NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
11 *乙姫/dragon*4
本当は何もかも理解できていない。
乙姫にとってそれでも良かった。
いつものように皆で笑えればよかった。
しかし、それが上辺だけのもので、本当は腹の探りあいをしていたと思うと、それを知らなかった自分が恥ずかしい。
あの時、心から笑っていたのは自分だけだったのだろうか。
そして、彼らは自分のことも疑っているのだろうか。
スナック菓子の袋に手を突っ込んでは口に運ぶ。
何かを食べると精神が安定する傾向にある自分を知っていて乙姫はロッカーに駄菓子を放り込んでいる。
それを引っ張り出して屋上に逃げ込んでいた。
「…………ふぅ。お姉ちゃん、昔はこういうの、健康に悪いから食べちゃダメだってうるさかったな……」
厳しく、生真面目な姉だった。
いつも自分を叱り飛ばしていた。
だが、今は自分を見ていてくれるのかもわからない。
そうしてまた駄菓子を口にして、渇いた口の中を炭酸のきついジュースで潤す。
炭酸のジュースも、姉の織姫に”歯が溶ける”とよく脅されたものだ。
その晩に大泣きしたことを思い出してなんとなく気が楽になった。
屋上から見る景色はいつもこの学園に相応しくない綺麗なものだった。
東側は紺色に、西側は朱色に染まって、地平線は七色に光を放っている。
じりじりと太陽が降りていってしまうのが音に分かった。
がちゃん、と派手な重い音が屋上に広がる。
振り返ると、長身の逞しい男がシガレットケースを片手にぽかんとしている。
それも一瞬、彼は頭をかいて乙姫に向かってきた。
「あんだ、生徒いたのか……」
「あっと、えっと……幸野秋水、さん?」
タバコを取り出して口にくわえると、歪んだ黒いジッポで火をつける。
思い切り吸い込んでニコチンが身体にめぐると、彼はほっとしたようにフェンスに寄りかかった。
「なんだ、お前も魔女っ子か」
「魔女っ子……って」
「全く、大そうな学園だな、ここは」
「…………」
嫌味を言っているはずなのに、秋水の表情は柔らかい。
大きく煙を吐いて彼は背筋を伸ばした。
「悪いな、たそがてるところ。ちょっと一服していから帰ろうと思ったんだがなぁ」
「あ、いいんです、あんまり大したことじゃないし……」
「あ、そう。ならいいが」
簡単に引いて少し拍子抜けした乙姫は何もいえなくなり、つい黙ってしまった。
だが、お構い無しに秋水は話しかけてくる。
「庵慈がこの学園にいついてもう五年か……。早いもんだな、あの女が日本から離れなくなってから。
生徒の視線から見て、あの先生はどうなんだ?」
「え、あの……ちゃんと話を聞いてくれるし、話がわかるし、いい先生だと思います」
「ほう、庵慈がね……。暴力は振るわれて無いか?」
「ぼ、暴力!?」
意外な単語に声を上げる乙姫。
庵慈は穏やかでそんな素振りを見せた覚えも無い。
秋水と庵慈はどんな関係なのか、疑問を顔に出すと、秋水は簡単に読み取ってあっさりと返した。
「ああ、俺と庵慈? 古い縁だな。ボスニアで行き倒れになったら庵慈達が通りすがり、インドで大きな仕事を終えればあいつ等は食い扶持無くしてた」
「庵慈、達?」
「庵慈の男だよ。俺達は三人でいつもバカやってたよ。庵慈も今ほど人間がなってなかった。
そうか…………。ここにきてなんとなく分かったよ」
秋水の視線は森を撫でるようだった。
「生きた亡霊を弔えない魔女……か」
「え?」
問い返しても、今度は誤魔化すように携帯用の灰皿を取り出して、タバコの吸殻を収めた秋水。
それ以上問い詰めようともせず、乙姫は聞こえなかったことにした。
「それじゃあ、もう行きます」
「あ、悪いな、邪魔して」
「いえ」
苦笑と共に一礼して乙姫は退散する。
気がつけばもう東も西も紺色に包まれて淡く星を灯していた。
階段を急いで駆け下りる。
なんとなく屋上でたむろしてしまったが、今の時間なら部活も終わって魔女部が本格的に動き始めるころだ。
学園内は魔女部に背を向けた以上、乙姫には危険な場所になってしまった。
大抵の事は一人でも大丈夫だろうが、今は均衡状態で魔女部の動きも読めない。
「……、……今」
誰とも知れず聞きかけて乙姫は立ち止まった。
今、何か聞こえた。
階段の踊り場で立ち尽くし、周囲を見回す。
特に目に付くものはなく、神経を研ぎ澄ましても、周辺には誰もいない。
「気のせい……かな」
気を取り直して、階段を下りなおそうとした時、乙姫はまたその音を耳にした。
何か、うめき声のような、怒っているような声だ。
恐ろしくなってまた見回すがやはり誰もいない。
だが、声はどんどんと近くなっていった。
いや、違う。
はっとなって乙姫は自分の口に手を当てた。
「……ッううぅぅ〜!」
自分の口から漏れていた声だ。
近づいてきたのではなく、それがどんどんと露骨に漏れ出す。
「うー……ッ」
さらに、背後から自分の声が重なる。
背筋が凍りついて乙姫は振り返った。
蛍光灯に照らされた薄い影がぶよぶよと蠢いている。
そこから聞こえる非難の声は確かに自分のもので、しかし、そんな風に罵ったことは無い。
どんどんと声は重なって膨張しいてく。ただ唸るものもあればぶつぶつと何かを唱えるものもあった。
「ぃ……いやあぁああッ!!」
叫ぶと同時に無我夢中で走り出す。
とにかくどこに行けばいいのか分からなかった。
いつのまにかヘッドホンから垂れ流しになっている音も途絶えている。
最初に浮かんだのが保健室だった。
階段を下りて一階の保健室の前まで辿りつく。扉を開こうと手をかけたが、鋭く紫色の雷光が走った。
「ッ!!」
指先を咄嗟に引っ込めるがじりじりと焼けるように痛む。
もうすでに庵慈の結界には無効となっているはずなのに。
「裏切られた、裏切られた、裏切られた!」
背後の影がそうまくしたてた。
まさか、そんなはずはない。
「庵慈先生ッ!!」
抵抗するように叫ぶと、保健室の中からどたばたと騒々しい音を立てて扉を開く庵慈。
何事かと目を丸くした彼女だが、その背後の影を見ておぞましいものを見る目つきになった。
「な、なに、これ……!」
乙姫の影には大蛇が何匹もうねっているようにも見えた。
てらてらとした波が膨張している。
座り込んで顔を手で覆っている乙姫に手を伸ばそうとした庵慈だが、その手を狙って、影が鋭く触手を伸ばす。
「ック!」
身を翻して攻撃を避けた庵慈だが、その触手が空中で一度失速したと思えば今度は狙いを彼女の首に定めた。
左右から触手は伸び、束になったそれが庵慈の首に絡まる。
両腕を首の前に構えて隙間を作るがそれでも腕ごと軋んでいた。
「う、うぅぅッ……先生! 燃やして!!」
乙姫の影と繋がっているその触手が乙姫の身体に影響があるのならそ出来るだけ手は出したくはない。
しかし、このままでは自分が危険なことのわからない庵慈では無い。
すぐさますみれ色の邪眼の瞳孔が急激に細まる。
彼女の視点がそろった触手の一点に向かってどこからともなくオレンジの光の矢が飛んできた。
ぼっと音を立てて燃え上がる触手だが、燃え広がることなくそのまま鎮火していく。
「クソったれ!!」
炎が通用しない。
それでも庵慈はムキになって炎の矢を放つ。
同じように激しく引火しようとも、だんだんと炎は小さくなっていた。
「ぬ……嘘でしょ……! こんなところで終わるなんて!!」
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