために魔女部の経理という立場にいるのか分かってはいなかったようだな。
所詮は字利家の穴を取り繕うだけのお飾りということだ。厚顔不遜にもほどがある!」
「字利家の、穴を……? フン、字利家が抜けて慌てたのはあなた達でしょう。せっかく取り繕った穴をどうしようというのですか?」
「貴様にはもう用は無い。部長もこの件は私に一任なされた。
字利家が帰還する以上、お前のような不届き者は邪魔になるだけ。せめて狼の餌になるがいい」
殺が言い終える前に裂は反対方向に走り出していた。もちろん、ウルフマンたちの脚力に敵うはずも無い。
それでも、走らなければ終わってしまうのだ。
走らなければ。
走らなければ。
走らなければ。
心臓が過剰労働を強いられて悲鳴を上げている。
すぐ後ろに狼の息遣いが聞こえる。
やばい、これはやばすぎる。
死という現実が脳裏をちらついて、その時、目の端に何かが入った。
紅い閃光が入れ違いに狼たちに向かっていく。
背後が明るくなり、ウルフマンの絶叫がこだました。
「!?」
裂が振り返るとそこは、火の海になり、ウルフマンたちは炎を灯した仲間の死体を前にたじろいでいる。
そして、その炎に照らされた紅い影は目に見えるほどの赤黒い魔力を放っていた。
「貴様は!」
「命拾いしたわね、牧原裂。でも、これは私からのちょっとしたお礼よ。受け取ってちょうだい」
背を向けたままの赤毛の魔女、神緋庵慈。
いつものおどけた口調はどこへやら、彼女の声は静かな怒気を帯び、腹のそこを振るわせるものだった。
「何のつもりだ……」
「あなたがドジをやらかしたおかげで私はチャンスを手に入れた。ありがとう」
「ぐッ……!」
庵慈は炎に包まれた廊下の先を見ていた。
赤の中に光る白銀の狼も庵慈を見つめ動かない。
「ダイゴ……」
愛おしそうにその名を呟いて庵慈は視線を隣の殺に向けた。
「あなただけは許さないわよ……。ダイゴを返しなさい!」
「やはりしゃしゃり出てきたか、出来損ないの魔女! 貴女は五大魔女をまだ名乗っているのか。ここにも顔の皮の厚い人がいたものです。
彼は私を選んでここにこうしている。貴女が口出し出来ることじゃないでしょう……!」
「ガキのクセして勝手に人の男を自分のもの扱いしやがって、あまつさえこの私を弾くなんていい度胸してるじゃない!
あんたの脳内自傷恋愛に付き合わされてこっちも気が滅入っているのよ!」
「妄想の激しい人ですね。ダイゴ、小うるさいので殺してしまってください」
「ッ!」
静かに頷き、白銀が炎を飛び越え、ほんの数歩で庵慈の目の前に降り立つ。
数秒、庵慈と視線を交わすと、その場に拳を打ちつけた。
ギリギリで庵慈が身を翻し、白銀の隙を見るが攻撃が出来ない。
それを苦く思いながら庵慈は第二撃を避け、後方に跳ぶ。
「ダイゴ……! あなたと戦えるわけ、ないじゃない……!」
狙いはただ、向こうにいる久遠寺殺。それだけだというのに彼女の前には白銀が立ちふさがる。
炎の揺らめく奥で勝ち誇ったような笑みを浮かべる殺。
「あんのガキィィィ!!」
白銀の後ろから炎の矢を飛ばしても彼女の前のウルフマンたちが自らの身をもって立てとなり、全く届かなかった。
そして、白銀の猛攻からもいつまでも逃げていられない。
「”真実の魔女”、飛んで火に入る夏の虫ですね。もっとも、この炎は貴女の放ったものだけど、フフフ」
庵慈の劣勢は明らかだった。
まさに殺の言葉どおりになろうとしている。
それでもまだ白銀の無効の殺だけを狙おうとする庵慈。
二、三歩、白銀が庵慈に迫った時だった。
白銀の動きが緩慢になり、動かなくなってしまう。
「!?」
白銀の目だけが庵慈の向こうを見ていた。
「巻き込まれるのはごめんですね……!」
青い目が裂を刺す。
だが、額に汗を浮かべた裂は唇の両端を釣り上げ、魂を吸い取る杖を構える。
「牧原……! よし、そのまま押さえておき」
「何を無茶を言いやがりますか!? 僕はこんなところで死ぬ人間じゃないのです!! 世界に偉業を残すという使命が」
「魂の一個や二個ケチるな!!」
「教育委員会に訴えますよ!?」
どちらも無茶を言い合うが牧原の表情はだんだんと険しくなっていく。
ウルフマンほどの怪力の持ち主を抑えるのは相当なエネルギーが必要なのだ。
「これ以上暴れられては困るんですよ!」
裂は杖を抱えるようにして反対方向に足を向ける。
庵慈も、何歩かその場を踏んだが、同じように裂の後を追う。
勝ち誇った殺の高笑いが廊下に響いていた。
走りながら庵慈は唇をかみ締める。怒りに血が噴出し、唇が真っ赤に染まっていた。
「言っておきますが、これで借りはなしですからね」
「分かっているわよ……!」
裂の生意気な言葉で少しは頭が覚める。
それでも悔しさのあまり涙が溢れていた。
一方、裂も殺の言ったことを模索する。
字利家が帰ってくる。そして、自分は魔女部に見限られたのだ。
「フン、昔から気に入らなかったのはこちらですよ……」
裂はソウルイーターを握りなおす。
* * *
光の矢が天を割る。
漆黒の朝鳥は高台からそれを見守っていた。
たなびく虹色の尾、長く伸びる影、確かな青い瞳。
「今日も無事に夜が明けたな」
殺せ。魔女を殺せ。それは楽園の夢を見る全ての人々を苦しき現実に呼び起こそうとする。
名で豊穣の大地を示し、銀の暁を率いた漆黒の朝鳥はいつしかお前の前に現れるだろう。
必ず、狩れ。許されたければ、夜明けを告げる黒き魔女を狩れ。
「だが、人の子たちが目覚めるのはまだ先か……」
その名はチロル。
銀色の太陽を、激しい東風を引き連れた”神”を否定する認識不可の魔女なるぞ。
<続く>
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