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NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
3 *聖剣/2046*3
 大嫌いな幻影を思い出した。
 同時に、蘇るさよならの歌と夕映えの光。
 草笛が奏でるか細い音色が確かに遠くまで響く。
 石橋の上から見る聖都の夕日。
 その黄金の影は、誰そ彼?

 彼は誰?

 金色の風景が目いっぱい広がっていた。
 石橋の縁に腰をかけて、金色の髪の男が草笛を吹く。
 か細く、遠く響くその音色は別れの歌を奏でている。
 悲しくは無い、そんな別れのメロディーに不思議な感覚を覚えた。

「どうして悲しくないの?」

「それは、去っていった人を信じているから」

 男はそう答えて笑った。
 逆光に陰になる顔を飾ったエメラルドの瞳。
 赤い世界に緑が良く映えた。

「それでは、僕もさようなら、さようなら。また逢う日まで」

「どこに行くの?」

「黄昏は、誰の影を見せている?」

 黄昏……。
 誰そ彼、その影が誰のものかもわからない世界。
 そこで見失ったのは、誰そ彼。

 彼は誰?

 酷く乱暴に呼ばれている。
 叱られているような気分になった。
 どうしてそんなに関わってくるんだ。一人にしておいてくれ。
 言葉にならず、声がまだ続く。

「黒金、黒金!」

 誰そ彼?

「大丈夫か、黒金!」

 ああ、あのお節介な声だ。
 身体の感覚がはっきりとし始め、絹夜は目を開いた。
 案の定、風見チロルが横で喚いていた。
 全身の痺れは無い。あの怪我はまるで嘘のように消えていた。

「…………?」
 
 今、自分がいるのは保健室のベッドの上ということ、身体は全快していたということを確認して上半身を起こす。
 確か、あの後、藤咲が……。
 藤咲がどうしたというのだ。

「起きたか……」

 ほっと一息ついたチロルは埃まみれで頭もボサボサだった。
 こんな状態のやつにどうして心配されなくてはならない。絹夜はベッドから降りてチロルの横を通り、出口に向かおうとした。

「黒金、すまなかった、私がやはりついていけばよかったんだ」

「やめろ、迷惑だ」

「しかし、それでは非効率的になるだけだ。ディフェンスは私なのだろう!?」

「俺はいい、他を守れ」

「それでは意味が無い!!」

 視線を落とすと、チロルが涙目で訴えかけている。
 どうしてコイツはこうも暑苦しいのだ。

「うぜぇよ、本当、お前はよ……」

「なんと言われようと構わない。私は私の使命を全うするために全力をつくすだけだ。
 同時に、私は後悔をしたくは無い。もう、これ以上の不始末は許されない」

「それはお前の問題だ、俺には関係ない!」

「大いに関係ある!」

 どうしてチロルがそこまで意固地になるのかわからない。
 誰かのために自分を傷つけても構わないという気持ちが絹夜にはわからない。
 そして、何故、わかってもらえないのか、チロルにはわからなかった。
 相容れない存在。光と闇のようにお互いの存在を否定しあって何になる。
 絹夜はチロルに背を向けて保健室から出ようとした。
 窓からはまだ濃紺の空に月が見える。
 
「あら、絹夜君、もう帰っちゃうの〜?」

 デスクで爪を磨いていた庵慈が甘ったるい声でその背に呼びかけたが返事もなかった。
 拒否するように扉が音を立てて閉められる。

「ウフフ、若いっていいわね」

「先生、何を呑気な!」

 奥からまだ気丈を取り持とうとしているチロル。
 目を腫らして訴える彼女の事情はわかるものの、庵慈は同感しかね、彼女を慰めることはしない。

「チロちゃん、あなたは心配性なのよ。そんなに理屈っぽく構えてると早くオバサンになっちゃうぞ〜」

「私に時間は関係ありません……」

「…………そっか」

 その目だけやけに老いを知っているチロル。
 慈悲と慈愛を知っているだけあって彼女は理解されない。
 そして、無償の慈悲と慈愛を与えながら彼女は傷ついていくのだ。
 それが彼女の全うすべき使命だ。

「すみません、先生を困らせるつもりはないのです。私の弱さがいけないのです、私が弱くなければよかったのです…………」

「チロちゃん…………」

「先に世界を裏切ってしまったのは私です。今は私が世界に信じてもらえるように贖罪を果たすほかに無いのです…………。
 喩え、許されなくても私は全てを受け入れなくてはならない。ここで起きることの不幸の全ては私の責任です。
 ですから…………」

「ストーップ、アーンド、シャラーップ」

「…………すみません」

 少しふてくされたような顔つきになった庵慈がふっと爪の先を吹いて爪鑢をチロルに突きつけた。

「風見チロル、それは矛盾よ。あなたが嫌いな矛盾なのよ。私が不注意で躓いたらあなたのせいなの?
 私が男にふられたらあなたのせいなの? 誰もそんなこと思って無いわよ。もうちょっと毅然としたほうが風見チロルらしくてよ」

「…………。そう、ですね。すみません」

「謝ってばっかり。あなたは本当は気の弱いコなのね…………」

「…………」

「崇高で、繊細で、潔白で…………。あなたはたくさんのことを知っているというのに無垢な子供のようね。
 でもね、チロル。それでは絶えられないのが人間なのよ。闇黒も恐ろしければ強すぎる光も恐ろしいのが人間。
 少なくとも私は、完全平等に愛を奉仕するあなたが恐ろしいわ。まるで、神になろうとしているあなたが…………」

「…………」

「人間は怖いの。恐れる生き物なの。あの黒金とて変わり無いわ。いいえ、あの黒金だからこそあなたを恐れるの。
 強すぎる光は白い闇黒に過ぎない」

「…………私は、所詮人間にはなれないのだろうか…………」

 庵慈は沈黙した。
 それが答えられない質問だったと気がついたチロルは一例とまたお礼の言葉を述べて保健室を出る。
 足早に向かった警備員室にて、まだ居間に寝転がっている卓郎に震えを悟られまいと気丈に同じような質問をした。

「卓郎、私は人間にはなれないのか?」

 否定を望んで願いながら待つ。
 すると、

「人間たる要素とはなんぞや」

 振り向こうともせずにケツなんかを掻きながら卓郎があっさりと流した。

                    *             *            *

 神を信じるものの中に神はいなかった。
 神を崇めるものの中に神は姿を現さなかった。
 これだけは声高に叫んでやる。
 お前たちは恐れおののいている理由が欲しいだけだと。
 宗教なんて自分ではどうしようも出来ないやつの言い訳で、自分には本当は必要の無いものだと。
 慈愛があるならば、どうして重い枷をかけた。
 慈悲があるならば、どうして冷たい轡をつけた。
 神がいるならどうして正義を示してくれなかった。
 連中は悪魔や獣を封じるように人間を恐れる。

「脆弱…………。否、元よりそのような生き物なのだ」

 寮に戻り、洗面台の鏡の前で自分の身体についているはずの傷を見る。
 無い。
 何も無い。
 病弱に見えるほど白い肌に相反して筋張って筋肉質な身体の上には傷跡はなかった。
 鎖骨の下に薄っすら青く血管が浮き出て、聖剣2046で傷つけた腕にも、もちろん手のひらにも、足にも何も無い。
 チロル?
 いや、神緋の力だろう。余計なやつがまだいたのか。
 
「チッ、恩着せがましい…………」

 まとわりつくような生温かい”優しさ”が不快だ。
 鏡を覗き込む。
 わかっている、わかっているとも。自分は弱いのだ。
 傷つき、傷つけるほかに能の無い、獣なのだ。
 それなのに、どうして守ろうとする。

「…………」

 本当に目障りだ。
 鏡に背を向けた。
 そこに映ったのは、細い背中の上に広がる十字の刺青だった。
 黒羽を広げた十字の下には細かく洗礼の文字が連なり、最後に数字が大きく刻まれる。
 ――2046、と。

                   *             *            *

「おはよう、絹夜君……」

 翌朝も昨日と同じように怯えるように声をかけられ絹夜はまたまた不機嫌になった。
 乙姫もそれ以上何を言うでもなく絹夜の調子を窺いながら視線を投げている。
 取り繕った朝の風景。今日も同じだ。
 
「進歩の無いやつめ。お前の辞書には”恩恵”と”感謝”と”謝罪”という言葉が見当たらん」

 朝からまた目障りなのが横口を入れた。どうして考えていることがわかったのか知れないが、この女とは相容れないだろう。
 金髪蒼眼、上品に整った顔立ちに固い口調、風見チロルはすでに天敵である。
 このまま付きまとわれると思うと頭痛がした。

「朝一番に嫌味とは、相当カルシウムが足りないようですね、風見さん」

 ゆっくりと視線は合わせずに嫌味を返した絹夜。
 その隣でチロルは涼しい顔で教科書を鞄から取り出す。

「そうでもございません、黒金さん」

「も、もう、本当、やめてよ〜!」

 二人の放つ険悪な空気に乙姫が悲鳴を上げた。
 これ以上言わせればまたいつかのように決闘になりかねない。
 フン、と二人が顔もそむけあって、必然的に絹夜が向くのは乙姫のほうだった。

「絹夜君、ええと……」

「日本語がわからないなら何語がいい」

「あ……う……」

「……Grazie」

 絹夜が不機嫌そうに、吐き捨てるように乙姫にイタリア語をぶつける。
 乙姫はわけがわからず、言葉を失い雷を避けるように頭を抱える。
 だがその奥でチロルが目を丸くした。
 そして、彼女はそっと笑った。
 黒金絹夜――面白いやつだ。

















 <続く>



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